夕暮れの歌姫
 東京の街が茜色に染まり始める頃、人々は足早に帰路につき、そして暖かな家を恋焦がれるのでしょう。そこに待つは、妻か子供か、それとも愛人か。わかりませんが、様々な表情をした人々は急ぎ足でわたくしの前を通り過ぎでいきます。
 この街の情景は忙しない気がいたします。それはわたくしが、一面に田畑が広がり遠くに山が連なるのどかな場所からやってきた田舎者であるから、そう思ってしまうのやもしれません。故郷を飛び出して数年、わたくしも幾分都会人馴れいたしましたが、それでも時折あの緑の風景を懐かしく思うことがあります。もう戻れぬ、と思いつつも、懐かしさというものはどうにもならないものらしいのです。それはつんと鼻を刺激して涙を誘おうとするのです。
 すうと夜風が頬を撫でました。秋も深まる季節、日が暮れれば夜風は冷たく身にしみます。これから本格的な冬がやってくるのだと考えると、少しげんなりとしてしまうものです。ああ、春が待ち遠しい。そうしたら上野へ足を運ぼう。上野の満開の桜は、それはそれは美しいのです。
 身体がこれ以上冷えぬように、かすかに流れ込んできた風にわたくしは薄手のコートをかき合わせて、肩を縮こまらせながら歩き出そうとしました。
 その時です。
「あら、藍川様!」
 人混みに見つけた背中に、思わず声を上げました。
 わたくしの声が耳に届いたのか、背の高い彼は立ち止まり振り返りました。その端整なお顔は、一度しか逢っていないものの確かに藍川様です。きっちりと黒紅色のスーツを着こなし、黒髪を撫で、その立ち姿は洗練した紳士的な雰囲気を作り出しています。
 こちらです、とわたくしが軽く手を振れば、彼はやっと気づいたのか、人を掻き分けながら近付いてきました。その姿はまるで景色から切り離されたかのよう。藍川様は出逢った時と変わらず、とても美しい方で、きっと女人にとてもおもてになることは聞かずとも明らか。ただ、眉間には皺を寄せてばかりで、どこか人を惹きつけることを避けているような気もいたしますが。
 人混みがわたくしたちを胡散臭そうにちらりと盗み見ては避けていく中、藍川様はわたくしと向き合い、じっと見つめてきました。
「あんた……梅乃さんか?」
「はい、お久しゅうございます」
 すっかり見違えた、と呟いた藍川様にわたくしは微笑ながら軽く会釈を返します。
 そう、藍川様は「歌姫」であるわたくしを知っているだけで、普段のわたくしを知りません。夜のバーで厚化粧に真っ赤な紅を引き、きらきらと煌くドレスを着たわたくしをご覧になったことはあれど、こうして普通の娘さんと変わらず薄い化粧に地味な着物を着たわたくしは、それはそれは珍しいのでしょう。
 故郷を捨てたわたくしは、銀座のバー「ジュノ」で働くことになりました。女の仕事など限られているというもので、都会に出たはいいものの途方に暮れていたところを、バーのオーナーが拾ってくれたです。最初は接客だけを任されていましたが、後々オーナーはわたくしに歌の才能を見出し、一躍「銀座の歌姫」まで上りつめることになったのです。
 たかが田舎の貧しい娘が、夜の街に存在を見出した瞬間。それは蛹をやぶり、美しい蝶となって大空に羽ばたくようなものなのでしょう。
 女は七変化、とある時、誰かが仰っていました。
 それは、ただ独りごちただけの言葉かもしれませんが、わたくしは確かにその通りなのかもしれないと思いました。現に、わたくし自身がそうなのです。自分の仕事をいやだと思ったことはありませんが、夜の仕事では様々な思惑が渦巻いております。お金、欲望、嫉妬……言葉に表わせば負を思わせる裏の世界。それでも、帰る場所さえ失ったわたくしは、それらに頑なに目を閉ざして生きるしかないのです。

 誰かの笑う声が聞えたような気がして、はっと現実に引き戻されました。とたん、街の喧騒が戻ってきます。藍川様は少し怪訝そうにこちらを見つめているようでしたが、話を変えるように、それより、とわたくしはやんわり話しかけます。
「藍川様はお仕事のお帰りでしたの?」
「……ああ。そういう梅乃さんは、これから仕事といったところか」
 藍川様は苦笑気味に私に視線を送ります。
 わたくしもそっと笑みを浮かべながら「藍川様もあの日以来、来ないですわね」と少し皮肉じみた言葉を返します。すると彼はばつの悪そうな表情をし、誤魔化すように艶やかな髪を撫でました。わたくしはそんな彼に、今度はくすくすと笑って、冗談ですよ、と見上げます。
「藍川様はお酒が苦手みたいですもの、仕方のないことです」
「……あんた、気づいてたのか」
「長くこの仕事をしてますと、なにとなく勘が良くなるものですから」
 小さくうなずけば、大したもんだ、と藍川様は少し気恥ずかしそうにしました。どうやら、お酒が飲めないことを気にしている様子に、気にしなくてもいいのに、と思ってしまいます。
 別段お酒が飲めなくとも、死ぬ訳ではございません。むしろわたくしとしては酒を飲まぬ殿方の方が好ましく感じられるものなのですが。
 それでも男の方には、女が知りえぬ、男であるからこそのこだわりがあるのでしょう。男という生き物が生粋の見栄っ張りであることを、これも仕事柄のお陰か、わたくしは気づいてしまったでございます。
「もし良ければ、道すがらお話をしませんか」
 わたくしは思い切って彼を誘いました。すると藍川様は考える間もなく、是、と答えてくれました。では、とわたくしはその横に並び歩きだしました。
 何時もの歩調よりもゆっくりと、まだお店がオープンするまで時間はあります。わたくしは何となく藍川様とお話がしたくなったのです。それは特別な感情からではなく、ただ、この方を知ってみたいという好奇心にも似た感情から。
「藍川様は新聞社にお勤めなのですよね?」
「そうだ」
「では、あの時一緒にいらっしゃった方はお仕事の仲間?」
「いや、契約してる先のお偉いさんだ」
 へぇ、とわたくしが感心したような声を上げれば、彼は何故か小さく笑いました。どうかなさって? と不思議に思い尋ねれば、いや、と誤魔化されます。わたくしは暫く藍川様を見つめましたが、一向に答えてくれるつもりはないとわかって、再び沈黙が降りました。もちろん、彼がわたくしの表情を可愛いと思っていたことなど、知る由もありません。
 わたくしは黙ったまま彼の隣を歩きながら、ふと空を見上げました。
 レンガ造りのモダンな建物の間の彼方は茜色、背後からは闇が迫っています。ぽつぽつと電灯も明かりを灯し始め、短い逢う魔が時を迎えたのです。人通りも少しずつ穏やかになり始め、薄暗い通りに入ると、滑らかな石畳にはわたくしと藍川様の靴音が響くだけ。
 傍からみれば、こうして歩く二人は恋仲に見えるかもしれませんが、その間に艶めかしいものはありません。正直なところ、わたくしには恋人同士がどういったものなのかよくわからないのです。仕事仲間の娘達は皆、恋人を持っているようですが、話を聞いたところで今までそういった色事に関わらなかったわたくしにはとんとわからず……まるで、遠く離れた異国の話をするようなものなのです。

 そんなことを、ぼう、と考えていたからでしょう。わたくしは足元に気をとられずに、その時浮くような感覚を味わったのです。何事か、と考える暇もありませんでした。気づけばわたくしは暖かな、けれど煙草のにおいのする胸に抱きこまれていたのです。
 それが藍川様だとわかるのに一寸かかりました。
「……大丈夫か?」
 頭に、低い声が響きます。耳に届く穏やかな心臓の音。
 その瞬間、わたくしはぱっと身体を離しました。
「あら、やだ。恥ずかしい……」
 誤魔化すように顔を逸らせば、梅乃さんは案外不注意者だな、と藍川様が笑いました。やめてくださいな、と力なく呟いた自分自身の頬が熱くなっていることが鏡を見なくとも、わかります。そんなわたくしがますます面白いらしく、藍川様は更に笑います。
 わたくしは頬をぷうと膨らまし「藍川様の意地悪」とそっぽを向きました。すると、笑いを引っ込めた藍川様は、ぽんとわたくしの頭に大きな手を乗せました。何事、と思い彼を見上げれば、優しげな笑みを浮かべ「すまない、言い過ぎた」と子供をあやすように髪を撫でてくれます。
 その掌は温かく、ずっとこのまま時が止まればいい、とさえ思ってしまうような――そう、わたくしはその一瞬、その手を愛おしいと感じたのです。
 けれど、心に芽生えた感情を押し隠すように、わたくしはすぐに拗ねたような表情をつくろいました。
「わたくしはもう子供ではなくってよ、藍川様」
「そうか」
 なら、と藍川様は腕を差し出し姿勢を少し低くしました。
 それはまるで西洋の紳士ジェントルマンのするよう、それでもってとても様になっています。お嬢さんをお送りいたしましょうか、と冗談気味な台詞を口にした彼に、わたくしも極めて淑女レディーらしく、では、とその腕に自分の腕を絡ませ横に並びます。藍川様の横顔をのぞきみれば、彼はこちらに視線を動かしてにやりと意地悪な笑みを浮かべました。わたくしもそっとも笑います。
 やがてゆっくりと歩き出す頃、見上げる空には星が一つ二つと瞬き始めていました。それはあまりにも美しく、隣の彼の温もりと同じく暖かに感じられたのです。
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