04
 休日の朝だった。
 満天堂の二階には、白い布を半円に敷き詰めた暗室がある。その真ん中には、プラネタリウムの投影機を小型化した、形のそれぞれ異なったレンズの填め込まれた円形の機械が置かれていた。

「趣味でプラネタリウムを作っているんだ」

 星名は機械をいじりながら言った。
 その手には、以前祖父に頼まれて届けた恒星原版。レンズの一つを器用に開けて、原版を投影機の中に組み込んだ。よし、と満足げに星名は頷く。

「これでなんとか行けるだろう」
「あの、星名さん、今から何をするのですか?」

 邪魔にならないようにと部屋の隅にいたふみは、わけがわからずという表情で星名を見つめる。彼は、そのうちわかるから、と何も説明をしてくれないのだ。それが、ふみを少し不安にさせる。
 星名は申し訳なさそうに小さく微笑み、言った。

「これから夜空を取り戻しに行くんだよ」

 電源のスイッチが押される。投影機が低く唸りをあげて廻り始めた。明かりの消された部屋の隅々に、レンズから光の線が真っ直ぐ伸びる。

「さあ、僕の手をしっかり握っておくんだよ」

 星名は細くしなやかな手を差し出した。
 少女は少し躊躇う。この手をとったら、いったいどうなってしまうのだろう。怖いかい、とチェロの声音が囁く。ふみは頭を横に振り、にぎりしめた拳を緩め、ゆっくりと星名の手に重ねた。今は信じなければ。
 しっかり握られた手から、確かな鼓動が伝わり、心がすうと穏やかになる。

「さあ、行こうか。イーハトーヴへ」

 閃光が走る。それは瞬く間のことだ。
 汽笛の音が聞こえた。
 気がつけば、宇宙を走る汽車に乗っていた。車窓から見える星々が足早に走り去って行く。
 星名はふみの手を握ったまま、じっと前方を睨み付けていた。声をかけようとしたけれど、一体何を話せばいいか分からずにやめる。ふたりだけを乗せた汽車は進む。
 アンドロメダを過ぎ、羽を大きく広げた白鳥座の停車場を過ぎ、鷲座の一等星が七色に光るのを夢心地で見送った。汽車はなおも進む。
 最早、どの星がどの星座を作っているのかさえわからなくなってきた頃、あたりが赤く染まった。窓の外でルビーよりも透き通った赤く美しい火が燃えている。さそり座のアンタレスだ。

「これは急行だから、もうすぐ着くよ」

 星名は言い聞かせるように囁く。
 名前も知らぬ星が流れていった。ふみは段々と、懐かしい気持ちで満たされてゆく。ずっとむかし、この景色を見た気がする。膝の上には、いつの間にかあの天体スコープが乗っていた。
 ケンタウルス座が車窓いっぱいに広がった。硝子に映るふみの姿は見知らぬ少年へと変わっていた。

――ああ、ぼくは友人に逢うのだ。

 自然と頬が緩む。心が弾む。
 サザンクロスを抜けて、大きく広がる暗黒星雲へと近付いて行く。汽車が緩やかに減速し、やがて白い煙を吐き出しながら止まった。

「さあ、行っておいで」

 きっと待っているはずだから、と隣に座る大きな黒い帽子で顔を隠した大人が優しく言う。少年は力強く頷き、天体スコープを抱えて、飛ぶように汽車を駆け下りた。
 走って、走って、風のように。鉱石でできた石畳の道は長く、果てしなく続いているように思えた。足が地面を弾くたび、色とりどりの閃光が静かに跳ねては消えてゆく。
 やがて、前方にベンチと電燈がぽつんと置かれた場所が見えてくる。そこに白い影がぼんやりと現れた。

「カムパネルラ!」

 そうだ。それが大切な友人の名前だ。どうして忘れてしまっていたのだろう。
 ベンチに座った少年が顔を上げた。その瞳が驚いたようにひらかれた。

「ジョバンニ、君いったいどうしてこんなところに来たんだい」
「銀河鉄道だよ。昔、一緒に旅をしたじゃないか」

 ジョバンニは頬が紅潮するのを感じた。そうか、とカムパネルラは考えるように、瞳を伏せた。長いまつ毛が影を作り、その表情は伺えない。

「それ、ジョバンニが持っててくれていたんだね」

 天体スコープを指し示す。カムパネルラが大事にしていたもの。彼はどこか懐かしそうに笑いながら、よかった、と呟いた。
 でも、とジョバンニの顔は曇った。

「どうやら壊れてしまったみたいなんだ」

 いくら覗いても、あの星空が見えないんだ。差し出された天体スコープをカムパネルラは受け取り、くるりと両手の中で回した。大丈夫だよ、と優しく言い聞かせる。

「ぼくが悪いんだ。星空を一緒に持ってきてしまったようだから。どうすれば返せるのだろうかって、ここで考えていたのさ」

 ほら、とカムパネルラはポケットから何かを取り出す。黒曜石でできた小さな小さな恒星原版だった。

「ジョバンニが来てくれて良かった。これでぼくも心残りがなくなるよ」

 微笑んだ顔がかすかに輪郭を失う。カムパネルラは天体スコープを器用に開いた。中は黒い空洞になっている。
 ねえ、と少年は手を動かしながら問いかける。

「ほんとうのさいわいは一体何だろう」

 カムパネルラの瞳には綺麗な涙が浮かんでいた。

「ぼく、わからない」

 ジョバンニの言葉に、カムパネルラはくすりと笑う。それ、君がむかしぼくにした質問だよ、と涙を拭った。その手元に視線を動かせば、ちょうど恒星原版が小気味の良い音を立てて組み込まれるところだった。

「これで見えるはずだよ。覗いてごらん」
「ありがとう」

 小さな覗き穴に瞳を合わせる。ぼやけていた視界は、やがて焦点が合うようにしてちいさな白い点を捉えた。
 天の川が目の中いっぱいに浮かび広がる。赤や青に輝く大きな星々。その間を流れ星が一つ二つと流れていく。ジョバンニは思わず感嘆の声を上げ、箱の中の宇宙に夢中になった。

「君は本当の幸福を探さなければならないよ。この先にあるマゼラン星雲を超えて、お戻り。きっと大丈夫、あのひとがついているから」

――さようなら。

 子守唄のように耳元を撫でた言葉に、ジョバンニははっと、天体スコープから顔を上げた。隣に座っていたはずのカムパネルラの姿がどこにも見当たらない。
 ひんやりと冷たい涙が心の中に降るのを感じた。

「友人には会えたかい」

 いつの間にか、黒い帽子の大人が隣に座っている。彼は読んでいた本をぱたりと閉じて、こちらに視線を移した。

「ブルカニロ博士」

 名前を呼ぶ。

「あなたはどうして、最後の物語に現れてはくれなかったのですか」

 この物語は四度ほど改稿され、けれど、作者は完結することが叶わず、その想いはイーハトーヴという世界を生み出した。
 ブルカニロ博士は第三稿まで登場している人物であると、かおる子から借りた本を読んで知った。
 けれど、どうして、忽然と消えてしまったのか。

「それは、彼が間違えて私を現実に引き込んだからだよ。彼は彼の心象スケッチの管理をしっかりしないもんだから」

 博士は呆れたようにため息をついた。
 心象スケッチに夢中になった作者は、やがて現実と心象の境が曖昧になっていく。ブルカニロ博士はそんな中で、何かの手違いで現実のひとになってしまった。

「まったく無責任だよ」

 おかげで、物語の中の実験は途中のまま。彼の身体はひとと同じだけれど、不思議なことに歳をとることを知らない。己を生み出した友人の死を見取りながら、なお呼吸をし続けている。

「でも、また逢えてよかったです、星名さん」

 少女は泣き笑いの表情で言葉を紡いだ。
 肉体を持たない物語の登場人物達は、現実を生きるもの達へと心だけを写した。物語で生きる彼らの記憶は常なら思考の深層で眠っている。けれど、ときおり目覚めることがある。そう、ふみのように。
 星名はその頭にぽんと手を乗せ、柔らかな髪を撫ぜる。そして立ち上がると、手を差し伸べた。ふみは静かにその手を握り返した。

「さあ、イーハトーヴの夢は終わりだ。帰ろう」

 遠くで眩しいほどの大マゼラン雲が、紫の光を讃えて輝いている。

「わたし、きっとほんとうの幸福を見つけます」
「うん、僕達は真っ直ぐに進まなければいけないよ」

 けれどその前に、と星名は思いっついたように呟く。「まず腹ごしらえをしなければ」
 その言葉に、ふみはくすくすと笑った。
 何がいいだろう。デザートは昨日作ったアイスクリームにするとして、オムレツに、マッシュールームのスープ。星名が悩むように、美味しそうな料理の名前を上げていく。

「ハムとチーズのサンドウィッチがいいです」

 ふみはかすかに空腹を訴え始めているお腹を押さえ、困ったように言う。星名は声を上げて笑った。

「そうしよう」

 繋がれた手は帰る場所を伝える指標だ。
 ふみは天体スコープを大事に胸に抱え、いつか友人と見上げたあの星空を思い、瞳を閉じた。



 星めぐりの歌を夜風にのせ、開け放たれた障子窓から、青年は空を見上げていた。手元には万年筆と原稿用紙が広がっている。
 彼が作り出した物語は後世、人々に愛され、ときには現実へと渡りながら、ひっそりとどこかで星のような淡くも力強い光を放つのだ。

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