ピアニストの恋
 路面電車の揺れに身を任せ、窓から見える景色を眺めていた。
 二十世紀となっても、この大都市ウィーンは記憶の中と何ら変わらずあるようだった。新市街の整然と建ち並ぶネオ・ルネッサンス様式の美しい建築物の真上には晴れ渡った秋の空が広がっている。広い通りでは馬車と目新しい自動車が走り、遊歩道には長いコートを着込んだ婦人やハットに杖を携えた紳士が行き交う。
 思えば、ここを離れて六年の月日が経った。

 この街を最後に見たのは十七の時だったか。それからのめまぐるしい人生のせいか、ずっと昔の出来事のように感じられる。今になってどうして街を訪れようと思い立ったのか、自分でも不思議だった。ただ少し、故郷と呼べるこの場所がふと懐かしくなった、とでも言えばいいのだろうか。

 ドイツでの公演を終え、拠点にしているフランスに戻る前に訪問してみよう、そう考えただけのこと。まるで思い立って寄り道をするかように。けれど心の奥に、あのひとに逢えるのでは、という思いがあったことも事実。
 あのひとは今どうしているのだろうか。私に逢ったら、どんな顔をするのだろうか。
 やがて目的の場所に近づき、停留所で下りた。遠くで教会の鐘が響いている。発車した路面電車を視線で見送った。背中からもうすぐ訪れる冬を示唆するような冷たい風が吹き、私は風に攫われないようにと帽子を押さえコートの襟を立てて歩き出した。
 歩きなれたこの並木を忘れるはずもない。落ちた黄色い葉が黄金の道を作り出し、子供たちが葉を蹴り上げ、けたけたと笑い声を上げて風と共に通り過ぎてゆく。上流階級層の住まいが建ち並ぶ住宅街であるこの区画は、記憶と変わらず美しく整えられていた。

 中央の公園を横切り、街角に立っていた花売りの少女をみとめて、花束をひとつ買った。それを片手に抱え記憶に焼き付いた道順をゆるやかに進んでいくと、白壁のテラスハウスが並んだ通りに出た。おとなう屋敷は二つ先にあった。
 短い階段を上がり、一つ深呼吸をしてその屋敷のノッカーを叩いた。
 暫く待っていると中からノブを回す音がした。

 現れたのは中年の女性だった。群青色のドレスと白髪が混じった髪をひっつめた出で立ち、その顔は記憶よりも皺が増えたようだったが、懐かしい姿に私は嬉しくなり、驚いたように動きを留めた彼女に「やぁ」と声をかけた。
 すると彼女は「まぁ、坊ちゃま!」とますます目を丸め、確かめるように私を上から下まで眺めた。懐かしい呼ばれ方に、わずかに苦笑を浮かべる。幼い頃から見知った間柄―この家の家政を取りまとめるハウスキーパーである彼女は、子どもの頃から母代わりのように私の世話をしてくれたのだ。きっと彼女にとって、私は小さい頃から変わらず『坊ちゃま』なのだ。
 けれど、成人男性となった私を見て、彼女は軽く頭を下げた。

「ご立派におなりあそばしましたね。遠くからですが、ときおり、お噂を耳にいたしておりました」
「いやだな、そんなに畏まられても困るよ」

 にこりと笑うと、彼女は眩しそうに私を見上げて、「ほんとうにご立派になったこと」とどこか誇らしげな声でしみじみと呟いた。
 屋敷の中へと案内され、彼女は私のコートと帽子を預かって、少し会話を交わしながら廊下を進んだ。どこへ向かうかは知っていた。この先には私が一番長く過ごした音楽室があるのだ。

「奥様も坊ちゃまに逢うことを楽しみにしておられましたよ。連絡をいただいたときはとても嬉しそうで」
「突然の訪問で、迷惑ではないかと心配だったのだけど」

 すると彼女は振り返って、「あなたの心は変わっていないのですね」とまるで思考を読んだかのように悲しげな表情をした。

 私は驚いて足を止めた。

 けれどすぐに彼女は笑って、それぐらいわかりますよ坊ちゃま、と意味深に告げる。まったく、必死で隠していたはずの感情も彼女には筒抜けだったということか。困ったように笑う私を横に、彼女は紅茶の用意をするからとキッチンへと向う。どうやら勝手に音楽室にいっても良いとのことだった。
 玄関ホールは記憶にあるものとまったく変わらなかったが、廊下を進んでみると家具や絨毯もあの頃と変わっていなかった。それは私を不思議な感情の中へと誘うようだった。まるであの頃の戻ったかのように、今にも壁の向こうからピアノの音が響いてきそうな雰囲気であった。

 その時、くぐもったピアノの旋律が聴こえてきたのだから、私ははっと立ち止まった。
 聴きなれた旋律。私はその旋律のする方へと歩みを進め、音楽室の前で立ち止まる。かの貴婦人が奏でるピアノの旋律は滑らかで、何度も繰り返し奏でたであろうその曲は耳朶を優しく打った。懐かしいピアノの音色に耳を傾けていた私は、覚悟を決めたようににそっと息を吸い込む。
 軽くノックを二度し、ゆっくり扉を開いた。
 それに気が付いた貴婦人は立派なグランドピアノの鍵盤から顔を上げる。奏でられていた音楽が止んだ。そして私を見止めると、まあ、と驚いた表情のまま彼女は立ち上がった。

「ご無沙汰しておりました、ロウゼ夫人」と、私は軽く会釈をする。

 奥様というにはまだ年若い、三十もいかない貴婦人は鳶色の髪をゆるく結い、黒いドレスに身を包んでいた。美しく輝く瞳を細め、彼女は私の元へと歩み寄った。

「フレデリーク! あなたから連絡をいただいて驚いたのよ」

 元気でいらしたかしら、と私の頬に軽いキスを落としながら尋ねる。ええ元気でしたとも、と私はにっこりと微笑み返す。記憶の中の彼女は輝かんばかりの魅力に溢れた乙女だった。そして数年ぶりに逢った今の彼女は、その輝きに艶やかでどこか哀愁が加わった大人の女性となっていた。

 月日は流れたというのに貴婦人は時が止まったかのよう、否、更に美しくなってい。

 レティツィア・ロウゼ――彼女は、私のピアノの師匠の妻だった。
 師匠は三年前に他界したと手紙で知っていた。私は幼い頃から弟子としてここでピアノを学んでいた。その頃師匠は独り身で、私はこの屋敷に住み込みで音楽を学んでいた。

 私は没落しかけたドイツ貴族の家に生まれた。祖父と母親がひどい浪費家で、私は書斎で頭を抱えた父親を見て育った。母親は名声を欲しがるひとで、嫁いだ家が困窮しているのを見るやいなや愛人を作って蒸発した。私は母の顔を思い出すことができない。それほど、私の家は崩壊していた。
 その頃には家政も立ちいかなくなり、父は悩んだ末に、知人に紹介してもらい私を師匠の屋敷に預けた。小さい頃からピアノだけは得意だった息子を見て、せめて身を立てられるように、と父は考えたらしかった。今でもときおり父とは手紙のやり取りをするが、ただそれだけの関係だ。

 幸運なことに、この屋敷は己に合っていた。
 父と同じ歳ほどの師匠は気難しい性格だったが、その教えは的確で私はピアノという美しく完璧な楽器にのめり込んでいった。十二歳で音楽院にも通い、周りから『秀才』と呼ばれるようになっていった。
 フレデリーク・フォン・レーヴェン、という名は今ではひとり歩きし、欧羅巴では『美しきピアノの貴公子』などと呼ばれ、上流階級の演奏会での客演が耐えない。馬鹿らしいと思うが、上流階級では肩書きというのは強くものを言うのだと、この屋敷を出てひとりで身を立て始めたフランスで痛感したものだ。

 私がこの屋敷を出て行ったのは、師匠が若きレティツィアを後妻として迎えたからだった。
 この感情を『恋』と呼べばいいのだろうか。
 しかしそう言うにはいささか芸術性に富まず、では何と呼べばいいのか、まったく想像がつかない。一言で表すならば、レティツィアは私にとって太陽のような存在であった。初めて出逢ったときのことは忘れもしない。柔らかく微笑み彼女に私は心を奪われた。
 けれど、それが不毛な感情であることも知っていたのだ。―だから逃げるようにして、私は師匠の元を去った。

「どうそこれを」

 私は手に持っていた花束を差し出す。

「まあ、綺麗ね。ありがとう」

 レティツィアはそれを受け取り、そっと鼻を寄せて花の香りを感じた。
 そして私の手を取り、ソファーへと導いた。
 その向かいに座り、彼女は「本当に久しぶりですこと」と改めて私を見つめた。

「フランスでの生活はいかがかしら?」
「……毎日がめまぐるしいですが、なんとかやっていますよ」
「ピアニストのお仕事も?」
「ええ、有り難いことにパトロンもできたので」

 その時、扉が開いてハウスキーパーが銀色のトレーと一緒に入ってきた。テーブルの上に置かれたそれには二つのティーカップと小さなケーキが置かれている。レティツィアは穏やかに礼を述べ、花束を活けるように指示して、彼女が部屋を後にするのを見送った。そして再び私と向き合うと「紅茶はいかが?」と尋ねた。
 私は、ぜひいただきます、と言ってティーカップに紅茶を注ぐレティツィアを眺める。差し出されたティーカップを受け取り、離れていく彼女の指先を目で追いながらそっと紅茶に口をつけた。
 彼女のお気に入りのブレンド。懐かしい味だ。穏やかな空気が部屋を包み込む中、私達は向かい合って話に花を咲かせた。彼女が、何故なにも言わずに屋敷を出たのか、と訊いてこないことに安堵していた。

 そしてふと、部屋の隅にある蓄音機に目を留めた。

「あれは以前ありませんでしたね?」

 そう訊ねると、彼女は背後に置かれたその蓄音機を見て「ああ」と呟いた。

「夫が生前に自身のピアノ演奏をレコードに録音してましたの。彼は以外と新しい物好きだったから、すぐに蓄音機を買ったのよ」

 その頃のことを思い出し、クスクスと小さく笑う。
 立ち上がり蓄音機の前へ行くと、備え付けられた引き出しの中からレコードを一枚取り出して機会に掛けた。初めにゆったりとした音楽が流れてくる。明るく繊細な音―ワルツのリズムに変わる。忘れるはずもない。それは師匠の音色だった。

「この曲、師匠の作曲したものですね」

 暫くして私は呟いた。
 すると美しい貴婦人は優しげな目をして頷いた。

「ええ、彼がわたくしのために作った曲ですわ」

 美しい旋律でしょう、と彼女は少女のように笑った。
 けれど、と今度は哀しげな顔をする。

「もう彼の奏でる旋律が聴けないと思うと、今でも切なくなるのです」

 レティツィアは音楽に耳を傾けながら、何かを堪えているようだった。
 それがどんな感情であるか明解に知ることはかなわない。しかし私は、彼女が死んだ師匠を今なお想っていることを悟った。目に見えて親密な夫婦仲とは思ったことはなかったが、それでもレティツィアは静かに夫を想い、師匠も愛おしい人にこうして旋律を贈ったのだ。そこには互いを大切に思う気持ちがあったのだろう。

 年が大きく離れていたとしても、そこには確かな絆が互いにあったのだ。
 私はそれに気づいていたからこそ、己の気持ちを封じていた。けれど想いというものはそう簡単に見ないふりを続けることが叶わない代物だ。三人での穏やかな時間を壊すくらいならば、この屋敷を去るほうが良かった。未熟な己が考えた、師匠の妻に恋慕したことへのせめてもの償いだった。
 師匠はいつだってあまり多くは語らず、その物静かな雰囲気を私は好いていたし尊敬していた。気難しくはあったが、根本の性格はピアノの旋律にも現れるようで、彼の作る曲はどれも繊細で穏やかに心に響く。私には決して真似ることのできない旋律。けれど、その旋律から私は多くのことを学んだ。

 ふとあることを思い立って、夫人、と私はレティツィアに呼びかけた。
 夫を喪ってもなお、変わらぬ彼女の想いは黒いドレスを着ていることからも明らかだった。
 だから、せめて、思い出に――

「私も一曲、弾いて差し上げてもよろしいですか?」

 私は部屋の隅に置かれたグランドピアノへと視線を移す。
 幼い頃から弾き馴れたピアノは黒く艶やかに光り、奏でるひとを待っているようだった。彼女は一瞬迷うように視線を彷徨わせてから、「ではお願いしようかしら」とにこりと笑って呟いた。
 私は小さな椅子に座りピアノと向き合った。彼女は隣に立って、私の指先を見つめていた。音を確かめるようにそっと鍵盤をひとつ弾けば、それは軽やかかな音を響かせた。

 私は凪いだ湖の水面のような静けさの中で鍵盤に指を添えた。
 頭の中で譜面がゆっくりと流れ出す。奏でたい曲は既に決まっていた。

 そうして、柔らかな旋律が部屋を優しく包み込む。
 隣を覗き見れば、レティツィアは目を閉じ耳を傾けていた。その表情は師匠の傍で曲を聴いていたときと同じく、穏やかで美しい。
 この曲は私が彼女に宛てて作ったもの。そして初めて作った曲だ。
 けれど、そのことを言うつもりはない。こうして耳を傾けてくれる彼女が傍にいるだけで幸せだった。それ以上求めるつもりはない。こうして美しい思い出のひとつになれるのなら、それで良かった。
 彼女は私の甘い夢なのだから――

 夢ならば、夢のままでいい。
 醒めればきっとすべてが壊れてしまうだろう。ならば、このまま―永遠に私の憧れで、想いびとで、たっだひとりの『恋』の相手であれば、それでいい。そうしてこの想いはいつか昇華されるだろう。
 旋律はゆるりと穏やかに終盤へと向かう。
 ゆっくり手を鍵盤から放すと同時に、貴婦人はゆっくりと瞳を開けた。

「美しい旋律だわ」

 優しげな響きを含んだ言葉。彼女は美しい笑みを浮かる。
 私は自然な動作でその手を取り、レティツィアを見上げた。ゆっくりと交わる視線。それはあの頃を思い起こさせる。私と師匠と彼女との穏やかな時間。あの時間を取り戻すことはもう出来ない。

 見つめるその瞳の色は美しい翡翠色。
 白く滑らかな彼女の手を撫ぜる動作は哀愁にも似て、けれど微かな希望を含んでいる。

「レティツィア、あなたのためならば、いつでも弾きにきましょう」

 囁き、私はその温かな手の甲にそっと唇を落とした。