百色キネオラマ
 淡い茜色の空が濃厚な群青に飲み込まれ、凌雲閣の真上に星が二つ三つと瞬き始める帝都、東京。
 暦が冬に近付くにつれ日の暮れるは早くなり、耳に当たる夜風は段々と冷たくなっていく。しかしながらこの街の夜は眠ることを知らないようで、人の行き交う大通りから隠れるようにして建物の影に佇んだまま、綾彦はここにいることをそろそろ後悔し始めようとしていた。
 浅草は賑やかな歓楽街である。いつ何時も人で溢れていて、寄宿先と大学を往復するだけでめったに外出しない綾彦にとってはあまり馴染みのない場所だ。ちかちかと照らし出される看板には、あるものは歌舞伎役者が口を一文字に引き結んで睨みを利かせているものであったり、外国人の男女が熱っぽく見つめあうものであったり、はたまた「キネオラマ」と大きく赤文字で書かれたものもあり、情報がめまぐるしい。
 綾彦は酔いそうな気分になりながら看板たちから目を逸らし、大きく息を吐き出した。目の前を身を寄せ合った女子たちが、くすくす笑いながらちらりとこちらに視線を寄こし通り過ぎていく。
いったい何が楽しいのだ、とうんざりした気持ちで目をすぼめ遠ざかる背中を追っていると、突然肩を叩かれた。
「よお、待たせたか」
 大須賀は悪ぶれもせず、細い瞳を更に細め立っていた。いつもの袴姿ではなく、何処で見繕ったのか三つ揃えのスーツに洒落たハットを被った姿は、案外、様になっている。いまどきのモダン・ボーイといった感じだ。
「遅いぞ。帰ろうと思っていたところだ」
「すまんすまん、そう怒るな。後悔はさせないからさ。ほれ、これがチケット」
「……もう既に後悔しているんだがな」
 綾彦はため息をつきながら、友人が差し出した二枚のチケットの片方を受け取る。そこにはキネマ倶楽部の文字と指定席の番号が書かれていた。演目の名前を見つめながら、やはり断ればよかったかもしれない、と綾彦は複雑そうに眉を寄せた。

 * * *

 事の始まりは、帝大図書館でのことだった。
 本に顔を伏せ、次なる提出論文に頭を悩ませていると、本棚の向こうから現れた大須賀がきらきらと目を輝かせてずいっと顔を突き出してきたのだ。
「綾彦よ、大事件だ」と言う友人を、綾彦は胡散臭そうに見上げた。この男の言う大事件は大方どうでもよいことであることを、経験から知っていたのだ。
「どうせくだらないことなのだろう」
 そう言って再び論文へと視線を戻した時、素早い動作で紙を取り上げられたので、綾彦はむっと顔をしかめた。
「君は少しくらい、大親友の話を聞こうという優しさはないのか!」
「いつから俺とお前は親友になったんだ? 悪い事は言わん、その論文を返せ」
 いやだね、と大須賀はまるで拗ねた子供のようにぷいと顔を逸らす。まったく面倒くさい男である。しばらく睨みあっていたが、これではいよいよ埒が明かないと考え付いて息をついた。大須賀と出会ってから随分とため息を吐く回数が増えたのは、きっと気のせいではないだろう。
 よし聞いてやる、と言ったらば、大須賀はぱっと笑みを浮かべた。
曰く「聞いて驚くことなかれ」。
「宇野千花子が浅草の劇場で公演するらしいのだ!」
「宇野……なんだって?」
「宇野千花子。おいおい、名前くらい聞いた事があるだろう?」
 目を瞬かせる綾彦に、大須賀は大げさに嘆いて見せた。彼女のことを知らぬとは男の恥、と言うのである。
それでもこの親切でお喋りな友人は長々と説明してくれるので、綾彦はどうにか世間に疎くならずに済んでいるわけだが、感謝するつもりはない。まったくもって、大きなお世話なのだ。
 彼が言うには、宇野千花子は帝劇で人気の舞台女優らしい。
左目の小さな泣き黒子に、笑うと笑窪が出来る優しげな表情。可憐な仕草、淑やかな言葉遣い。男ならば一度は彼女とカフェーへ行きたいと夢に描き、情熱的な恋に落ちぬかと妄想するものであり、しかし決して触れられぬ孤高の姿はまさに舞台の聖母マリアである……云々。下手をすれば小一時間ほど話し続けるのではないかと思ってしまうほど、うっとりと夢心地で話す大須賀は、宇野千花子に魂を奪われているらしかった。そんな友人に綾彦はささやかに憐れみの眼差しを向けるが、気付かない様子だ。
 ああ、時間が勿体無い――と大須賀が熱弁している間にさりげなく論文を奪い返そうと手を伸ばすと、今度は唐突に机をばんと叩かれ慌てて手を引っ込めた。
「そう、彼女は我らが天女、いや女神なのだ!」
 鼻息荒く彼が顔を近づけてきたので、綾彦は身体を引いた。
「いったい何の話だ」
「聞いていなかったのか? ……まあ、良い。それで宇野千花子が浅草で公演するわけだが、これほど絶好の機会はないと思わないか? 僕たち貧乏学生じゃあ帝劇など夢のまた夢だが、浅草なら軽い財布にも優しい。ほら、君も噂の大女優を近くで見たいだろう」
 なるほど、そういうことか。しかし大須賀には悪いが、綾彦は大女優だとか舞台だとかに興味がまったく湧かないのだ。興味の湧かないものは、行っても仕方がない。断るために口を開こうとするのを、けれど友人の言葉が遮った。
「それに、君は近頃勉強ばかりで付き合いが悪い。いつ見てもぴりぴりしているようだし、たまには肩の力を抜かないと倒れてしまうぞ。遊学が上手くいかなかったこと、まだ気にしているのか?」
 論文に目を通しながら、先ほどと打って変わって冷静に話す大須賀に、綾彦はばつが悪そうに顔を逸らした。彼の言うことは、全て当っているのだ。
 三ヶ月前、英国への遊学試験を受けた。新しい人材教養を目的とした、公費の遊学である。外交官を志し、かねてより外国へ行く事を夢見ていた綾彦は迷うことなく応募した。寝る間も惜しんで勉学に励み、試験に挑んだわけだ。
 自信はあった。
 しかし、合否の結果は「不合格」。
 綾彦は現実を受け入れることに随分と時間を有した。足元ががらがらと崩れ、ぽっかりと空いた黒い穴へ落ちてゆく感覚がした。立っていることも辛く、くらくらと眩暈を感じながら下宿先へと戻り、自室でぼうと一日を過ごした。
 夢の砕かれる音を、初めて聞いたのだった。
他者からの慰めの言葉が安っぽく感じられてしかたなく、立ち直るのに恐らく一月を費やしただろう。それでも、未だずきずきと痛むものがある。自分がひどく情けなくなるのだ。
「……俺はそんなに変わったか?」
「いや、綾彦は綾彦だろう。付き合いが悪いのは元からだ」
「大須賀君、それは先の言葉と少し矛盾してはいまいか?」
「斎木君、それは言っていけない」
 冗談を真面目腐って言うものだから、綾彦はようやく笑った。この友人には適わないかもしれない。ユーモアのセンスというのだろう、何故だか憎めないのだ。
 ということで、と大須賀は小さく咳払いをした。
「本の虫は、少しくらい世間の愉しみってものを知ったほうがいい」
 明日の夕刻浅草のキネマ倶楽部前で、と論文を返しながら口早に彼は告げる。そして綾彦が何かを言う前に、くるりと踵を返し本棚の向こうに消えて行った。しかし思い立ったように、再びひょっこりと顔を出し「来なかったら東京一高いカフェーで一番高いメニューを奢らせるからな」と残し、本棚に向こうへ姿を消した。
 いつ時も神出鬼没な男だ。
 呆れながら綾彦は本棚から手にした論文へと視線を落とし、はたと気づく。いつの間にか丸め込まれた自分がいる。けれど、たまにはいいかもしれない、そう自分に言い聞かせながら再び本に顔を埋めた。

 * * *

「どうした綾彦、先に行ってしまうぞ?」
 はっと顔を上げれば、大須賀が数歩先で不思議そうに振り返っていた。綾彦は、ああ、と友人と肩を並べてキネマ倶楽部へと足を踏み入れた。
ホールにはペラゴロと呼ばれる若者たちが談笑をしている。男が多いように感じられるのは気のせいだろうか。皆が揃って洒落た格好をしている。綾彦は何故だか自分が場違いのように思え、そそくさと目を逸らした。床一面には赤い絨毯が敷かれ、天井にはシャンデリアがきらきらと輝いている。
 二人はホールを横切り、劇場の中に入った。指定された席は舞台からさほど遠くない場所だ。十五分程で開演されるらしい。
しかし、慣れない空間はやはり居心地が悪い。綾彦は顔でも洗えば気分も良くなるのではないかと考え、大須賀に「ちょっと」と断り、入り口へと引き返すことにした。背中越しに「遅れるなよ」と声をかけられ、返答するように手を。
 冷たい水道の水が意識をはっきりとさせる。それを二度繰り返し、懐から手ぬぐいを取り出して顔を拭った。ぼんやりと鏡に映る自分の顔色は、寝不足のせいか少し不健康だ。身だしなみには気を使っているのがせめてもの救いだな、と自嘲するように溜息をついた。そろそろ戻らなければ。
 すると、廊下の向こうで声が聞こえた。張り上げるような男の声と、落ち着いた女子の声だ。
 気になり、扉を開けて覗く。そこには一組の男女が何事か口論しているようだった。男は三十も半ばで、奇妙な服を着て顔を真っ赤にしている。ひどく怒っているようだ。女の顔は、こちらに背中を向けているので見えないが、同じく奇妙な衣装から覗く白い足が艶かしく、見てはいけないものを見た気がして視線を逸らした。
 この二人は舞台役者なのだろう、と考えた。男の口から、劇場、舞台、形無し、とそれに関連した言葉が断片的に聞こえてきたからだ。女はといえば、ただ静かに男の言葉に耳を傾けている。
しかし、なんと出難い現状なのだろう。口論するなら舞台裏ですればいいのに、と少し恨めしくなりながら、話に耳を傾ける。
 すると突然男が手を振り上げたのだから、綾彦は慌てた。考える間もなく廊下に出て、二人の元へ向かい、
「あっ、あの、劇場の入り口はどちらでしょうか?」
となんとも間抜けな質問をした自分を、もっとましな言葉はなかったのか、と呪いたくなった。
 女がこちらに顔を向ける。男はきまり悪そうな顔をして、足早に反対方向へと逃げるように消えて行った。礼儀がなっていないとは呆れたものだ。
「すみません、邪魔をしてしまったでしょうか」
「……いいえ」
 見上げてきた女の顔に、綾彦は「あっ」と声を上げそうになって、慌てて口元を塞いだ。
「どうかいたしまして?」
と、彼女は小さく首を傾げる。おそらく一つ二つと年上なのだろう、細められた左目の端にある小さな黒子が印象的な美しい女性であった。舞台のために施された厚化粧の赤い唇が艶やかに光り、一瞬目を奪われそうになる。
 うまい言い訳を探そうと頭を廻らせていると、今度は彼女が、あ、と思い出したように声を上げる。
「劇場の場所でしたかしら?」
 それならこの廊下の突き当りを右に、と小さく微笑んでみせる。それはあの場を取り持つために言った言葉だったのだが、綾彦は気恥ずかしくなって、「ありがとうございます」と硬い笑みを浮かべた。
 そろそろ公演の時間なので、と彼女が軽く頭を下げる。そして廊下の角を曲がる手前で、一度振り返った。
 どうしたのだろうと思っていると、
「公演、楽しんでいってくださいね」
そう言い残し、彼女は踊るように消えてしまった。
柔らかな笑みを浮かべた姿が残像のように脳裏に焼きつき、遠くで開演を知らせる音が聞こえてくるまで、綾彦は呆然とその場に立っていた。

 幕が閉じられた時、綾彦は演劇の内容をほとんど覚えていなかった。周りに合わせて拍手喝采を贈り、劇場を後にしながら大須賀が熱心に感想を述べる間も上の空で聞き流していた。
己の異変を見かね「何かあったのか?」と尋ねられた。立ち止まり、友人の心配そうな顔をじっと見つめながら綾彦は思考する。
自分に一体何が起こったというのだろう。
 あの女性の話をしようとも思ったが、適当な言葉が思いつかず曖昧に微笑した。
 公演中もずっと彼女から目を離すことが出来なかった。輝かしく繊細な声で紡がれる台詞たちが耳を離れない。
 彼女のことは秘密にしたほうがいいだろう。
 宇野千花子、それが彼女の名前だ。

 * * *

 子供の頃、父に連れられ地元の小さな活動写真館を訪れた事があった。
 建てられたばかりの真新しい漆喰の建物はモダンな造りだった。同じ通りに立つレンガ造りの銀行より遥かに立派に感じられ、子供心にわくわくしたものだ。
この建物の中には何があるのだろう。
父に手を引かれ、中を覗くと、真っ暗で広々とした部屋があった。一段高くなった舞台だけが明るく照らされ、その中央には可愛らしく踊る同じ年頃の少女の姿があった。
 不思議に思いながら少女を眺めていると、父が「バレエだよ」と説明してくれた。全国を廻っている歌劇団がこの町を訪れたのだった。
 少女はくるくると踊る。
トウシューズのつま先をひょいと上げ、小さな足を動かす。そのたびきゅっきゅっと床を滑る音がした。鮮やかな衣装を纏いくるくると回る少女に、幼い綾彦は夢中になった。彼女が踊りを終えると、手が真っ赤になるまで拍手を送った。
あの時、確かに心奪われたはずのあの可憐な少女のことを、どうして忘れてしまっていたのだろう。
少女は成長し、舞台の真ん中で美しいドレスを纏った姿へと変わる。浮かべられた笑みは、どこかで見たものだった――。

 不意に瞳を開けると、窓の向こうは薄ぼんやりと明るかった。
 綾彦は上半身を起こし、部屋一面に広げっぱなしにした本たちを見つけて、大きく息をつく。昨晩、勉強をしている途中で寝入ってしまったらしい。窓に這い寄り、ガラス戸を開ける。冷たい朝の空気と共に、鳥の鳴く声が耳に届いた。昇り始めた太陽の最初の光りが部屋に入り込み、目を細めた。
 久しぶりに懐かしい夢を見た。
 それも、子供の頃の夢。
 何故そんな夢を見てしまったのだろう。綾彦は昨夜の演劇を振り返り、考える。すっかり忘れていた少女を思い出したのは、あの女優と言葉を交わしたからなのか。今でもあの微笑みが脳裏に浮かんでは、なかなか消えようとしない。
この複雑な感情をどう言葉に表現したらいいか、綾彦は考えあぐねて、そしてそれを放棄した。
「宇野千花子……か」
 ぼんやりとその名を呟く。
 しかし、今日も学校である事を思い出しすぐに身支度をと整えるために立ち上がった。違うことに集中すれば、忘れる事が出来るものなのだろうか。寄宿先で世話になっている夫婦と朝餉を共に摂り。奥さんに見送られて、大学へと向かう。
 くすぶり始めた謎の感情に、綾彦はどうしても答えを見つけ出すことが出来なかった。


 大須賀に誘われ、課題を仕上げるために、馴染みのカフェーへ足を運んだ。ときおり手を止め、女給が頃合を見て空になったカップへと注ぐ何度目かの珈琲を啜る。飲めば頭が冴えるかと思えば、安っぽい珈琲は香ばしくもなく、ただ苦いだけだった。綾彦は渋い顔で、カフェーの隅に置かれた蓄音機から流れる音楽に耳を傾ける。まったく課題が進まない。
「君、近頃様子がおかしくはないか?」
 突然、大須賀がそんなことを言うので、綾彦はどきりとした。目の前の友人はどうしてこんなに勘が良いのか。少し居心地が悪いとさえ思えるその視線をどうしても受け止める事が出来ずに、ふいと顔を逸らした。
「……前にもそんな事をいってなかったか?」
「いや、あの頃はぴりぴりと静電気を発しているような雰囲気だったが、今は違う。その逆だ」
 ふわふわしているぞ、と心配そうに眉尻を下げられた。
 確かにあの夜から数日、ぼんやりとすることが増えた。以前は意図的に無視をしていた大須賀のつまらない話さえ、自然と耳を通り抜けるようになっていた。
自分でも己が変であることには気づいてはいる。だた、それを認めるには釈然としない個人的な感情があった。
「まさか、うら若き乙女と恋に落ちたのではあるまいな」
 想定外の言葉に、飲みかけていた珈琲で咽てしまった。咳き込む綾彦に、大須賀は「そうなのか!?」と詰め寄ってくる。何故そんな推測をしたのかと、ふと友人の手元に置かれた本の表題を見つけて、納得した。夏目漱石の「こゝろ」である。
「あえて言うが、本の世界と現実を混ぜるのはどうかと思うぞ」
「漱石先生の『こゝろ』なかなか興味深い本であった」
 で、つまるところ恋であるのか、と友人は尋ねる。綾彦は「違う」と呆れたように答え、カフェーの外へと視線を動かした。
 その時、何処かで見たような影が窓の外を通り抜けた。
 綾彦は立ち上がり、カフェーを後にする。背中越しに友人に何か言われたようだったが、よく聞きとれなかった。あの影を追いかけ、自然と足早になる。
確かめたい事があった。
それが思考を埋め尽くしている。
 こんなにも行動的であったことがあっただろうか。面倒事が嫌いで、人付き合いも悪い自分である。大須賀とも、あのカフェーであちらが綾彦に声をかけなければ関わる事はなかった。それほど自分の世界と外の世界とを遮断している人間が、こうして衝動に突き動かされるのは、あるいは身体の中で疼く感情がそうさせるからなのだろうか。
 人波を掻き分けてあの残像を探す。それはすぐに見つかった。
「……あの!」
 思わずその腕を掴んでいた。驚いたように、その人はぱっと振り返る。
 驚いた表情をしていた。確かに彼女だ。綾彦は身体の中の疼きがすうと和らいでいくのを感じた。
「あら、あなたは……」
 宇野千花子はそう呟き、綾彦と掴まれた腕とを見つめた。綾彦は腕を強く握ってしまっていることに気づき、慌てて手を離した。一体何をしているのだ、と羞恥で耳が熱くなる。
「す、すみません」
「あなた、キネマ倶楽部で迷子になっていた人ね」
 彼女はくすくすと笑った。覚えていてくれたのか、と驚きながら、言いたいはずの言葉がなかなか見つからずに押し黙ってしまう。思考がうまく働かない。。
 宇野千花子は薔薇の散りばめられた着物に身を包み、髪は流行りの耳かくし。その艶やかな黒髪に揃いの薔薇の髪飾りをつけていた。軽く化粧を施した顔は、あの日とはまるで別人のようで、落ち着いた瞳には若い娘の光を含んでいる。けれど彼女の纏う雰囲気はあの日と同じ。
「あの時は助けて頂いて……ありがとうございました」
 一瞬何の事がわからなくて目を瞬く。
「迷子だというのは嘘だったのでしょう? だってあんな場所で迷うなんておかしいもの。だからきっとわたくしを助けようとして嘘をついたのではなくて?」
「……気づいていたのですか」
 ええ、と彼女は微笑む。なるほど、舞台女優ならばあんな下手な芝居などすぐに見破ってしまうのかもしれない。なんだか気恥ずかしい。
ずっとお礼を言いたかったの、と穏やかな表情をする彼女は、あの日舞台で演じた姿とまったく違う。当たり前だ。女優とて己の心や性格があるのだ。
「不思議ね。あなたとはあの日逢ったきりだというのに、なんだか前から知っているように思えてならないの。変な話だけれど、こうしてまた逢うことができて嬉しいわ」
 まるで運命のようね。
 竪琴のように美しい声音で紡がれる言葉は穏やかだ。
「あの、名前を教えていただけないでしょうか?」
綾彦は尋ねる。
彼女は不思議そうに首を傾げる。綾彦自身も何故このような質問をしたのかわからず、けれど真っ先に口を衝いて出た言葉がそれであった。
あの日、彼女に声をかけたあの一瞬、綾彦は始めて心が突き動かされるのを感じた。それは未知の疼き。
この邂逅は、果たしてなにをもたらすのだろうか。
「……宇野千花子。千の花の子と書いて、千花子よ」
 取りつかれたように彼女を見る。どんな花よりも美しい笑顔がそこにはあった。
 その瞬間、綾彦は気づいたのだ。ああ、自分はその桜色の唇から紡がれる名前を聞きたかったのだ、と。これはどうやら厄介な感情らしい、と。
 今度は彼女が名前を尋ねる。「斎木綾彦」と答えれば、綺麗な響きだ、と彼女は呟く。このまま時が止まってしまえばどんなにいいだろうか、と初めてそんなことを考えた。いつもの綾彦なら、何を非現実なことを言っているのだ、と理論ぶって否定するのだろう。しかしそれをしなかったのは心の声が勝ったからか、それとも本当は夢でも見ているからか。
 もう行かなければ、と彼女は困ったように笑った。
 綾彦は引き止めることもできずに、そうですか、と静かに呟いた。気の利いた言葉の出ぬ己の口が憎らしく、もどかしい。
「では、お会いできて良かったわ」
「また会えるでしょうか?」
 懇願するような表情をした男に、彼女は目を見開く。そして小さく、けれどはっきりと頷いた。
「ええきっと、またお逢いしましょう」


 彼女の姿が人波に紛れるまで、その背中を見送った。見えなくなってからも、呆けたようにただその場に佇む綾彦を、行き交う人たちが胡散臭そうに見ては通り過ぎて行く。けれど、その視線も気にならなかった。夢心地とはこのことを言うのだろうか、と上手く働いてないらしい頭で考えた。
「斎木綾彦! こんなところで何をぼけぇと突っ立っているのだ!」
 後ろから突如と現れた腕が首に回されたかと思えば、大須賀が通りから綾彦の身体を引っ張った。些か乱暴な扱いは、どうやら怒っているらしい。見れば、彼は珍しく眉間に眉を寄せて綾彦を睨んでいた。
「突然何処かに行ったかと思えば、いくら待っても戻ってこない……お陰様で君の珈琲代まで払わされる羽目になったのだぞ。一体今まで何をしていたのだ。きっちり返してもらうから覚悟しろ! ……おい、聞いているのか!?」
「ああ、聞いている」
 なぜだかおかしい気持ちになって、口の端を吊り上げて笑った。大須賀が今までとは打って変わって訝しげな視線を送る。
「やっぱり君はおかしくなったのか? 悪い事は言わないから、一緒に病院に行ったほうがいいのではないか?」
 さすがに失礼な事を言う友人に「俺はまともだ!」と綾彦はむっと眉を寄せる。
では一体どうしたのだ、と至極真面目に返される。しかし、そのことは綾彦が一番知りたい事なのだ。自分は一体どうしてしまったのだろう。嬉しくて仕方ないのだ。歌いだしたいほどに、気分がいいのだ。
 一番印象的だったあの舞台の台詞が口をつく。
「この感情に名前をつけるとしたら、あなたはどんな名前をつけてくださるのかしら」
「は?」
「……いや、なんでもない」
 帰るか、と伸びをする。空はそろそろ群青に染まり始めようとしている。もうすぐ寄宿先の奥さんが夕餉の支度を始める時間だ。それを手伝わなければ。
 大須賀は帰路につく間ずっと訝しげに綾彦を見ていた。普段は冗談ばかり言っている大須賀が、こんな神妙な顔をするなどめったにないのだ。心配されているのは十分承知していたがが、なんだか可笑しかった。
寄宿先の生垣が見える手前で友人と別れた。別れる間際、今日は早めに寝ろ、と助言をされたので素直にうなずいておく。
その背中を見送り、電柱の光りが照らし出す下宿歳の門をくぐった。冷たい風が頬を撫でる。ふと夜空を見上げてみると、軒先に星が一つ二つと瞬いている。冬の星座だ。
それは舞台照明のように光を注ぎ、彼女の姿を照らし出すのだろう。
頭の中で、柔らかな声が問いかけた。
『この感情に名前をつけるとしたら、あなたはどんな名前をつけてくださるのかしら』

 この感情に名前をつけるとしたら、それは――。
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