レディ・シャルロッテ
 その館は町を見下ろす高い丘に、まるで外の世界とを遮断するように建てられていた。剥がれかけた白い漆喰、硝子の割れた窓、手入れを忘れられ荒れてしまった庭。近づいたとて高い塀と蔦に囲まれた薄気味悪い無人の館を、やがて良からぬ噂が付き纏うのも世の常であり、町の人間からは「人形の館」と密やかに呼ばれていた。夜になれば町に影を落とすその姿を、彼らが恐れ嫌うのは仕方のないことなのだろう。物好きな人間でなければ、誰も近づくことはしなかった。

 さて、どうしてその館が「人形の館」と呼ばれるようになったのかと問われれば、時はおよそ五十年前に遡ることになる。
 その頃、館にはまだ営みがあり生があった。無数の薔薇が咲き乱れ、金糸雀が歌を紡ぎ、四季の移ろいが美しい庭。館の白い漆喰の壁は、遠くでも自ら光を含んだように眩しく美しかった。人はそれを楽園と呼ぶのだろう。その楽園を形容するように、館での営みも真に穏やかなものだった。少なくとも、うわべではそうであった。
 館には領主である伯爵と、一人の少女が暮らしていた。
 少女の名はシャルロッテといい、妻を失ったその孤独を癒すために、伯爵がどこぞの孤児院から連れてきたのが彼女であった。美しく気品のある立ち振る舞い、くしゃりと笑う愛嬌のある表情、そしてそのブロンドの髪と蒼い瞳を伯爵は何よりも愛したという。長年孤独を味わっていた初老の伯爵にとって、シャルロッテは再生の象徴だったのだろう。
 伯爵は日ごとシャルロッテにプレゼントを贈り、その部屋は色とりどりの服と宝石と巧妙に作られた人形たちで溢れていた。贅沢とも呼べる生活の中、それでもシャルロッテは我侭な娘になることはなく、全ての者に優しく接した。彼女は熱心な宗教徒であり、毎夜伯爵への感謝を込めたお祈りを欠かすことはなかった。
 それでも、少女には許されないことがあった。
 伯爵はシャルロッテへの独占欲を隠すことはなく、彼女に町へ出ることを禁じた。庭へも伯爵と一緒でなければ出ることは出来ず、屋敷内を自由に歩くことも召使たちと話すことも制限された。恐らく伯爵はシャルロッテの純粋無垢な心と体躯を己だけのものにしたかったのだろう。時折、気まぐれに伯爵は彼女の部屋に鍵をかけ閉じ込めることもあった。
 シャルロッテは聡明で優しい少女であったが、次第に孤独に怯えるようになる。誰とも話すことが出来ず、部屋の窓から見える薔薇園の花たちを愛でることも出来ない彼女は静かに涙を流すことが多くなった。
 その寂しさは次第に狂気となり、シャルロッテの心を巣食うようになっていった。やがて月日が経つ。無垢な少女から妖艶な女へと変貌するさまに、伯爵は他者に彼女を奪われることを更に恐れ幽閉する日々は増えていく。少女は哀れなほどまでに、孤独となった。変わらず伯爵から贈られるプレゼントを破り捨て、壊し、乱れた髪と見開かれた目でそれらを延々と眺める毎日であった。

 そんなシャルロッテの友と呼べるものは、彼女の広い部屋に溢れたビスク・ドールたちだけだった。美しい人形たちは、どれも少女の姿と酷似していた。ブロンドの美しい髪、ガラス細工の蒼いブロウアイ。服もよくよく見れば、彼女の持つものと同じであった。
「小父様が、外に出てはいけないのだって」
 大きな窓に寄りかかり、外を眺めていた少女はぽつりと零した。
「外はとても恐ろしいのだと、わたくしの目に移る世界はこんなにも美しいというのにね」
 外では庭師が丁度薔薇の手入れをしていた。花を切り取っているので、夕食の長いテーブルを飾るための薔薇なのかもしれない。近頃では、活けられた花にしか触れることのないシャルロッテにとって、庭は遠く夢のような場所だった。
 やがて少女は薄暗い部屋へと視線を動かし、静かに嗤うだけの人形たちを見つめた。数え切れない蒼い瞳がじっとシャルロッテを見つめている。その表情は変わることが不可能だというのに、どれも己を嘲笑っているように感じられ、少女は惨めな気持ちになった。

 ――愚かな娘、愚かな娘。

 くすくすと嗤う声が手元から聞こえる。
 視線を下げれば、無表情に嗤う美しい人形がある。くすりくすりと嗤いは止まることなく、次第に脳裏に響きだし、シャルロッテは思わず耳を塞ぎ目を瞑った。やめて、やめて。願うも、嗤う声は大きくなっていく。
 彼女は人形を鷲掴みし、壁へと叩きつけた。壊れる音と共に、嗤いはぴたりと止む。けれど人形に取り付かれたように、少女の嗤う声が部屋に悲しく響いた。少女は静かに狂っていく。
その後、まるで見計らったかのように伯爵から新しい人形が贈られた。その姿はシャルロッテと精密なほどに似ていて、シャルロッテは込みあがる悲鳴と吐き気をを辛うじて押さえ込んだ。


 更に月日が経ち、シャルロッテは十六の娘となった。
 そしてその女性的な体躯に、伯爵は触れるようになった。彼女が幼い少女の頃、優しく壊れ物を扱うように髪を撫でていた骨ばった手は、彼女を求めるような執拗で粘着質なものへと変わり、その優しい吐息のような言葉もまるで熱くざらついた舌のように彼女の首を舐った。
 伯爵は昔と変わらずシャルロッテを膝の上に乗せ、しかし、それだけでは飽き足らないのかあからさまな愛撫を重ねるようになった。服と肌の間に手を差し入れ、その無垢な蕾を摘み、吐息を零す少女の口腔に手を差し入れ息を止めさせた。
 口端から糸を引く唾液と露に濡れた少女を、
「いけない子だ」
と伯爵は優しい笑みを浮かべながら、その額に軽い口付けをする。シャルロッテはそこで漸く、部屋に散らばるあの人形たちと同じように己もこの男の人形でしかないのだと、強く目を閉じ、その愛撫を受け止めた。受け止める以外の答えを少女は知りえなかったのだ。
 それでも、伯爵はシャルロッテを汚すことはしなかった。美しい娘を汚すことを恐れた。
 毎夜の執拗な愛撫に、それでも清らかな少女は男を嫌うことは出来なかった。己のたった一人の肉親――血は繋がっていないものの、精神的に通じ合った相手を憎むことは出来なかった。いや、憎み方を知らなかっただけなのかもしれない。憎めば楽になれたかもしれないというのに、少女はあくまで伯爵だけを愛し、それゆえに狂った。男の愛撫を思い出し、何度も己を犯した。
 そんな生活の中で、シャルロッテは一度だけ部屋の外に出たことがあった。伯爵が部屋の鍵をかけ忘れたらしく、そして館は無人のようだった。冷たい大理石の廊下へ顔を出しながら、恐れにも似た感情で佇んでいた。長らく伯爵の言葉に従い生きた彼女にとって、彼の言葉に背くことは酷く苦しいものであった。
 しかし、少女は部屋に戻りたくはなかった。半日異常を幽閉されて過ごす生活の中、狂わしいほど外を求めていた。長く立ち止まっていたシャルロッテは、一度だけ、と外への誘惑に一歩その小さな足を踏み出した。響いた靴音に小さく肩を震わす。それでも、歩き出すことを止めることは出来なかった。
 人生の半分はこの館に住んでいるというのに、シャルロッテは広い館を良く知りはしなかった。彼女の世界は寝室と食事室、伯爵の書斎を中心に回っていたので、仕方ないことであったのだろう。誰もいない廊下を歩き、時折すれ違う召使たちは彼女の存在を見て見ぬふりをした。少女は数多くの部屋に驚きながらも、いつかぶりの喜びを感じていた。やはり外の世界は美しいのだと、無垢にも思った。
 やがて、少女は館の一番隅の、古びた木製の扉の前で立ち止まった。美しい装飾のされた扉たちの中で異色を含んだその扉に、彼女は果てしのない魅力を感じた。丸い鉄製のドアノブの手をかけ引っ張れば、鈍い音を立てながら呆気なく開いた。その先に広がっていたのは下へと続く薄暗い階段。冷たい風が、彼女を誘うようにその背中を押した。
「……誰だ?」
 階段を降りた先、聞いたこともない美しい声が問いかけた。
 シャルロッテはびくりと体躯を震わし、声がしたほうへと視線を動かした。美しい青年が、怪訝な色を顔に滲ませて彼女を見つめていた。少女はその時、伯爵以外の男を始めて見たのだった。それも、彼女のように若く美しい青年が同じ館にいるなど想像もしなかった。
「あなたこそ、どなた?」
 シャルロッテはそっと小首を傾げて見せる。すると青年は考えるように顔を顰め、すぐに、名前はない、と答えた。彼女はそのことをおかしいと思った。名前のないものなどあるのだろうかと、疑問に思った。何故名前がないの? 問うても、ないからないんだ、とまるで今すぐにでも彼女を追い出そうとするように言い放った。
「それはおかしいわ。わたくしにはシャルロッテという名前があるもの」
「お前にあっても、俺にはない。それだけだ」
 早く出て行け、と青年の声音は冷たい。しかし少女はその後ろにあるものを見つけて、あ、と小さく声を上げた。それは、人形だった。それも完成されたものではなく、裸の体躯を外気にさらした人形。ただ、その蒼い瞳がじっとシャルロッテを見つめている。少女の視線に気付いた青年はただ、人形だ、とぶっきらぼうに呟いた。
「では、あなたは人形師?」
 少女の輝きに満ちた瞳に、青年は困ったように頷く。そして青年は、すぐに彼女が伯爵の「人形」であることを悟った。その虚ろなガラス玉のような蒼い瞳も美しく輝くブロンドの髪も、彼の作る人形たちと同じだったのだ。だからこそ、少女を一目見た時、困惑した。そして、この少女がここにいてはいけないのだと頭の中で警告音が鳴る。
 シャルロッテは出来かけの人形を手にとって眺めた。無垢な姿は己に似ているが、まったく違う。己はこんなにも美しくない。少女は人形をその胸に抱き寄せ、小さく笑う。ありがとう、と振りむいた彼女の表情を青年は忘れることができなかった。

 人形師と出逢ってからシャルロッテは少しずつ変わり始めた。伯爵の目を盗み、あの薄暗い工場に続く扉を開き、青年の元を訪れるようになったのだ。始めこそは彼女を邪険に扱っていた人形師も、やがてその存在に慣れ、会話を交わすようになった。
 彼は町に住んでいた。時折界隈の様子をぽつぽつと話すこともあったが、大抵はシャルロッテが一方的に様々な話題を見つけていた。それは青年の仕事に関するものであったり、伯爵のことであったり、何気ないことであったりした。それらの話から、人形師は彼女と伯爵が特別な関係にあることを察した。そして、無垢な少女を哀れに思った。
 シャルロッテは人形師を眺める時間に至福を覚え始めていた。彼の細く美しい指先が人形を作る過程を、飽きることなく見つめては、あの手に愛撫されたのなら、と思った。金糸雀の歌声が美しい、ある麗らかな日の事だった。すぐにはっとした。己は何を考えているのかと、羞恥に染まった頬を隠すようにその場を抜け出した。青年に呼び止められる声も、届くことはなかった。彼女はただただ己の裏切りを許せなかった。
 シャルロッテは知らず知らずのうち、美しい人形師に恋心を抱いたのだ。
 それから、彼女は自ら部屋の外へ出る事を拒むようになった。伯爵との夕餉にも出ないことが多くなり、窓の外をぼんやりと眺める毎日。夜はベッドの中で伯爵を想い、そして人形師を想った。シャルロッテは己の感情をどうすればいいのかわからなかった。人形師と出逢う以前を、懐かしいとさえ思った。しかし、青年と過ごした時間も愛おしいものだった。伯爵と顔を合わせるたび、罪悪感がじりじりと心を焼いた。
 彼女の異変を伯爵が気がつかぬはずはなかった。
 彼はシャルロッテの部屋を訪れ尋問のように言葉を重ねたが、彼女はただ横に首を振るだけだった。触れようとしても体躯を震わせる少女の姿に、伯爵は苛立ちを覚える。気がつけば手を上げ、彼女の体躯には紫紺の花が咲き乱れるようになった。それでもはっと我に帰った後は、彼女を抱き寄せその柔らかな髪を撫でた。ごめんなさい、と胸の中で繰り返し呟きながら涙を流す少女は、人形のそれとは違う血の通った人間の温かさをもっていた。


 伯爵は少女のためだけにある若い人形師を雇っていた。会ったこともないというのに、想像の中のシャルロッテの姿から巧妙に人形を作り出す人形師の才能を、彼は高く評価していた。それがシャルロッテの想い人であることを知る由もなかったのである。シャルロッテが閉じこもるようになって数ヶ月、伯爵は人形師より新しい人形が完成したと伝えられる。
 これでシャルロッテも元の彼女に戻るかもしれない、と考えた伯爵は早速人形師を書斎に呼び寄せた。
「これは……」
 人形を手に取り伯爵はしげしげと見つめる。そしてすぐに異変に気付き、若い人形師に視線を送った。青年はただ一言、少し表情を変えたのです、と言った。
 その人形の表情に悲しみともとれるものがあった。今まで彼の作った人形たちはどれも美しい笑みを浮かべていたというのに、この人形は虚無に苛まれるように、蒼いガラス玉の瞳で伯爵を見つめる。これではシャルロッテに贈ることはできない、と口を開きかけた男を、青年は、一つだけ、と遮った。
「なにかね」
「お嬢様はお元気ですか?」
「もちろんだとも。何故、そのようなことを訊くのかね」
 伯爵は怪訝そうに人形師を見つめたが、彼はただ首を横に振る。失礼します、と軽く会釈をして、しかし扉の前で再び振り返った。そして、こう言った。もし、あなたが本当に愛して差し上げているのなら、どうかあの子を、シャルロッテを自由にして上げてくれ、と。伯爵は去り行く青年を、ただ見つめることしか出来なかった。
 その人形を作り終えたら、人形師は町を出ようと考えていた。もう人形は作らないと心に決めていた。彼はシャルロッテの気持ちに気付いていたのだ。だからこそ、離れなければならないと思った。不意に視線を感じて顔を上げると、館の二階の部屋から彼女の姿が見えた。表情こそは見えなかったが、その時、彼は彼女が泣いているのだと思った。たとえ涙は流れなくとも、その乾いた心は潤いを求め泣いていたのだ。
 やがて彼は遠く離れた町でささやかな家族を持ち、幸せな日々の中であの館のことを記憶の底へと追いやってしまった。あの狂った館を思い出そうとはせず、己の家族の幸せだけを願った。その記憶を掘り起こしたのは長く寄り添った妻が流行り病で亡くなった時だった。人形師は妻の葬式の帰り、一人の少女を偶然見つけた。
 ブロンドの髪と、振り返った時に見えた蒼色の瞳。たった一度、彼女が見せた笑顔とまったく同じそれに彼は思わず立ち止まってしまった。そして、その胸に抱きかかえられていたのはいつかの人形――あの悲しき表情の人形だったのだ。
 人形師は、何かに突き動かされたかのようにあの町へと旅立った。記憶の底に眠っていた記憶を頼りに老体に鞭打ち、館へ辿り着いた。あの頃青年であった己も今では年老いてしまったが、館の姿も同じく寂れ廃れ、人を近づかせぬ雰囲気をまとっていた。そこには記憶の中の美しい姿の少女もいない。
 町で聞いた噂が、不意に頭を過ぎる。五十年前、人形師が町を去って数ヵ月後のこと、シャルロッテの部屋に二つの死体が見つかったという。一つは伯爵のもの、もう一つは少女のもの。無数の人形たちに囲まれ血の海の中で二つの体躯は絡み合うように倒れていたのだと、伯爵が狂って少女を殺し自からも命を絶ったのだと、その噂を聞いて人形師は罪悪感を覚えた。もしかしたら、彼女が死んだのは己のせいではないだろうかと。しかし、屍にその真意を尋ねることはもうできぬ。
 蔦の絡まる錆びた大きな門の手前、人形師は手に持っていた木箱か一体の人形を取り出した。それは、あの最後の人形の前に作った試作品の人形だった。彼は人形に名前をつけることはしなかったが、その人形だけ特別に名前がつけられていた。
 ――レディ・シャルロッテ。
 彼の少女は何も残さずに死を迎えたが、その美しい心は彼が生きる限り永遠なのだろう。
 人形師は人形をそっと門の傍に置き、そしてもう訪れることのないであろう館を背にする。振り返ることは決してしなかった。吹き込む冷たい風と幾重にも重なり合う雲の下、やわらかく微笑む小さな人形の蒼い瞳から、一滴の涙が零れた。
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