レディ・シャルロッテ
 その古城は連なる山脈の麓の小高い丘に、まるで外の世界を拒むように建てられていた。
 主の居ぬ城は月日とともに荒れ、雨雪にさらされ屋根が崩れた塔は不気味に聳え、硝子の割れた窓に吹き込む冷たい風は女の泣き声のようであった。庭は荒れ果てて蔦が壁を覆い、かつてあったはずの栄華をも飲み込んだ。
 夜には町に影を落とすその蒼然たる姿を、恐れ疎むのは仕方のないことなのだろう。
 ひとびとは口々に囁く。

 ――『人形の館』に近づいてはならぬ。近づけば帰ってこれぬ、と。

 良からぬ噂は、時間とともに事実を風化させていく。
 かつてこの城に住んでいた少女の存在をも、そうして葬り去ろうとするのだ。
 これは悲しくも美しい少女『シャルロッテ』の半生にまつわる物語――




 半世紀前へと時を遡ろう。産業革命が瞬く間に人々の生活を変化させていった時代。貴族たちの栄華にわずかな陰りが差し始めたそんな時代。
 その頃の城は、領主であるさる伯爵の邸宅だった。無数の薔薇が咲き乱れ、金糸雀が歌を紡ぎ、四季の移ろいが美しい庭園。館の白い漆喰の壁は、遠くでも自ら光を含んだように眩しく美しかった。

 その城をみる者は、その場所を『楽園』と呼んだだろう。
 そんな楽園に、美しい少女が伯爵とともに暮らしていた。
 少女の名はシャルロッテという。
 伯爵が都で花売りをする幼い娘を見初め、城に招いたのだ。

 彼は少女を完璧な淑女になるよう教育を施した。言葉遣いのひとつひとつから、細やかなマナー、外国語や音楽などの教養。そして指先から足の先まで完璧に叩き込まれた所作。身につけられた美しく気品のある立ち振る舞いと笑うと愛嬌のある表情、そしてブロンドの髪とサファイアのように輝く青い瞳を伯爵は愛した。数年前に妻を喪った伯爵にとって、若々しく純粋無垢なシャルロッテは再生の象徴だったのだろう。
 伯爵は有り余る富で、シャルロッテに何不自由ない生活を与えた。少女の部屋には色とりどりのドレスと宝石装飾、香り高い花々、巧妙に作られた人形たちで溢れていた。贅沢とも呼べる生活の中、それでもシャルロッテは我侭な娘になることなく、優しく聡明な娘に成長していった。彼女は敬虔な教徒であり、毎夜伯爵への感謝を込めたお祈りを欠かすことはなかった。
 それでも、少女には許されないことがあった。

 伯爵はシャルロッテへの執着を隠すことはなく、彼女の行動を制限した。塔のある西館に少女を軟禁し、部屋の鍵は伯爵が管理した。庭へも伯爵と一緒でなければ出ることは出来ず、屋敷内を自由に歩くことも召使いたちと話すことも制限された。
 伯爵はシャルロッテの心と躯を己だけのものにしたかったのだろう。
 時折、気まぐれに伯爵は少女を部屋に一日中閉じ込めることもあった。けれど、狂気をはらんだ伯爵の行動さえ、シャルロッテは受け入れた。慈悲深い少女は、伯爵の心に巣食う孤独感を知っていたのだ。
 けれど、数日に渡り部屋に閉じ込められたとき、彼女の心に小さな恐れが落とされた。誰とも話すことが出来ず、部屋の窓から見える薔薇園の花たちを愛でることもできないシャルロッテは、静かに涙を流した。飢えと寂しさは次第に狂気となり、シャルロッテの心を蝕んでゆく。
 それでも、鍵を開けた後の伯爵はひどく優しくなった。
 彼女を抱きしめ、許しを請う。

 ――許しておくれ私の可愛いひと。

 額から頬へ、指先から首筋に丁寧に口づけをして、そして唇を重ねられ、深く甘いキスをした。不思議と、シャルロッテは己の心が満たされるのを感じるのだった。彼はわたしを愛しているのだ、と。



 やがて月日は経ち。
 初潮を迎えたシャルロッテは、コルセットを締め、長いドレスを身に纏うようになった。髪を上げ、長い首筋が露わになる。無垢な少女から妖艶な女性へと変貌する狭間にあるシャルロッテの姿に、いよいよ伯爵は少女を誰にも会わせなくなり、いっそう幽閉される日々は増えていった。
 慰めにと送られる花々は部屋に溢れ甘い香りを散らす。
 少女は哀れなほどまでに、孤独となった。
 どうすれば伯爵に愛されるのかと、考えるばかりであった。
 そんなシャルロッテの友と呼べるものは、彼女の広い部屋に花と同じように溢れたビスク・ドールたちだけだった。美しい人形たちは、どれも少女の姿と酷似していた。ブロンドの美しい髪、ガラス細工の青いブロウアイ。ドレスも彼女の持つものと同じであった。

「小父様が外に出てはいけないのだって」

 大きな窓に寄りかかり、外を眺めていた少女はぽつりと零した。
 膝の上に載せた人形の髪を優しく撫でる。

「外はとても恐ろしいのだと、言うのよ」

 満月の夜の元、城下に広がる街には淡い光が灯っていた。
 窓を開ければ、もう遠い思い出のような庭から百合の香りが風に乗って鼻に届いた。
 都にいた頃、思い出されるのは女たちのかなきり声と酒に酔った男たちのいやらしい視線。塵だまりのような街の中で、襤褸を纏う貧相な花売りの少女。稼ぎがなければ娼婦である母の暴力が待っていた。

 ――この役立たず。

 醜くゆがんだ顔をした母。己の老いを何よりも恐れた美しい母。
 そんな母の姿を、美しいドレスと宝石を身に纏ったシャルロッテは嘲笑う。今ではもう神への祈りの言葉も忘れてしまった。シャルロッテにとって神はただひとり。
 そうだ。わたしは幸福を手に入れたのだ。あの女とは違う。伯爵の愛が離れなければ、きっとわたしは幸せを手に入れることができる。完璧な淑女を彼の望むままに演じるのだ。わたしは伯爵の完璧な『人形』なのだから。
 少女は薄暗い部屋へと視線を動かし、静かに微笑むだけの人形たちを見つめた。数え切れないほどの青い双眸がじっとシャルロッテを見つめている。その表情は変わることが不可能だというのに、どれも己を嘲笑っているように感じられ、少女は顔を歪めた。

 ――愚かな娘、愚かな娘。

 くすくすと嗤う声が手元から聞こえる。
 視線を下げれば、無表情に嗤う美しい人形がある。くすくすと嗤いは止まることなく、次第に脳裏に響き、シャルロッテは思わず耳を塞ぎ目を瞑った。

 やめて、やめて。
 願うも、嗤う声は大きくなっていく。

 彼女は人形を鷲掴みし、壁へと叩きつけた。陶器の壊れる音と共に、嗤いはぴたりと止む。けれど、次には人形のごとく嗤う少女の声が部屋に悲しく響いた。静かな狂気がシャルロッテに取り憑いたことを、月だけが知っていた。
 ある晩餐の夜。数日ぶりに部屋を出たシャルロッテは、伯爵から新しく贈られたドレスを身に纏い、伯爵の元へと赴いた。少女の前に膝をつき、伯爵は懺悔をする。少女は自らの唇を伯爵の唇に重ね合わせた。赦すと、囁きかければ、彼は満ち足りた表情で愛の言葉を連ねるのだった。
 そして、まるで見計らったかのように伯爵から新しい人形が贈られる。シャルロッテは湧き上がった吐き気を押さえた。その姿はシャルロッテと精密なほどに似ていた――。
 

 シャルロッテが十六歳を迎えた晩。
 今まで決して躯に触れようとしなかった伯爵は、少女の寝室をおとなった。
 初めてのことに少女はひどく戸惑った。けれど逃げることもできずに唇を重ねられ、そして柔らかな舌が差し入れられる。長く深いキスに息ができなくなり、思わず目を閉じた。
 伯爵の大きく骨張った手が求めるように少女の未熟な蕾に触れた。そして躯の輪郭をなぞるように指先が舌へと流れていく。くすぐったいような、けれど奇妙な気持ちが湧き上がって、吐息が漏れた。

「ああ、だめだよシャルロッテ」

 伯爵は幼子をあやすようにシャルロッテを膝の上に乗せ、愛撫を重ねた。純白のネグリジェと肌の間に手を差し入れ、吐息を零す少女の口腔に手を差し入れ息を止めさせた。
 口端から糸を引く唾液と露に濡れた少女を、

「いけない子だ」

 と伯爵は優しい笑みを浮かべる。何度も額に軽い口付けを重ねた。
 優しい手つき、優しい瞳。けれど。
 シャルロッテは瞳を開ける。深い色の瞳と視線が重なる。しかし、伯爵の目には少女は映っていなかった。何度も名前を呼ばれる。耳をくすぐる甘い声。それは確かに彼から与えられた名前であるはずなのに、別の誰かへと向けられた言葉だった。

「ねぇ、私の完璧な人形。決して手放さないよ」

 シャルロッテは思う。永遠にこの檻の中で、男の求める女の幻影をただ演じ続けるのだ。強く目を閉じた。けれど最早、この偽りの愛を受けとめる以外の道を、少女は知りえなかった。長い長い夜の帳は、彼女の冷えた躯を闇の底へと沈めていくのだった。
 それでも、伯爵はシャルロッテの純潔を奪うことはしなかった。
 花開いた薔薇のような美しい娘を穢すことを恐れた。

 毎夜の優しい愛撫に、それでもシャルロッテは男を嫌うことは出来なかった。己のたったひとりの保護者――血は繋がっていなくとも、長い月日を経て精神的に通じ合った相手を憎むことなど出来なかった。いや、憎み方を知らなかっただけなのかもしれない。
 憎悪すれば楽になれたかもしれないというのに、少女は伯爵の愛を求め、それゆえに静かに狂った。男の愛撫を思い出し、何度も己を犯した。彼はいつになればわたしを穢してくれるのだろうと、夢想した。

 幽閉された生活の中で、シャルロッテは一度だけ部屋の外に出たことがあった。
 夜明け前に部屋を後にした伯爵が部屋の鍵をかけ忘れたのだ。
 そのことに気づいたシャルロッテは扉に手をかけたが、躊躇った。彼女の世界がこの部屋で完結して久しい。それ故に外で何が待ち受けているのか、考えるだけで指先が震えた。長らく伯爵の言葉に従い生きた彼女にとって、彼に背くことは酷く苦しいものであった。
 けれど、それでも扉を開けたのは、予感があったからか。

 西館から食堂へと向かう長い廊下を進んでいく。城は無人のようだった。冷たい大理石にシャルロッテの姿が映し出され、小さな足音が辺りに響いた。
 何度か足を止め部屋に戻ろうかと考えた。けれど、少女は戻りたくはなかった。幽閉されて過ごす生活の中で、ほんとうは狂わしいほど外の世界を求めていた。そのことに見て見ぬふりをしていただけだ。小さな足を一歩一歩と踏み出す。震える足は、それでも歩みを止めることはなかった。
 小さい頃からこの城に住んでいるというのに、シャルロッテは広い館をよく知りはしなかった。彼女の世界は寝室と食事室、伯爵を中心に回っていたので、仕方ないことであった。静かな廊下を歩き、少女は数多くの部屋に驚きながらも、いつかぶりの喜びを感じていた。外の世界を懐かしく思った。

 やがて、少女はある扉の前で止まった。
 左右対称の天使のレリーフが施された重厚な扉だった。通り過ぎた扉の中でも異色を含んだその扉に、彼女は果てしのない魅力を感じた。丸い鉄製のドアノブの手をかけ引っ張れば、重々しい音を立てながら呆気なく扉は開いた。
 天井は高く装飾の細やかな部屋だった。壁のひとつは天井まで届く大きな窓になっており、柔らかな春の陽射しを取り入れていた。シャルロッテは部屋の真ん中に立って、部屋をゆっくりと見回した。
 壁一面に大小の肖像画が飾られたギャラリーだった。歴代の伯爵たちとその姿が描かれている。どの伯爵も現当主の面影があった。壁一つ一つを眺めていく。けれど、一方の壁に飾られた肖像画へと視線を動かしたとき、シャルロッテは息をのんだ。
 人の身長をゆうに超える大きなキャンバスに描かれた女性は――シャルロッテだった。

 いや、驚くほどに似ているが絵の中の彼女はシャルロッテよりも少し年上に見えた。美しいブロンドの髪に花を飾り、露わになったなで肩と純白のナイトドレス。手袋をした手には扇を持っている。自信に満ちた立ち姿は高貴だった。雪のように白く滑らかな肌。柔らかな赤い唇に笑みを称え、宝石のような青い瞳は真っ直ぐにシャルロッテを見据えていた。

 ああ、と声が零れ出た。

 伯爵が喪った本当の愛、シャルロッテ伯爵夫人。わたしは貴女を真似た人形だったのね。
 壁一面に伯爵夫人の肖像が飾られていた。花園の中に立つ夫人、読書をする夫人、伯爵とともに描かれた一枚。美しいひとだった。けれど、その瞳に悲しみがあるのは気のせいだろうか。
 時を忘れてその姿を見つめていたシャルロッテは、背後で扉が開く音にはっと我に返った。伯爵の姿を想像して、恐る恐る振り返る。
 けれど、開かれたのは部屋の隅にあった小さな飾りの扉で、現れたのはひとり青年だった。
 彼は顔を上げると、部屋に先客がいることに驚いたような表情をして、怪訝な色を滲ませた視線をシャルロッテへと送った。 

「……誰だ?」

 低く鋭い声音だった。
 向けられた敵意にシャルロッテは躯を竦ませた。
 少女は伯爵以外の男を始めて見たのだった。それも、若く美しい青年が同じ城にいるなど想像もしなかった。青年は無造作に髪を伸ばし、くたびれた白いシャツにズボンという出で立ちだった。

「貴方こそ、どなた?」

 シャルロッテは湧き上がる恐怖を押さえ聞き返した。
 すると青年は考えるように首を傾げ、名前はない、と答えた。
 シャルロッテは困ったように眉を寄せた。名前のない人間などあるのだろうか。

「どうして名前がないの?」
「この城に来た者は名乗ることを禁じられているからだ」

 ぶっきらぼうに青年は言う。そして手を頭に持っていき自分の髪をくしゃりと乱した。何かに困ったように、ぶつぶつと呟いたが、その声はよく聞こえなかった。
 青年は長い躯を伸ばし、先ほどと打って変わってうやうやしくお辞儀をした。

「どうかご容赦を。外からくる使用人はお嬢様にお会いしてはならぬのです」
「どうして?」
「伯爵様がそうお決めになったからです」

 どうか俺に出逢ったことはお忘れください、と青年は顔を上げずに告げる。そしてシャルロッテが言葉を返す前に扉の向こうへと引き返した。

 ――伯爵が決めたこと。

 それはシャルロッテも守るべき規律だ。しかし、そのとき、確かな予感が胸の内に芽生えた。
 気づけば、その小さな扉を開けていた。狭い通路の先には下階へと続く石造りの長い階段があった。果ての見えない階段の下から風が吹き込み、シャルロッテの髪をふわりと揺らす。コツコツと青年の足音が響いている。

 シャルロッテは躊躇った。けれど、胸の前で手を重ね合わせ、呼吸を落ち着かせる。この先に待っているのは知りたくなかった真実かもしれない。それでも一度芽生えた好奇心は簡単に拭い去ることはできないのだ。階段を一段一段、そっと音を立てないように降りていく。
 風に嗅ぎ馴れないにおいが混じった。薄暗い階段は見かけよりもすぐに終わり、その先にあったのは飾り気のない部屋だった。大きな卓が壁際にあり、絵画でつかう筆や絵の具で溢れていた。壁に掛けられた白いキャンバスの数々。真ん中に置かれたイーゼルには一枚の絵が掛けられていた。
 シャルロッテはその絵の前に回り込んだ。
 その中に描かれていたのは、亡きシャルロッテ伯爵夫人だった。
 少女にそっくりの髪色に手を伸ばそうとした。

「何をしている」

 咎められてすぐに手を引き込めた。
 青年は困惑した目ででシャルロッテを見ていた。少女にはその表情がどこか哀れみを含んでいるように感じられ、たちまち不安は凪いでいった。

「……貴方は画家なのね」

 確かめるように問いかける。
 答えは聞かずともわかっていた。若き画家はシャルロッテの言葉を伺うように、じっと茶色の瞳を向けている。なんて美しい目なのだろう。

「わたしはこのひとのこと、そしてお城のことを知りたいの」

 シャルロッテが演じているこの伯爵夫人はいったいどんなひとだったのだろう。
 青年なら知っているのではないかと、そう考えた。

 ――だから教えてくださらない?

 シャルロッテは微笑を浮かべ、囁くように言葉を続けた。


 画家と出逢ったことで、シャルロッテは少しずつ変わり始めた。
 伯爵の目を盗んでは、工房に続く扉を開き、薄暗い階段を降り、青年の元を訪れるようになった。始めこそは彼女を邪険に扱っていた画家も、やがてその存在に慣れ、会話を交わすようになった。
 彼は町に住んでいた。時折外の世界の様子をぽつぽつと話すこともあったが、大抵はシャルロッテが一方的に様々な話題を見つけていた。それはシャルロッテ伯爵夫人のことであったり、青年の仕事のことでであったり、伯爵のことであったり――やがて、とりとめもない会話を交わすようにもなった。

 彼はシャルロッテと伯爵の特別な関係のことを知っているようだった。
 けれど、そのことに触れることはない。
 シャルロッテは画家が作業するのを眺める時間に至福を覚え始めていた。彼の細く美しい指先が作りだす絵の世界を飽きることなく見つめては、あの手に愛撫されたのなら、と思った。
 どこからか聞こえる金糸雀の歌声が美しい、ある麗らかな日の事だった。
 シャルロッテは己の思考に戸惑った。己は何を考えているのかと、羞恥に染まった頬を隠すようにその場を抜け出した。青年が呼び止める声も届くことはなかった。彼女はただただ己の裏切りを許せなかった。
 シャルロッテは知らず知らずのうち、美しい画家に恋心を抱いたのだ。

 それは『シャルロッテ』という人形にあってはならない感情だった。彼から聞いた伯爵夫人の末路を考える。伯爵と結婚した夫人は最初こそ幸せな日々を送っていたが、やがて伯爵の嫉妬深さから幽閉されるようになった。社交的で聡明だった彼女はその生活に耐えられず、ついには狂ってしまい、西の塔から身を投げた。伯爵はそのことが受け入れられずに、失意の中で身代わりの少女に出逢う。
 完璧な『人形』であらねば、わたしは捨てられてしまう。

 それからというもの、シャルロッテは部屋に入ろうとする者を拒むようになった。
 伯爵との夕餉にも出ないことが多くなり、窓の外をぼんやりと眺める日々。夜はベッドの中で伯爵の愛を想い、そして画家の声を姿を思って浅い眠りについた。シャルロッテは、始めての感情をどうすればいいのかわからなかった。画家と出逢う以前を、懐かしいとさえ思った。部屋をでなければ何も知らないままだったのに。やがて、小さくちっぽけだった花売りの少女がシャルロッテに語りかけるようになった。

 ――ねぇ、あなたは誰なの。

 わたしは何者でもないただの人形。
 そんな少女の異変を伯爵が気がつかぬはずはなかった。
 彼はシャルロッテに何があったのだと訊ねたが、少女はただ横に首を振るだけだった。触れようとしても躯を震わせるその姿に、伯爵はだんだん苛立ちを覚えるようになっていった。

 ――また私を拒むのか。

 今まで一度として拒んだことなどないというのに。
 伯爵の仄暗い感情は暴力となってシャルロッテに降りかかり、その白く柔らかな肌には紫紺の花が咲き乱れるようになった。
 それでも伯爵は我に帰ると、彼女を抱き寄せその柔らかな髪を撫でた。謝罪を繰り返す男の姿に、シャルロッテは己の心が死んでいくのを感じた。やがて、わたしはほんとうにただの空っぽの人形になるのだ、と。


 夏至の日のこと。日は長く、夜はまだその姿をぼんやりと東の空に見せ始めた頃。伯爵は首都での大舞踏会のために、数日城を開けていた。シャルロッテは自分の部屋のソファーに横たわり、ぼんやりと明るい空を窓の向こうから見ていた。何を目に映したとて、シャルロッテはもう何も見てはいなかった。

 無感情の心は、痛みさえも感じなくなっていた。
 ただひとつ、逢いたいひとがいた。その思いは膨れるばかりなのに、少女にはどうしようもなかった。この檻の中から出る勇気など持てるはずもなく、ただひとつひとつの感情を消すことしかできない。
 バルコニーへ続く窓が前触れもなく開かれた。
 カーテンが風にふわりと揺れ、その向こうに人影が立っている。
 シャルロッテは上半身を持ち上げ、「誰なの?」とかすれる声で問いかけた。人影は窓辺に立って顔を上げた。画家の青年は優しげな表情で少女を見た。

「こんなところから失礼を。貴女を迎えにきました」
「わたしをどこへ連れていくの……?」

 シャルロッテはかすかに声を震わせ、身を引いた。

「外の世界を見てみませんか。今日は夏至祭りの日なのです」
「夏至祭り……」

 年に一度の夏至祭りの夜、町には遅くまで明かりが灯り人々は踊り食べ明かす。シャルロッテはその様子をバルコニーで眺めることが好きだった。賑やかな音楽と楽しげな喧噪。決して行けぬその場所を遠くからただ見ていた。
 だからだろうか。シャルロッテは躊躇いながらも、青年の手を取っていた。
 彼は地味なマントを少女に着させると軽々と少女の躯を抱え上げ、バルコニーを飛んだ。まるで夢を見ているようだった。彼は馬を走らせ、城と町の間に横たわる小さな森を抜ける。夕日色に染められた薄暗い森は緑の濃い匂いがした。馬の息と青年の心音が近くで聞こえ、シャルロッテは目を閉じその感覚に身を任せた。
 町の少し外れで馬を下りると、顔を覆い隠すようにマントの頭巾を深く被り、青年が差し出した手にシャルロッテは手をそっと重ねた。温かく力強い手の感触は初めて知るものだ。

「今宵は城のことは忘れましょう」

 彼は優しく囁いた。
 町は色とりどりの花で飾られ、薄明るい空は橙色と薄紫色に染められ美しかった。建物の出入り口にかかげられた松明と、並んだ出店。その間を行き交う人々の表情は明るく幸せそうであった。
 青年に先導され、時折出店を覗き、甘いお菓子を食べた。ひとの温かな体温をこんなにも近くで感じることは初めでだった。シャルロッテの幼い頃の記憶の中でも、美しいものに囲まれて過ごした城でも感じなかった暖かさ。真新しい感覚に戸惑いながらも、不思議と心地よくも思っていた。
 町の中心にある広場では花で飾られた三角のポールが建てられ、その周りで人々が輪になって踊っていた。軽やかな旋律に乗って、晴れ着姿の男女が手を取りくるくると回っている。シャルロッテはその様子を隅で熱心に見つめていただけだったが、やがて曲が変わると、青年は手を差し伸べて、

「どうか俺とダンスを」

 そうしてシャルロッテを輪の中に導いた。

 後ろに立ち少女を抱き込むように手を組む。音楽が始まったとたん、シャルロッテは戸惑ったように青年を振り返った。

「でも、わたし踊り方を知らないわ」
「大丈夫です」

 前をよく見て、あとは自分がリードしていくと、彼は請負う。不安げにステップを踏んでいたシャルロッテも彼のリズムにだんだんと動きを合わせていき、そして踊りに夢中になった。軽くステップを繰り返して、手を離しお互いにお辞儀をして、そしてまた手を取りくるくると周る。深く被っていたフードがはらりと捲れて、ブロンドの髪が緩やかに舞った。シャルロッテは気づけば、花が綻ぶような笑みを浮かべて青年を見つめていた。喧噪の中で、まるで景色から切り取られたような一瞬だった。

 青年が囁く。

「俺の名前はルカ」

 シャルロッテはその名前を舌の上で転がした。

「やっと貴方の名前を呼べるのね、ルカ」

 微笑みかければ、彼はシャルロッテを引き寄せて耳元で囁いた。

「貴女の本当の名前はなんですか?」
「わたしのほんとうの名前? わたしはシャルロッテよ」
「それは城での名前でしょう。貴女ももう知っているはずだ。伯爵はシャルロッテ夫人の身代わり人形として少女の貴女を連れてきただけで……貴女はただ夫人の人生をなぞらされているだけだと」

 とたん、シャルロッテはルカの躯を両手で押し戻した。溢れそうになる涙を堪え、逃げるように踊りの輪から駆けだした。無我夢中で路地を通り抜け、城へと続く石橋に辿り着いてようやく立ち止まった。激しく胸打つ鼓動に心臓の辺りを押さえた。息が苦しくて咳き込む。
 その後ろで追いかけてくる足音が聞こえる。
 振り返ると、ルカは悲しげな表情をしてシャルロッテの数歩後ろで立ち止まった。
 息を整え少女は背筋を伸ばした。かすかに吹き始めた夜風に美しいブロンドの髪が揺れた。
 その美しい青い瞳は感情の一切を底に沈めたように凪いでいた。

「……わたしは、シャルロッテ」

 それは自分に言い聞かせるような響きを含んでいた。

「このままあの城に縛られて生きるのか。本当の人生を捨ててまで?」

 青年は苦しげに眉を寄せ、問いかけた。

「今あるわたしがほんとうのわたしなの」

 ――グズグズするんじゃないよ、マリー。
 どこからともなく、忘れたはずの声が脳裏で響く。
 シャルロッテは俯き自分の顔を覆った。「違う、違うの」と少女は何度も小さく繰り返す。

「わたしはもうあのちっぽけなマリーなんかじゃない」
「マリー……?」

 心の中で囁いたはずの独白は、けれど青年の耳にしっかりと届いていた。
 はっとシャルロッテは顔を上げた。前触れもなく頬から涙が伝う。ああ、わたしは過去からも檻の中からも逃げることはできない。完璧な人形になんてなれない。触れればぽろぽろと躯が崩れるビスクドールのように。
 その時、ルカの背後で悲鳴が上がり馬のいななきが響いた。

 それは瞬く間のことだった。迫り来る馬の姿に、シャルロッテは青年をかばうように躍り出る。馬がその前足を高く上げ、そしてシャルロッテの頭へと落とした。鈍い音。駆け寄ってきた人々の悲鳴が遠くに聞こえる。額が燃えるようだ。
 倒れ込もうとしたシャルロッテを青年が抱きかかえる。ぼんやりする視界に、今にも泣きそうな彼の顔が見えた。鈍い痛みに頭に触れるとぬるりと生ぬるい感触があった。

「マリー、マリー!」

 青年が忘れたはずの名前で呼びかける。
 シャルロッテは震える手を伸ばした。血に濡れた指先が彼の頬に触れたとたん、意識はふつりと切れた。




 伯爵は亡きシャルロッテ伯爵夫人を描くために画家を雇っていた。
 逢ったこともないというのに、懐かしきシャルロッテ夫人の姿を巧妙に描き出す才能を、伯爵は高く評価していた。しかし画家が、シャルロッテの傀儡である少女と出逢っていたことなど想像もしていなかった。

 夏至の夜、城を勝手に抜け出した少女は馬に額を蹴られ、命は助かったものの未だ目覚めない。医者にも覚醒する望みは薄いとも告げられた。なんと愚かなことを、と伯爵は冷めた思考で眠る少女を見下ろした。小さく息をする少女は記憶の中の愛おしひとと瓜二つだ。けれど、頭には白い包帯が巻かれ痛々しい。
 どうやって城を抜け出したのかはわからない。
 偶然町にいたお雇い画家がシャルロッテを見つけて、そうして城に連れてきたのだと聞いている。抜け出そうとするからだ、と伯爵はその頬を撫でそうっと囁く。

「もう、どこへも行かせはしない」

 空に恋い焦がれるのなら、翼をもげばいいだけのことだ。
 画家が絵が完成したと書斎までやってきた。彼には夫人の肖像画を描くように言いつけてあり、新しい一枚ができたのだろうと顔を上げ部屋に入るように告げた。
 この画家は腕こそは良いが、無表情で感情が読めない。言葉数も少なく淡々と仕事をこなすので、伯爵はそれを気に入っていた。何にせよ従順であるほうがよい。
 彼は抱えた絵画を部屋の隅にあるイーゼルに置いた。
 伯爵は立ち上がり、その前に立つ。

「どれ、今回はどんな絵を描いたのだ?」

 青年は伯爵から静かに目を逸らし、そしてキャバスにかけられた布を取り払った。
「これは……」伯爵はそう零し、我に返ったように、

「これは何だね」

 怒りと戸惑いを含んだ低い声で、青年を見据え問うた。
 キャンバスには溢れんばかりの数の白百合に囲まれて眠る白いドレスの少女が描かれていた。
 それはまるで棺の中で眠る姿を描いているよう。少女は長い睫を伏せ、微笑を口元に浮かべていた。緩やかに花々の合間を流れるブロンドの柔らかな髪。これは伯爵の愛したひとではない。別人だ。
 ルカはゆっくりと口を開いた。

「この少女の名前はマリー……――伯爵様が籠に閉じ込めた美しい鳥です」

 青年の表情に悲しみともとれるものがあった。
 伯爵はその絵から目を離すことができなかった。眠る少女が目覚めることはない。なのに、何かを訴えるようなその姿に指先が震えた。やがてそれは夫人の姿に重なり、そしてかつて都で拾った人形の姿へと変わる。

 ――貴方にはひとの心がないのです。

 それはかつて愛おしいひとから言われた言葉。哀れみ含んだ声音は忘れようもない。
 そう言い残して、雪の降る日に彼女は自分を置いて死んでいった。赦されないことだった。美しい笑みを浮かべていた愛おしいひとは、最後は人形のように壊れたのだ。
 伯爵様、と青年は無機質な声で呼びかけた。

「なにかね」

 はっと我に返り、伯爵はどこか恐怖をはらんだ目でルカを振り返った。

「シャルロッテ様はお目覚めになられましたか?」
「……何故そのようなことを訊くのかね」

 この画家は何を知っているというのだ。
 伯爵の言葉に彼はただ首を横に振り、では失礼します、と軽く会釈をして、しかし扉の前で再び振り返った。そして、こう言った。
 もし、あなたが本当に愛して差し上げているのなら、どうかあの子を、シャルロッテを自由にしてほしい、と。
 伯爵は去り行く青年を、ただ見つめることしか出来なかった。




 『マリー』の肖像画を作り終えたら、ルカは町を出ようと決めていた。
 シャルロッテはもう目覚めることがないかもしれない、と城の使用人から聞いたとき、後悔で胸が締め付けられた。けれど少女が自分に抱きかかえられながら、薄れゆく意識の中で囁いた言葉がずっと頭の中で繰り返されている。

 ――泣かないで、伯爵様……

 そうして、気づいた。

 シャルロッテにとって、城での自分こそが価値あるものなのだ。
 彼女は健気にただひとりの――伯爵の愛を求めていたのだ。それが偽りの愛だとしてもかまわなかった。だからこそ、最後にあの絵を描くと決めたのだ。たったひとりの、哀れでいて美しい少女への弔いに。
 月日は無情にも過ぎ去って、城から遠く離れた都で、青年はある噂を聞くことになる。
 さる城の伯爵が美しい少女と心中をしたという。それはさも絵画のごとき姿で、人々はその姿に驚いたのだと。溢れんばかりの生花で飾られたベッドの中で、伯爵は少女の胸の抱かれ、穏やかな表情で眠るように死んでいたのだという。

 少女の温もりを想い、ルカは静かに涙を流した。

 ――レディ・シャルロッテ。

 身代わりの人形は、けれど、ようやく自由を手に入れた。
 果たして、少女は焦がれてやまなかった愛をその最期で手に入れることができたのだろうか。
 それを知るのは、いまや主を亡くした城ばかりだ。