薔薇の棘にお気をつけて
 ”愛しのビアンカ・エイリー

 君がこの手紙を読む頃、恐らく私はもうアメリカにいないだろう。運が良ければ船の上、悪ければ死んでいるこの身であることだけ、せめて所在を教えない代わりに伝えようと思う。
 こうして改まって直筆の手紙を書くのは久しぶりな気もする。毎日のようにタイプライターに向かい、煙草を吹かしながら書く新聞記事とは違った意味で緊張するものだ。しかし、私はこの手紙を書かなければならないと決めたのだ。
 私がどんなに頑固な男であるか、君が一番知っているだろう?

 こうと決めれば梃子でも動かないときたから、周りは困ったものだ。こうして手紙を読んでいる君の苦笑も目に浮かぶようだよ。そう、私は手紙を書くと決めたのだ。君に宛てる初めての手紙を。
 だからまず、ソファーで眠る君にタオルケットをかけ、濃いコーヒーを片手にガタガタと動く古い机――私が何度も捨てようとして、しかし君がアンティークなデザインを気に入って頑として捨てさせなかったあの机だ――に座った。そして使い古された万年筆を手に取り、さてどこから始めようか、とここまで書き、薄い茶色の染みが浮かんだ天井を見上げてみたりする。
 思えば、この狭いアパルトマンには君と出逢ってから三年もの思い出が染み付いている。交わした愛情も、大した理由のなかった口喧嘩も、何気ないひと時も、私にとってはどれもひどく懐かしい。こう言ってしまえば年寄り臭くなってしまうがね。頭のおかしい隣人が毎日のように大音量で流しているロックンロールでさえ、今はクラシックのように耳に心地よく響くのだから不思議なものだ。

 君と初めて出逢った時は流行りのジャズが流れていた。バーの小さな舞台で、純白のドレスを着て踊っていた君を今でも鮮明に覚えている。あの時は天使が舞い降りてきたのか、と思ったよ。君の背中には残念なことに翼はなかったが、それでも私の天使には違いなかった。まさかこんな寂れた街にこれほど美しい娘がいたとは、と私は確かに驚いた。
 そして少し言葉を交わしてみれば、眩しいほどの笑顔で「女優になる」と言うのだからたまげたものだ。純粋そうなこの娘が女優などという羨望と嫉妬と賞賛を一身に纏うスキャンダルなものになるなど、想像も出来なかった。しかし一目見て、君にはその才能が十分にあることを、私は悟った。

 そして私が歳端も行かないそんな夢見る小娘と恋に落ちるなんて、それこそ想像が出来なかったものだ。……小娘、などと言えば今の君は怒るだろうな。しかし初めこそ、私は君への感情に戸惑ったものだよ。そんな年でもないのに、初恋を知った青年のような気分だった。
 君と巡り会えたことは私への最高の贈り物であり、幸せであると思っている。胡散臭い新聞記者――しかも君より十も年上のおじさんの私だ。もっと良い人がいるだろうに、と思いながらも君から手を引くことがどうしても出来なかった。長い間孤独だった男はこれだから、と笑い飛ばしてくれ。これを書いている今も、隣で眠っている君の穏やかな寝顔が愛おしいのだ。君のためならば何でも出来ると思うほどに。
 私はしがない新聞記者で、君は銀幕を目指すスターの卵。これほど奇妙なカップルはいないだろう。数日前の君の言葉を思い出す。蜜色の瞳をきらきらと輝かせて、ある映画のヒロインを演じることになった、と言った君は本当に輝いていた。純粋で眩しい輝きだ。
 あの時私はかける言葉が見つからなくて君を少し怒らせてしまったが、これだけ知っていて欲しい。君の夢が叶ったことを、私はとても嬉しかったと。しかし嬉しい反面、少し悲しかったのだ。

 そして君の夢が叶うと同時に私の人生にも転機が訪れた。これまで何度か転機を経験してきたが、これほど苦悩したのは初めてだっただろう。そして君も知ってのとおり、私は共産主義者だ。そのことを隠すつもりはないが、マッカーシズムが闊歩するこの世の中。自由の国だと謳いながら、片や赤狩りの恐怖から自由に発言することもままならない。真におかしなことだというのに、アメリカ国民は足の間に尻尾をおし込んで飼い主の目を伺う犬のように鳴き声一つ上げないのだ。
 赤狩りから召集命令を言い渡され、どうしたものか身に覚えのないことで警察に終われる羽目にまでなってしまった私のような人間が其処此処にいると思うと、なるほど政治もここまで腐敗したかと、少し皮肉な考え方になってしまうものだ。これも小さなローカル新聞社で好き勝手やってきた報いなのだろうか。

 この時、私はすぐに君のことを考えた。君に危害を与えることを一番に恐れた。私の命など元々大した価値があるわけではない。けれど君はまだ若い、幸せに生きてほしい。その蜜色の瞳の中にある輝きを失わないでほしい。しかし、私では君を幸せにできないのだ。情けない話だがね、これまで君を幸せにできていたかさえ怪しい。だから私は一つの決断をした。

 何も言わず、何も残さず、君の元を離れることを。

 私は卑怯者だ。そして弱い人間だ。この決断まで半年も費やした。君を大事に想いながらも、安全を考えながらも、二人の時間を手離すことがどうしてもできなかった。その花のような笑顔を見るたび、私の心は揺らいだ。何度もこのことを言おうとして、しかし君の辛い顔を見るのは偲ばれなかった。その顔を見れば、私は自分を赦すことができなくなるだろう。いや赦しを請うこと自体、愚かだ。こうして君を置いていく自分自身を、私は一生赦しはしない。しかし、一つだけ知っておいてほしい。
 たとえ君に恨まれ罵倒されても、私にとって君は大切な女性で――これからも永遠に私の大切な愛しい人だ。死んだとしてもこの想いは変わることはないだろう。運命の人などいるはずがないと笑う人間がいたとしても、君は確かに私の運命を変えてくれた。だから、何も言わずいなくなってしまった私への嵐のような怒りと悲しみが、穏やかな涼風に変わったとき、どうか笑ってほしい。出逢った頃の、あの花のような笑みで。

 ああ、ビアンカ。

 白を意味するその名前は美しい。君は純白の花だ。
 君はこれから多くの銀幕で花を飾るだろう。そして誰よりも眩しく輝くだろう。その純粋なまでの白い光が汚れることのないよう、私は願うよ。君はいつまでも私の大切な花だ。人生とは簡潔にまとめれば悲しみ半分幸せ半分でできているという。君の人生に多くの幸あらんことを願い、隣で眠るその額に優しくキスを落とそう。
 そうして、手紙を白い封筒に入れこの古びた机の、使われていない最後の引き出しにしまう。君が、私の最後の手紙を見つける日まで――。

愚かな新聞記者
ジェームズ・レシュリスキー”



 手紙を膝の上に置き、ぼんやりと息をつく。この手紙を読んだ後はいつもこうだ。少しの腹立たしさと物悲しさを覚える。何十年も前の手紙なのに、と縁の黄ばんだ手紙を見下ろしてビアンカは小さく苦笑を浮かべる。涼しい風がうなじをくすぐった。
 ふと思い出した頃にこの手紙を読んでしまうのは、きっとあの頃のことを忘れたくないからだと思う。あの男のことを忘れたくないと、ああ、なんて未練がましい女なのだろう。
 広い屋敷の一室にはとても古いアンティークの机がひっそりと置かれている。部屋の装飾とまったく似合わない机。ビアンカはその椅子に座り、部屋から続くバルコニーの向こうから遠くを見る。見慣れた景色は、しかしどこか寂しい。緑溢れる庭が一瞬灰色に変わる。それはあの町――ハリウッド・バビロンの色だ。その中に一組のカップルが寄り添って歩いている。女の赤いコートと男の茶色のコートが闇に溶ける。夜の街は車の排気ガスと煙草と溝のいやな匂いがして、どこからかジャズの軽快な音が耳に届く。汚らしい町。けれど、懐かしい。

 あれからジェームズがどうなったのか、わからない。彼はビアンカが初主演を飾った映画の試写会の日、忽然と姿を消したのだ。この手紙を見つけたとき、ビアンカは既に悟ってしまっていた。彼はきっと戻ってはこないだろうと。落ちた涙が手紙の文字を滲ませるのを見つめながら、それでも怒りの感情はわかなかった。年若い女優は、いなくなってしまった男を想いただただ泣いた。
 たった一度だけ、ビアンカはジェームズの行方を追おうとした。けれど、何も見つけることはできなかった。手紙に書かれたとおり、彼は何も残さなかったのだ。

 彼の勤めていた小さなローカル新聞社にも行ったが、誰もが知らないと言うばかり。ジェームズを気に入っていたらしい編集長だけが、彼が、ヨーロッパへ行く、と伝えたことをビアンカに教えてくれた。煙草の白い煙が天井を漂う暑苦しい部屋の中、ビアンカにコーヒーを差し出して「あいつは女不幸者だな」と編集長はため息交じりに呟く。その瞳には哀れむような色が滲んでいた。
 ビアンカは毎夜泣いた。アパルトマンに一人でいることがこんなに息苦しいとは思いもしなかった。けれど泣き疲れた頃、今度はふつふつと怒りがこみ上げてきた。感情とは不思議なものだ。悲しかったことが嘘のように、あの男を恨んだ。

 どうして私を置いていったの?
 どうして、何も言わなかったの?
 どうして一緒に連れて行ってはくれなかったの……?

 何度も手紙を破り捨てようとして、けれど出来なかったのは心が弱かったからだろうか。
 けれど、時が経てば人間は自然と歩き出せるものらしい。引き裂くほどの心の痛みは、気づけば思い出した頃にちくりと痛むだけ。女優であることはこんなとき役に立つ。ビアンカが笑えば、誰も自身の心の傷に気づくことはない。誰も知らない。それが一番良い。
 やがて、手紙に書かれたことが何かの予言のように、ビアンカはたちまちハリウッド・スターたちの中でその存在を示すようになった。
 マッカーシズムが終焉を迎え、ハリウッド映画が再び活気を戻した頃のことだ。美しくどこか少女の面影を残した容姿のビアンカを、人々は「白い花」と呼び、そしてその名に相応しく彼女は可憐なヒロインを演じることが多かった。何人もの男たちがビアンカを落とそうとして、けれど誰も彼女を手に入れることができなかったことが、ますます人気を呼ぶことになったらしい。それは男の儚い夢なのだろう。馬鹿らしい、とビアンカは鼻で笑う。

 ジェームズがいなくなってすぐ、赤狩りは終焉を迎えた。皮肉なものだ。ビアンカはその頃になって、ジェームズの記事を初めて読んだ。彼が「そんなものは女の子が読むんじゃない」と読ませてくれなかったのだ。彼は何も残さなかったが、一つだけ忘れ物をした。彼が勤めていた新聞社の記事。回収の日ではなかったから置いていったのか、それとも見てほしかったのか。玄関のすぐ近くにそれは束になって置かれてあった。ずっと放置したままにしていたが、ふと気になって手にとって読み始めた。

 一番古い新聞は、ジェームズとビアンカが出逢った日の日付だった。なんて不器用な男なんだろうと、少し笑ってしまう。そして彼がなぜ追われることになったのかすぐにわかった。ジェームズの記事はさりげなくマッカーシズムを批判する内容が多かった。マッカーシズムが勢いを増していた時期に、そして全てのメディアがそれを口にすること避けていた時期に、よく恐れずにこんな記事が書けたものだ、と驚く。同時に、それが自分の愛した男であることが少し誇らしかった。彼は共産主義者である自分を誇りに思い、そしてその考えを貫いたのだ。
 私も厄介な人に惚れてたものだ、とビアンカは久しぶりに笑う。それがジェームズの言った花のような笑みであったかはわからない。けれど漸く、彼は「大切な思い出」になったのだ。
 ビアンカは多くの役を演じ、その名を馳せ、数々の映画に花を添えた。時折、ジェームズは今の自分を見ているだろうか、と思い出すこともあった。きっと彼はどこかで好きな新聞を今日も書いているのではないかと。

「あなたは本当にどこまでも自分勝手な人だったわ」

 ビアンカは一年ほど前、説得する多くの声を押し切って、突然引退をした。
 そして、この小さな屋敷に住まいを移した。ビアンカ・エイリーが起こした初めてのスキャンダル。いろんな憶測が飛び交う中で「自分の老いる姿をみるのが耐えられなかったのでは?」というものがあったが、確かにそのとおりなのかもしれない。手紙を最後にビアンカの思い出として止まったジェームズのように、人の中にある自分の記憶を止めたかったのかもしれない。
 涼風がふわりと白いカーテンを揺らす。ビアンカは手紙を丁寧に封筒にしまい、古い机の最後の引き出しにしまう。薔薇のアロマが柔らかく鼻腔をくすぐり、机に置かれた花瓶に活けられた白い薔薇の花束を見つめた。

 手を伸ばし一輪抜き取ろうとして、ちくりと指先に痛みが走った。白い指先から赤い雫がぷっくりと溢れる。それを口に含めば、鉄の味が広がる。そうして、ふとあの手紙の最後の一文を思い出す。

”P.S. 棘のある花に気をつけて。”

 謎が解けた気がして、小さく笑った。