月宵の宴
 後編 
 広く縁取られた窓から日が差し込む、心地いい昼下がりだった。
 なだらかな階段状になった座席にはまばらに生徒が座し、講義に耳を傾けていた。五月はノートを広げ、とんとんと小刻みに開かれたページを鉛筆で叩いた。
 教授の声は天井の高い講義室の隅から隅まで届いたが、彼の耳には届いてない。頬杖をつき、考えることは昨日の会話だ。それが頭の中で反響する。
 香久月家は平安時代より京の地に居を構える旧い家柄である。貴族に加えられた名家であり、現在が何代目であるか訊ねたときは、その途方もない数に戸惑ったくらいだ。代々より女性が当主を勤め、不思議なことに先代が亡くなると三月みつきほどで竹より女児が産まれてくる。彼女たちこそがかぐや姫の末裔であり、妙齢になるまでは守り兎の加護を受けて大事に育てられるという。
――香久月家の当主はかぐや姫の心を受け継いで生まれてきます。
 それは月の国では「罪」とされる感情というものである。
 夜光が語ったことによると、かぐや姫は月の国からの迎えがきたとき、大切な感情を消されることを憂い、地上に残すことを選んだのだという。
 それは惜しくも月の国の矢によって二つに別れた。嬉しさや愛おしさ憂いの感情は女児に姿を変え、怒りや嫉妬心の感情は身を焦がす業火へと形を変え宿主を探し彷徨い続けることになったのだ。――その業火こそが、五月が祓ったあの通り悪魔の正体というわけだ。
 かぐや姫は、守り兎たちに己が感情を守るようにと願いを託した。以後、長い年月を夜光と真白は主の願いを守ってきたのだ。そして、新しい当主を迎えることになった。
 切り揃えられた艶やか黒髪と伏せられた長い睫の下に憂いを隠した美しい少女の姿が記憶から呼び起こされる。香久月茜という名の少女。
 香久月家の当主となる少女は、十五を迎える年に片割れの感情を迎える儀式を行う。業火のような感情を受け入れることで人間として認められるというのだ。その儀式が行われるのは十五夜の夜――。京に古より棲まう大妖たちを後見人として、月見の宴を開き、業火に燃える感情を浄化して受け入れる。
 その際、弓矢を持って当主を守り浄化を行う近衛役がいる。これは通例ならば守り兎の夜光が担う役目であるが、彼ら守り兎にとって予想外のことが起こってしまった。
 十五夜が近付くにつれ、通り悪魔の力は強まっていくのが常だという。
――しかし此度の通り悪魔は、茜さまが幼い頃より現れては悪戯に惑わせるのです。
 夜光は着物の袖をたくし上げ、右腕を見せた。手首の上から肘を越えた辺りまで包帯に巻かれ、その隙間から赤黒い痣が見て取れた。痛むのか、夜光の顔が少し歪んだ。
――これは私が受けたじゅです。
 屋敷をひとり抜け出た茜を守るため、通り悪魔より受けた穢れだ。
 これでは、浄化を行うことはおろか弓矢を持つことは難しい。偶然か必然か、左京はこのことを知った上で五月に使いを頼んだということか。五月は呆れるよりも関心の心持だった。

 校門を出ようとすると、そこにあまり似つかわしくない人影を見つけて立ち止まった。
 通り過ぎる学生たちから注がれる視線に、居心地悪そうに視線を伏せるセーラー服の少女。茜だった。
 彼女はふっと視線を上げた。五月と目が合うと、頭を下げて挨拶をする。どうやら自分に会いにきたようだと推察して、五月は少女に声をかけた。
「こんにちは、茜さん。具合はいかがですか?」
 茜はびくりと肩を震わせて、慌てて頭を縦に何度も振った。
 その唇も震えていて、金魚のようにぱくぱくと動いている。緊張しているのか、言葉にならないらしい。
「守り兎は一緒ではないのですか?」
 訊ねると、唇を強く噛みしめ眉を寄せる。
 沈黙が続き、五月は首を傾げた。「あの……」とか細い声が聞こえたのはその時だ。
「真白が迎えに来る前に、あなたと話がしたくて……その」
 茜は眼を泳がせながら、言葉を捜しているようだった。
「……昨日は助けていただき、ありがとうございました」
 今にも消え入りそうな声音で呟いた茜に、五月は笑みを浮かべて「どういたしまして」と返した。
「ここではなんですから、少し歩きましょうか」
 守り兎たちがいないと、それだけで通り悪魔が現れやすくなる。それにここは人の目が多い。よからぬ噂が立つ前に、移動したほうが良かろう。邪推する輩がいないとは限らない。
 茜は素直に五月の後について歩いた。落ち着いて話が出来る静かな場所はあるだろうかと考え、その末に鴨川の土手を歩くことにした。
 穏やかな風の吹き、セーラー服のスカーフを揺らめかせる。茜は立ち止まり、しばらく流れる川の景色を眺めてから、五月へと視線を移した。黒目がちの大きな瞳の中で柔らかな光が揺らめいている。
「夜光と真白が無理なお願いをしたそうですね」
 先ほどとは打って変わって、落ち着いた声音で少女は話し始めた。
「全てはわたしのせいなのです。わたしが迷ったりしてしまったせいで、夜光に怪我を負わせてしまいました」
 茜は顔を伏せて、重ね合わせた手をぎゅっと握り締めた。
 五月は静かに問いかける。
「貴女は何を迷っているのですか?」
「わたしは……自分というものがわからないのです」
 その声が苦しげに震えていた。
 この少女は利発だ。だからこそ、己が宿命を疑問に感じている。それほど香久月家の月日が長かったということなのだろう。
「夜光と真白は、かぐや姫の感情が形をとったものが、わたしであると言います。お聞きになりましたか?」
「ええ」
 五月が頷くのを見て、茜は力なく笑った。
「そして、通り悪魔がわたしの感情の半身であると。業火に焼かれるような激しい感情の渦を受け入れることで当主として認められ、人間になれる」
 まるで傀儡のようだ、と少女は苦しげに眉を寄せた。
 とたん、五月は違和感を覚えた。このような表情をさせるもの、迷いや後悔――そういった感情は通り悪魔にあるものだと聞いている。少女たちは幸せな感情のみで幼少期を過ごし、やがて二つ目の感情を受け入れる十五夜を迎える。夜光が語るには、そうなのだ。
「……では、わたしのこの感情は誰のものなのでしょうか」
 五月はただ黙って彼女の言葉に耳を傾けた。
 茜は答えを探し出そうとしている。恐らく、これは守り兎に話すことに出来ない思いなのだろう。
「五月さん」
 少女は抑揚のない音色で呼びかける。
「わたしは知りたいのです。わたしが誰であるかを」
「……それで俺に力を貸して欲しいと、そういうことですか?」
 はい、と頷き少女は五月を見つめた。その瞳には迷いはない、けれど、微かに揺れている。怖いという感情は早々、消し去ることのできないものだ。
「ですが、成功するかわかりませんよ」
 それでもかまわないのか、と視線で問いかける。
 しばらくの沈黙が二人を包み込んだ。視界の隅で、鴨川の真ん中に立っていた白鷺が羽を広げ飛び立った。羽音に混じって飛び散った水滴が太陽の光を受けてきらきらと輝いた。
「それでも、わたしは知らねばならないのです」
 拳を強く握り締め、少女は五月を見上げた。
 それが、彼女が出した答えだというのならば――五月は弓を取らねばならないのだろう。
 

 十五夜を迎える頃には、辺りはすっか秋の香りをさせるようになっていた。
 五月から事の顛末を聞いた左京は、驚きはしたものの「お前なら大丈夫だろう」とまったく根拠のない理由で納得した。そして、力添えを頼んだから、とだけ告げた。
 山間は橙色に染まり、背後からは夜の群青色が迫っていた。月が姿を見せ始めるにはまだ、少しの猶予がある。今宵の十五夜は見事な満月である。
 香久月家では月見の茶会を開き、後見人に薄茶を振舞うのが数百年前からの慣わしとなっている。その最後に感情を迎えるための儀式を行う。茶室はこちらとあちらの世界の狭間にあるという。どのように、その狭間へと向かうのだろうかという疑問は、左京があらかじめ準備をしていたためすぐに払拭された。
 猫星堂の奥の一室には、床の間があり、そこには普段とは違う屏風絵が飾れていた。
 薄が広がる広い野原があり、手前には竜胆の花が鮮やかに描かれていた。
「秋野という作品だ。これがあちらとこちらを繋いでくれるだろう」
 左京はひとり満足げに頷いた。
 そして前触れもなく、五月の背中を押した。
 落ちるような、それでいて吸い込まれるような感覚があった。開かれた眼には眩いほどの黄金色が多い尽くした。ここは絵の中だ。
「心配するな。向こうで案内人をお願いしている」
 気をつけて行くがいい、という声は恐ろしい速さで遠のいていった。
 気がつけば、薄の広がる野原に立っていた。山の向こうで、日が沈もうとしていた。その残光が薄に当たり、秋の風が吹くことで、黄金の海原のような景色を作り出していた。息を飲むほどに美しい場所だった。
 隣で笑う声が聞こえた。
「無事に辿り着けたか。さすがは野々宮家の者や」
 視線を巡らせると、白髪の細い髪を撫で付けた好々爺が立っていた。五月より頭ひとつ分背が低いが、その姿にはどこか畏怖めいたものを感じた。着物と羽織りは芥子色で、袴は利休色と落ち着いた着こなしだ。翁は細い目をさらに細めて笑ってみせた。
「さあ、参ろうか」
 翁が足を踏み出すと、野を縫うような小路が現れた。その脇には青紫の竜胆が咲いている。
 五月は翁の後について歩を進めながら、問いかけた。
「あの、貴方は?」
「おお、そうか。わしと会うんは初めてやったなあ。この前は吊香炉はええ品やったで」
 翁はどこか楽しげだ。五月は思い至った。
「……小薄さま?」
 すると翁は振り返り、にいっと笑ってみせた。
「わしも香久月家の茶会に呼ばれてたもんやで、左京君におまえさんを案内してくれないかとお願いされたわけや。面白そうだから引き受けたが……」
 小薄は片目を開け、五月を頭のてっぺんからつま先まで視線を巡らし、やがてひとり頷いた。
「うん。良さそうやな」
 ひとり納得されて、五月はますますわからない。
 いつの間にか、太陽はすっかり沈んであたりは群青の空にすっかり覆われていた。山際の赤い色を残すだけで、あと少しすればもう夜だ。振り返れば、山の狭間に月が上り始めていた。少し黄色を含んだ白い月は水鏡のように輝いていた。雲ひとつない空は澄み渡り、月に出来た窪みまでしっかりと見ることができた。
 夜風に薄が揺れて、波のような音色を作り出す。
 足元は竜胆の中の小さな光のおかげで不思議と明るい。五月は黙々と小薄の後を足早に歩いた。
 しばらく歩いて、小薄は足を止めた。
「着いたで」
 そう言って振り返り、その先にあるものを指し示した。
 野原の真ん中に、その茶室はぽつりと建っていた。茅葺の屋根に白い土壁、縁側があり障子が閉められてはいるものの、行灯の明かりがゆらゆらと部屋を照らし出していた。そこには人ならざる者の影があった。三つ足で羽を羽ばたかせる者と、もうひとつの長い体躯は蛇か――にしても随分と大きい。
 目を瞠る五月を横目に、ほっほっと小薄は笑った。
「あれが宵待庵や」
「……あの方々はお知り合いなのですか?」
「八咫烏に白蛇といえば、最上級の神使えやな」
 笑みを絶やさない翁を見つめる。その笑顔はどこか狐のそれに似ていた。
「なるほど、貴方は稲荷の御使いでしたか」
「勘がいいのは良いことや。さあ、行こうか。あんじょうやりなさい」
 頭を抱える五月は気にも止めず、小薄は躙口にじりぐちを潜り中へと入った。
 続いて庵の中に入ると、そこには美しい着物に身を包んだ妙齢の女性と恰幅のよい中年の男性が座っていた。小薄はそれぞれと挨拶を交わしているのを横目に、五月は化かされている心地だった。京はあやかしものが多い土地柄ではあると知っていたが、ここまで来ればもうどうしたものかわからなくなる。
「五月どの」
 背中越しに声をかけられ振り返ると、真白が襖の間から顔を覗かせていた。
「どうぞ、こちらへ」と手招きされて部屋を出ると、もう一間、六畳ほどの部屋があった。真白は何も言わず、五月の身支度を整えた。彼女は思いつめたような表情をしていた。これから五月と茜が行うことに、まだ迷いがあるように。
 平安時代の武官の装束に着替え、冠を被り、おいかけという飾りをつける。後ろ付けられた間塞まふさぎには矢が七本付けられているが、本物は一つだけで残りは飾りだ。重ね着をしているため、動くには少し難儀な装束だった。五月は一つ深呼吸して、茶の湯が行われる隣の部屋に控えた。
 障子戸が開かれ、夜風が入ってきた。
 空を見上げれば、点々と光る星の間を縫って、冴え冴えと輝く丸い月があった。
――それは、前触れもなく現れた。
 薄の野を掻き分けるように、赤黒い炎が近付いてくる。
 眼を閉じて時を待っていた五月は、ゆっくりと瞳を開けてまだ先にある炎をとらえた。どのように執り行えればいいのか、既に聞いている。
 ゆがけを手に巻き、弓を取り静かに立ち上がる。くわのくつを履き、庭へと降り立った。茶室の前へと歩を進め、奥に座していた茜に一瞬視線を送った。華やかな薄紫色の振袖に身を包んだ少女は、緊張した面持ちで頷いた。
 庭に進み出てて、立ち止まる。矢を取り出し執弓の姿勢をとる。矢は大鏑という射れば音の鳴るものを使う。この音が魔を祓うのだ。
 通り悪魔は既に、目前まで来ようとしていた。
 矢番えをし、一拍置いて足踏みをする。この弓を射るまでの動作、張り詰めたような空気が好きだった。静かに弓を打起し、ゆっくりと丁寧に引き絞る。炎を纏った魔の者は、射的内に入っていた。目を凝らせば、それは少女の姿をしていた。茜と瓜二つのその顔には、恐れに似た感情が垣間見れた。
 射れば、それを祓い、茜の元へと還るのだろう。けれど、彼女はそれを望まなかった。だから――。
 五月は弓を下ろして振り返った。
 茜の傍に控えていた夜光と真白が悲鳴じみた声で五月の名を呼んだ。
「本当にこれでいいのですか?」
 訊ねる。
 茜はそっと笑みを零し、深く頷いた。
 それが合図だった、五月はゆっくりと弓を引き絞り、そして、矢を放った。風を切る低い音が、虚空の空に響いた。


 猫星堂にその客が訪れたのは、昼下がりの日曜日だった。
 深緑色のワンピースの裾をなびかせて、やって来た少女は、
「ごめんください」
 と、遠慮がちに声をかけてきた。
 店番をしていた五月は読みかけの本から顔を上げて、入り口へと眼を向けた。その人影が誰であるかわかると、めったに見せない笑みを浮かべて見せた。
「こんにちは、茜さん」
 すると彼女もはにかんで小首をかしげて見せた。
「こんにちは、五月さん。お忙しそう?」
「いや、見ての通り、この時間帯は一番暇なんだ」
 そう言って手招きすると、彼女は帳場のすぐ横に座った。どこかすっきりした面持ちの少女は、どこも変わったところがなくて少し胸を撫で下ろす。
「守り兎たちの様子はどうだい?」
「まだ戸惑っているみたい。……でも、わたしが選んだことだから」
 軽く頭振ると、さらさらと髪が舞う。
 十五夜の夜から幾日が過ぎ、秋はすっかり深まってきた。
 あの夜の出来事はまるで夢のように記憶に残っている。
 茜が願ったのは己の中にあるもう一つの「感情」を還すことだった。彼女の中にはきちんと自分自身の感情が芽生えていたのだ。それは、消し去ることのできない、彼女にとっては大切な物だった。傀儡ではないのだと、少女は証明したかったのだ。
 通り悪魔を射ることでもう一つの感情を取り込めるのであれば、その逆をすれば、己の中にあるかぐや姫が残した感情を取り除くことができるのではないか。この利発な少女はそう思い、そして五月を使ってそれを成功させて見せた。
 それだけではなく、小薄の法力を借りて二つの感情を月へと還らせたのだから恐ろしい。五月はあの時の感覚を思い出し、苦笑を浮かべた。人間を弓矢で射るのはこの出来事だけで十分だ。
――かぐや姫には申し訳ないけれど、彼女の感情は他の誰でもなく、彼女自身がもっていなければいけないから。
 あの時、月を見上げながら呟いた少女は、どこか淋しそうでもあった。
 長い間、呪いともとれるものを抱えてきた香久月家は晴れて普通の人間として生きることとなった。それでも時折、茶会を開いて大妖たちを招いていると聞くので、彼女はあちらの世界に気に入られているのだろう。
「わたし、これからがとても楽しみなんです。だって、自分の心に従って歩けるのだから」
「茜さんは何かしたいことがあるのですか?」
 茜は、そうね、と呟き、悪戯っぽく笑った。
「まずは五月さんとランデヴーがしていたいわ」
 ぽかんと口を開けた五月を、少女はくすくすと笑いながら見上げる。
 やがて、五月は小さく唸るように答えた。
「……考えておきます」
 五月は短く切った髪をくしゃりと、照れくさそうに撫でる。耳がわずかに赤くなっている。
「なになに、二人で内緒話かい?」
 店の奥から顔を覗かせた左京が、にやにやとこちらに視線を寄こした。まったくお節介なひとだなと五月は呆れ、咳払いをして真顔に戻った。けれど、その様子に目の前の少女はまた小さく笑う。
「そうです。五月さんとわたしだけの内緒ですの」
 その表情は、秋晴れの空のように晴れやかだった。
目次へ戻る

message