燕と花あやめ
 後編 
 授業の終わりを告げる鐘が鳴る。
 昨晩の出来事を思い出していた六都子は顔を上げた。開け放たれた窓の外は雨に霞み、淋しげな色で世界を染め上げていた。
 六都子の通う女学校は英国の宣教師が開いた、赤レンガ造りの見事な校舎を持つミッション系スクールだ。白野にたったひとつある少女たちの学び舎で、皆一様に短い青春を送るのだ。六都子はとくに勉学に励み、成績優秀者だけに許された白いスカーフを使うことを許されていた。誰にも言ったことがないが、大学に入ることを目指していた。
 最後の授業を終え、六都子はセーラー服のスカートを翻し、教室を出た。すれ違う同級生や下級生達と「ごきげんよう」と挨拶を交わしながら昇降口へ向かうと、なんだかいつもより騒がしい。
「まあ、校門の前に自動車が」
「なんでも、素敵な殿方がその前で待っているそうよ」
「あら、いったい誰を待っているのかしら?」
 ひそひそと耳に届く会話を聞き流しながら、六都子は傘を広げた。ひとりで歩くことが好きなので、普段からバスを乗り継ぎ徒歩で女学校に通っている。雨の日も、雪の日も、風の日も。そうして自然と語り合い、見聞を広めることが六都子にとっては大切な時間だった。
 けれど、それはある声によって悲しくも邪魔されることとなった。
「おい」
 と聞こえたとき、六都子は自分に言っているのだとは思わず、すれ違おうとした。けれど唐突に腕を掴まれたので、驚いて振り返った。黒い西洋傘の下で怒ったような表情をした青年は、能見伯爵家の現当主──千遙だった。
「こんなところでどうしたのですか?」
 六都子が小首を傾げると、彼はどこかばつの悪そうな声を出した。
「……君を待っていたのだ」
「はあ……それで?」と思わず間のぬけた返事をしてしまう。
 彼は周りの少女たちの目を気にしてか、追い立てるように「乗れ」と自動車のドアを開けた。相変わらず横暴な態度だな、と考えながらも、六都子は素直に従うことにした。きっと明日には学校中の噂になり、男女交際云々で先生から呼び出しを受けることになるだろう。
 けれど、どのようにしてまた会おうかと考えていたところだったのだ。千遙から来るとは想像もしなかったが、これは幸いと想うことにした。
 千遙は運転席に座ると、慣れた手つきで自動車を発進させる。揺れる自動車の中は雨の音が静々と響いた。
 長くなるかと思われた沈黙を破ったのは千遙だった。
「野々宮家の本宅に行ってきた」
 六都子は前を向いたままの、形の良い横顔をちらりと見た。
「人形を返してもらうためにですか?」
「そうだ……だが」
 言葉を切って、彼は顔をしかめる。
「君の兄さんに門前払いを食らった」
 それは一春のことだろう。
 聞けば、人形を返してもらいたいと言う千遙に、一春は「今の君には渡すことはできない」とにこりと笑い返したそうだ。いかにも掴みどころのない兄らしい。
 言葉にはしなかったものの、それでも食い下がったのだろうというのは彼の態度を見みるに明らかだった。けれど「家」も一歩も入れようとしなかったのだろう。野々宮家の家は古く、様々なものたちが棲みついているので、彼らは敵意のある者が家に足を踏み入れることを嫌うのだ。
「あの家はなんなのだ……」
 苦々しく呟く千遙に、六都子は小さく笑った。
「伯爵様が人形を燃やすように言ったこと知っていたから、家は人形を守ろうとしたのです」
「そんなことがあるわけないだろう」
 呆れたようにため息をつく。
「どうしてそのように言い切れるのですか?」
 六都子の問いかけに驚いてか、前触れもなく千遙はブレーキをかけた。きゅっと車輪と地面が擦れる音がして、六都子の体は前へと少し押し出される。どうしたのだろう、と横へと視線を動かせば、千遙は怒りを抑えようとするようにハンドルを強く握り締め、六都子のみどりの瞳を見つめている。
「君はいったい何を視ている?」
 低い声で彼は問いただした。
「少なくとも、貴方の見ている世界が全てではないということです」
 野々宮家の者たちは、視える世界と視えない世界とを繋ぐ力を持っている。六都子はその中でも、物の声がよく『聴こえる』のだ。けれど、そのことを伝えることは難しいことも知っている。
 青年の瞳を覗き込めば、微かに揺れていることがわかった。
「貴方こそ、憎んでいるはずなのに、どうしてそんなに苦しそうなのですか?」
 はっと千遙の目が見開かれる。
 六都子はドアを開けて自動車を出た。
 雨は霧雨へと変わっていた。傘を差しても振っていることがわからないような音のない雨だ。道端に、鮮やかな青色の紫陽花が咲いていた。
「伯爵様」
 六都子はくるりと振り返って、青年に声をかけた。
 彼は無言で顔を上げた。
「人形はお返しします。ですが、一つだけ条件があります」
「……条件?」
 はい、と頷いてみせる。
「さる姫君と少年がずっと前に交わした約束を果たすために、力を貸して欲しいのです。貴方なら知っているはずですから」
 千遙の目ゆっくりと見開かれる。
 それは、夢の中で見た少年ととても似ている。
 彼が何か言う前に、六都子は「乗せてくださってありがとうございました」とにこり笑いドアを閉めた。振り返らず道を歩いてしばらくして、後ろでエンジンの掛かる音が聴こえ、近づくいてくるのが分かった。
 立ち止まる。並走していた自動車も止まり、彼は身を乗り出して再び助手席の扉を開けた。
 しかめっ面のまま、千遙は六都子を見上げた。
「その、せめて、家まで送る」
 そう言ってふいと、視線を逸らした。
 呆気にとられたように六都子は口を薄く開いた。どうやら、彼は思うほどに冷徹ではなのかもしれない。「さっさと乗れ」とぶっきらぼうに言う姿に、苦笑を浮かべ、素直にその申し出を受け入れることにした。
 野々宮本家は千年坂と呼ばれる坂の上にある。千遙は終始無言で自動車を運転し、そして六都子を送り届けた。
 遠ざかるエンジン音に耳を澄ませながら、さて、彼はどうするのだろうか、と考えた。
 けれど答えは、思っていたよりも早く返ってきた。能見家から電話が来たのはその次の日だった。電話交換手に繋いでもらった声は乙鳥のものだった。千遙からではないところが、らしいように思える。六都子は乙鳥にやってもらいたいことを告げ、訪問する日程を取り付けた。
 部屋の中に戻り、机の上に置かれた衣裳人形にそっと微笑みかける。その横で彼女の幻影が静かに三つ指をつき頭を下げ、ゆらりと消えた。


 朝から雲が重たく空を覆っていた。
 今にも降り出しそうな気配の下、六都子は再び能見家へと向かった。風が制服の白いリボンとスカートの裾をなびかせながら吹き抜けていった。微かに雨のにおいがする。風呂敷に包んだ人形の箱をしっかりと抱えて歩を速めた。
 灰色の雲が辺りを薄暗くしているせいか、遠目に見える能見伯爵邸はどこか物悲しげな雰囲気を纏っていた。玄関では乙鳥が待っていたようで、六都子を見止めると、「六都子様」と呼びかけた。
「こんにちは、乙鳥さん。遅くなってしまい申し訳ありません」
「いいえ、どうぞこちらへ。準備は出来ております」
 洋風の本邸から離れの和風屋敷へと続く廊下を渡り、乙鳥の後についていく。
 離れは途方もなく広く、立派な造りだった。鴨居の彫り物が細かく、部屋から部屋へと移るごとにそれは平家物語の世界を表していることに気付く。武家らしい趣向だ。進んでいくうちに、磨かれた廊下に既視感を覚える。夢の中で見た景色と同じだ。この先には、人形の置かれていた部屋があるはずだ。
 やがて目的の部屋にたどりつくと、そこには衣桁にかけられた小袖があった。
 淡い色に揺れる水面を水色で描き、重ね染めされた紫や白の花菖蒲が群生している。花を金色の線が縁取っていて、まるで、庭の花菖蒲が着物に迷い込んでしまったような、不思議と目を惹かれる気品さがある。
 この着物は曄子様の長持に仕舞われていた着物の一つで、六都子がこうして出すように頼んでいたものだ。そして、そのことを教えてくれたのは姫君の人形だ。
 六都子は漆塗りの箱から人形を取り出し、床の間に飾りつけた。後ろに飾られた掛け軸には一羽の燕と青い花菖蒲が描かれているので、何かあれば助けてくれるだろう。姫君の人形はどこか緊張した面持ちに見えた。
「伯爵様は?」
 乙鳥を振り返って、尋ねる。彼女が答えるよりも早く、
「私はここにいる」
 と衣桁の向こうにある襖が開かれた。上着は脱いでいるものの、利休鼠色のベストとズボンをしゃんと着こなす姿は相変わらず隙がない。
「……さっさと始めてくれ」
 仏頂面をやめたら好青年に見えるだろうに、と六都子は千遙の顔を見つめて、ため息を一つ吐いた。
 そんな彼を横目に、ポケットにしまっている若草色に燕の描かれた万年筆を取り出した。
「これを持っていてください」
 千遙は万年筆を受け取り、首を傾げた。
「これは?」
「貴方がちゃんと帰ってくるための道標。私の大切な物ですから、どうか失くさないでくださいね」
 訝しげに万年筆を見つめていた千遙は、やがて「わかった」とだけ呟いて胸のポケットに仕舞いこんだ。ひとまず納得してくれた様子に少し驚いたが、彼がここにいるのは何かしらの心変わりがあってのことだ。その変化に、果たして本人は気付いているのだろうか。
 では、と六都子は手を打った。
「そろそろ行っていただきましょうか。さあ、手を」
 掌を差し出すと、千遙は躊躇うように手を置いた。そのまま着物へと近付いていくと、爽やかな初夏の風が頬を撫でた。
 常世への道が開けたことを確認する。そのまま千遙の手を着物の中に押し込むと、不思議なことにぐらりと絵柄が揺れ、手は吸い込まれるようにその向こうに消えた。
「おい、これはいったい……」
 千遙は半歩下がる。
「大丈夫です。入ってそのまままっすぐ歩いていけば、辿り着けるはずですから」
 六都子は手を離して、彼の背中を軽く押した。
 意を決したような横顔は、瞬く間にあちらの世界へと吸い込まれて、花の香りを残していった。
 六都子は上手くいったことを確かめると、一人頷き、廊下に立ったまま無表情に見つめてくる乙鳥へと視線を移した。
「乙鳥さんも、そろそろ話してはくれませんか?」
 貴方がいったい誰であるかを、と六都子は言った。
 すると、困ったように乙鳥は笑った。
「気付いていたのですね」
「ええ、最初にお会いしたときから」
 あまりにも自然にこの家に棲んでいるものだから、少し騙されそうになったけれど、違和感はあったのだ。
 乙鳥は庭へ顔を向け、語り始めた。
「わたくしは、この屋敷に古くから棲む家守にございます。ずっと昔から、この能見家を見守ってまいりました。曄子様がお輿入れした日のことも、千遙様がお生まれになった日のことも、全て覚えております」
 家守とは、古く続く一族に付く守り手だ。人間の認識を操作する術に長け、一族の生活に溶け込み彼らを守る神に近しい存在。
「では、曄子様が人形に想いを一つ封じてしまったことも知っていたのですね?」
 確かめるように尋ねると、乙鳥は小さく頷いた。
「その想いは人にとって大事なものでございました。想いを封じたせいで、曄子様は千遙様に母の愛を与えることができませんでした。千遙様は幼い頃から孤独な子供で、ですから、姫君の人形が哀れに思って姿を現すようになったのです。姿は曄子様とそっくりに作られているから、きっと慰めになるだろうと」
 けれど、とその顔は曇った。
「曄子様が危篤の陥り、最期の別れをと医者が言ってようやく、千遙様は初めて母に会いました」
 それまで、千遙は実の母にずっと避けられていたのか。そう考えて六都子は胸が苦しくなった。
 姫君は決して自分の正体を明かすことはなかった。きっと、母との大切な思い出にして欲しかったのだろう。けれど、それは結果的に彼を傷つけてしまうことになったのだと、乙鳥は言った。
 危篤の母を目の前にして、千遙は子供らしく彼女に泣き縋ったのだ。母上死なないで、花菖蒲を一緒に見ると約束をしたではありませんか、と。
 涙で濡れた顔の息子を、けれど、美しい曄子は冷ややかな目で見つめたかと思えば細い白腕で押しのけたのだ。
 六都子は、痛む胸を押さえた。その先の言葉を聞くのが怖くなった。
「曄子様は『お前のような子供は知りませぬ』と言い放ったのです。その言葉を聞いた千遙様のお顔を忘れることはできません。ひどく傷ついた顔をされていたのに、それから涙は一つも零れなくなったのです」
 それ以降、千遙は笑うこともなくなってしまった。
 彼のあの冷ややかな視線は、傷ついた心を守るためにつけた仮面だったのだろう。大切な『母』との思い出を、実の母に壊されてしまってはどうして憎めずにいられよう。
「わたくしたちは、ただ、千遙様にもう一度笑って欲しいのです。少年だったあの頃のように」
 その言葉を、六都子はそっと瞼を閉じて聞いていた。
 人ならざる者は姿かたちが変わることはあまりない存在だ。老いというものも死というものも、人間よりも遠くにある。だから、人の気持ちが移ろっていくものであることも、過去に戻ることができないことも実感としてわからないのだろう。胸が張り裂けそうになるような記憶でさえ、それはその人を形作っていくのに大切な欠片だ。
「……それは、あの方のお心次第ですよ」
 彼は姫君と逢うことが出来たのだろうか。そして、受けいれることが出来るのだろうか。約束の花菖蒲の咲く場所で、二人は何を話すのだろう。
 ふと誰かの呼ぶ声がしたような気がして、部屋を見回した。見れば、着物の中に咲いていた花菖蒲が淡く光っている。その隣には姫君の幻影が立っていた。
──六都子さん、ありがとうございました。
 頭の中で声が響いたかと思えば、にこりと彼女は微笑んだ。
「もう大丈夫なのですか?」
──はい、これでわたくしも曄子様の『想い』と一緒に眠ることができそうです。
 その言葉を最後に、姫君の体は淡い光の粒となって広がり、やがて消えていった。
 終わったのだと、六都子はそっと目を閉じた。


 やることはまだ残っている。隣に立つ乙鳥に声をかける。
「さあ、乙鳥さん、伯爵様を探してください」
 とたん、その影がぐらりとゆがみ消えたかと思えば、掛け軸の絵から一つの影が飛び出した。
 それは部屋の中を旋回すると、庭へと鋭く羽ばたいていく。長い尾と艶やかな黒い羽を持つ鳥の名は、燕。
 六都子は見失わないように、縁側に置かれていた下駄に足を突っかけ走り出した。高く飛び上がった燕はまっすぐに花菖蒲園へと向かう。空を見上げながら走らなければいけないから、何度か地面に足を取られてしまう。そのたび燕はくるりと六都子の上を旋回した。
 やがて花菖蒲の咲く園にたどり着くと、燕は高度を下げてその真ん中へと飛んだ。東屋がある辺りだ。六都子は桟橋を渡り、微かに届く花の香りの中を進んだ。
 そして、背中を向けて立っている千遙を見つけた。
 燕はいつの間にか彼の肩で羽を休めている。
 反対の肩にもう一匹止まっているのを見て、六都子は万年筆の守り燕がしっかりと道案内の仕事を果たしたのだとわかった。燕はくるりと首を回し、六都子であることがわかったとたん、こちらへと飛んできた。人差し指を差し出すとちょんと止まった。
「おかえりなさい」
 声をかけると、千遙はゆっくりとこちらを振り向いた。
 その顔を見て、六都子は息を飲んだ。
 彼の目から涙が頬を伝っていた。
 花菖蒲に囲まれて立つ青年の姿は幻想的だ。その涙を美しいと素直に思う。
 けれど、どうやら彼は自分が涙を流していることに気づいていなかったらしい。六都子の視線に気づいてようやく、己の頬に触れ、腕で濡れたそれを乱暴に拭った。
「逢うべきひとに逢うことはできましたか?」
「……ああ」
 目を合わせようとしないのは、恥ずかしいところを見られてしまったと思っているからだろうか。
 彼はポケットから若草色の万年筆を取り出し、六都子へと差し出した。
「きちんと持って帰ってきたぞ」
「……ありがとうございます」
 受け取り、指に留まっている燕の前で軽く振る。燕は高く舞いあがり、とたん目に見えない速さの影となって万年筆へと戻って行った。
「もう、僕は何も驚くことはないのだろうな」
 その様子を見ていた千遙がふと呟く。
 六都子は少し笑った。
「貴方の見た世界はまだほんの入り口ですよ」
 そうだな、と千遙が苦笑を浮かべる。
「でも、大切なものを取り戻せたような気がする」
 そのとき、雲の隙間を縫うように光の柱が現れた。広い花菖蒲の園をすうっと照らし出す様子は幻想的で、六都子は思わず目を細める。
 やがて、千遙の肩に留まっていた燕が飛び立ち、光のほうへとすうっと姿を溶け込ませた。
「あれは……」
「きっと、戻ってきますよ。彼女はこの家の家守りだから」
 目を細めて空を見上げる六都子を、千遙はじっと見つめ、やがてためらいがちに「六都子さん」と名前を呼んだ。驚いて見つめ返すと、彼はどこか面映ゆそうに、頭に手を添えていた。
「なんですか?」
 その様子が少しおかしくて、笑みを浮かべる。
 千遙はぐっと唇を噛み、そしてゆっくりと開いた。
「ありがとう」
 真っ直ぐに見つめる瞳が、少年の瞳と重なる。ゆっくりと、ためらいがちに、そして小さく囁かれた言葉は確かに六都子の耳に届いた。
「どういたしまして」
 さあっと風が花菖蒲の花を揺らした。
 風は雲を呼び、雲は雨を呼ぶ。けれど、雨が過ぎ、空が晴れれば眩しいほどの青空が広がるのだろう。
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