ピアニストの恋
 鉄道馬車に揺られながら見上げた空は晴れ渡っていた。そんな美しい色の空には目もくれず、コートに顔をうずめた人たちが秋も深まった街を足早に通り過ぎていく。風は少し冷たく、私は風に攫われないようにと帽子を押さえ、早々に窓の中へと首を縮めた。
 国の首都に比べ、故郷は変わらず穏やかな空気を纏っているようだった。この街を離れて数年と経つが、記憶に残るものと同じ風景に懐かしさが込み上げる。
 この街を訪れようと思ったのには、大した理由などなかった。
 ただ少し、ここよりも更に北にある私の生まれた村よりも故郷と呼べるこの場所を、ふと懐かしく思った。ピアノの公演を終えた頃だったので、休日と称してこの街を訪問してみよう、それだけのことだと思う。
 けれど心の奥に、ある人に逢いたい、という思いがあったことも事実だ。あの人は今どうしているのだろうか。私に逢ったら、あの人はどんな顔をするのだろうか。
 やがて目的の場所に止まる。鐘を鳴らしながら軽やかに発車した鉄道馬車を見送り、足を踏み出した。歩きなれた銀杏並木を忘れるはずもない。落ちた黄色い葉が黄金の道を作り出し、どこからともなく現れた子供たちが葉を蹴り上げ、けらけらと笑い声を上げて風と共に通り過ぎてゆく。暖かな風景だ。そこに懐かしい花の香りが混ざる。これはアベリアの花の香りだったか。
 アベリアの咲く庭を横切り、一つ深呼吸をして目的の屋敷のノッカーを叩いた。少しくすんだ白い扉が過ぎ去った月日を教えてくれるようだ。
 暫く待っていると、中からノブを回す音がした。
 現れたのは初老の女性だった。群青色のドレスと白髪をひっつめた出で立ち、その顔に少し皺が増えたようだったが、懐かしい姿に私は嬉しくなり、驚いたように動きを留めた彼女に「やぁ」と声をかけた。すると彼女は「まぁ、あなたは!」とますます目を丸め、確かめるように私を上から下まで見つめる。にこりと笑い、屋敷の中へと導いた。

 少し会話を交わしながら彼女は私のコートと帽子を預かり、まるで考えを読んだかのように「あの方ならピアノ室にいますよ」と言った。
 今度は私が驚いた顔をする番だ。
 けれど彼女は笑って、それぐらいわかりますよ坊ちゃま、と意味深に告げる。まったく、この人には今でも敵わないらしい。もう、坊ちゃまと言われる年齢でもないというのに。困ったように笑った私を横に、彼女は紅茶の用意をするからとキッチンへと向う。どうやら、勝手にピアノ室にいっても良いようだ。
 玄関ホールは記憶にあるものとまったく変わらないようだったか、廊下を進んでみると家具や絨毯もあの頃と変わっていない。それは私を不思議な感覚におとさせる。まるであの頃の戻ったかのように、今にも壁の向こうからピアノの音が響いてきそうな雰囲気であった。
 その時、くぐもったピアノの旋律が聴こえてきたのだから、私ははっと立ち止まった。
 聴きなれた旋律。私はその旋律のする方へと歩みを進め、ある部屋の前で立ち止まる。ドアノブに手をかけ、そっと耳を傾けた。楽器の奏でる音と違う擦れるような機械的な音に、貴婦人が蓄音機を取り出したのだろうと考えた。その旋律は貴婦人のお気に入りだったはずだ。
 懐かしく穏やかなピアノの音色に耳を傾けていた私は、やがてそっと息を吸い込む。軽くノックを二度し、ゆっくり扉を開いた。
 その音に気が付いたのか、アンティーク仕立てのソファーに腰を掛けていた貴婦人が振り向く。そして私を見止めると、まあ、と驚いた表情のまま彼女は立ち上がった。
「お久しぶりです、奥様」と、私は軽く会釈をする。
 奥様というにはまだ年若い貴婦人は長い金髪を揺らしながらそっと微笑み、「なんて嬉しいご訪問ですこと!」と歩み寄った。元気でいらしたかしら? と私の頬に軽いキスを落としながら貴婦人は尋ねる。ええ元気でしたとも、と私はにっこりと微笑み返す。彼女と会うのは、かれこれ三年ぶりのことであった。
 そう、貴婦人の旦那様――私の師匠が亡くなって以来の事だった。

 月日は流れたというのに貴婦人は時が止まったかのよう、否、更に美しくなっているようだ。彼女は師匠に教えを請うていた頃から、私の支えであった。この感情を「恋」と呼ぶには些か芸術性に富まず、では何と呼べばいいのか、まったく想像がつかない。一言で表すならば、貴婦人は私にとって太陽のような存在であった。
 彼女は私の手を取り、ソファーへと導く。彼女もその向かいに座り、「本当に久しぶりですこと」と小さく微笑んだ。
首都シティーでの生活はいかがかしら?」
「……毎日がめまぐるしいですが、なんとかやっていますよ」
「ピアノのお仕事も?」
 その時、扉が開いて白髪の婦人が銀色のトレーと一緒に入ってきた。テーブルの上に置かれたそれには二つのティーカップと小さなケーキが置かれている。貴婦人は穏やかに礼を述べ、彼女が部屋を後にするのを見送った。そして再び私と向き合うと「紅茶はいかが?」と尋ねた。
 私は、頂きます、と言ってティーカップに注がれる甘い香りのする紅茶をを眺める。差し出されたティーカップを受け取り、離れていく貴婦人の指先を目で追いながらそっと紅茶に口をつけた。
 彼女のお気に入りのブレンド。懐かしい味だ。ゆったりと音楽が部屋を包み込む中、私達は向かい合いながら静かに紅茶を啜った。私は彼女は何も尋ねてこないことに安堵していた。仕事の話はあまりしたくなかったのだ。
「この曲、師匠の作曲したものですね」
 暫くして私は呟いた。すると貴婦人は優しげな目をして、部屋の隅に置かれた蓄音機へと視線を動かした。
「ええ、彼がわたくしのために作った曲ですわ」
 美しい旋律でしょう、と彼女は少女のように笑った。
 けれど、と今度は哀しげな顔をする。
「もう、彼の奏でる旋律が聴けないと思うと、今でも切なくなるのです」
 貴婦人は手元でティーカップを弄びながら、何かを堪えているようだった。それが何であるか明解に知ることはかなわない。しかし私は、彼女が死んだ師匠を今なお想っていることを悟った。目に見えて親密な夫婦仲とは思ったことはなかったが、それでも貴婦人は静かに夫を想い、師匠も愛おしい人に旋律を贈ったのだ。そこには互いを大切に思う気持ちがあったのだろう。
 師匠は堅確な紳士であった。あまり多くは語らず、その物静かな雰囲気を私は好いていたし尊敬していた。性格とはピアノの旋律にも現れるようで、彼の作る曲はどれも穏やかに心に響く。私には決して真似ることのできない旋律。けれど、その旋律から私は多くのことを学んだ。

 ふとあることを思い立って、奥様、と私は貴婦人に呼びかけた。
「一曲、弾いて差し上げましょうか?」
 貴婦人は少し驚いたように私を見上げた。私は部屋の隅に置かれたグランドピアノへと視線を移す。
「もう使われていないのでしょう? 私でよければ弾いて差し上げますよ」
 彼女は一瞬迷うように視線を彷徨わせてから、ではお願いしようかしら、とにこりと笑って呟いた。
 私は小さな椅子に座りピアノと向き合った。貴婦人はその隣に立って、私の指先を眺めている。音を確かめるようにそっと鍵盤を弾けば、少し鈍った旋律を奏でた。師匠が亡くなってから一度も使われていないのだろう。しかし、弾くことにはまったく問題はない。私は凪いだ湖の水面のような静けさの中で、では、と鍵盤に指を添えた。頭の中で譜面がゆっくりと流れ出す。奏でる曲は既に決めていた。
 柔らかな旋律が部屋を優しく包み込む。
 そっと隣を覗き見れば、貴婦人は目を閉じて耳を傾けていた。その表情は師匠の傍で曲を聴いていたときと同じく、穏やかで美しい。この曲は私が彼女に宛てて作った物。私が始めて作った曲だ。けれど、そのことを言うつもりはない。私にとって、耳を傾けてくれる彼女がこうして傍にいるだけで幸せだった。それ以上求めるつもりはなかった。
 彼女は私のとって夢なのだから。夢ならば、夢のままでいい。醒めればきっとすべてが変わってしまうだろう。ならば、このままでいい。このままがいいのだ。
 旋律はゆるりと穏やかに終盤へと向かう。
 そっと手を鍵盤から放したとき、貴婦人はゆっくりと瞳を開けた。
「美しい旋律だわ」
 優しげな響きを含んだ言葉。貴婦人は美しい笑みを浮かる。
 私は自然な動作で彼女の手を取り、その顔を見上げた。ゆっくりと交わる視線。それはあの頃を思い起こさせる。私と師匠と貴婦人との、穏やかな時間。あの時間を取り戻すことはもう出来ない。けれど、大事な思い出を忘れたくない、と思う。
 見つめる彼女の瞳の色は美しい翡翠色で――。
 貴婦人の手を撫ぜる動作は哀愁にも似て、けれど微かな希望を含んでいる。
「貴方のためならば、いつでも弾きにきますよ」
 囁き、私はその温かな手の甲にそっと唇を落とした。
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