夕星とキネオラマ
 淡い茜色の空が東から迫り来る群青に飲み込まれ、凌雲閣の真上に星が二つ三つと瞬き始める帝都、東京。
 暦が冬に近付くにつれ日暮れは早くなり、耳を横切る夜風は段々と冷たくなっていく。しかしながらこの街の夜は眠ることを知らないようで、人の行き交う通りからひょうたん池のほど近くに佇んだまま、斎木綾彦はここにいることをそろそろ後悔し始めようとしていた。

 ここ浅草六区は賑やかな歓楽街である。建ち並ぶ芝居小屋に活動写真館、劇場には色鮮やかな看板や幟が立ち、呼び込みの声が高々と響き、行き交う人々は皆和やかに看板を見上げては話に花を咲かせている。ときおり誰かの罵声が飛んだりもするが、すぐに声の波に飲み込まれていく。普段は寄宿先と大学を往復するだけで、外出を滅多にしない苦学生の綾彦にとっては馴染みのない場所だった。
 ちかちかと照らし出される看板には、あるものは歌舞伎役者が口を一文字に引き結んで睨みを利かせているものであったり、外国人の男女が熱っぽく見つめあうものであったり、はたまた「キネオラマ」と大きく赤文字で書かれたものもあり、情報がめまぐるしい。

 綾彦は酔いそうな気分になって看板から目を逸らし、大きく息を吐き出した。目の前を身を寄せ合った数人の婦女子が、くすくす笑いながらちらりとこちらに視線を寄こし通り過ぎていく。流行の耳隠しと薄化粧、大柄の花が咲き乱れる着物――こんな時間にこの辺りで出歩いているということは、劇場の女優かカフェーの女給だろうか。いったい何が可笑しいのだ、とうんざりした気持ちで目をすぼめたとき、ふいに肩を叩かれた。

「やあ、お待たせ」

 振り返ると、その男は悪ぶれもせず、整った歯をとちらりと見せて笑って見せた。
 大須賀恭宣は数少ない綾彦の級友だ。裕福な男爵家の三男坊である彼は、仕立ての良さそうな三つ揃えのスーツに洒落た帽子を被っていた。涼しげな目元の二枚目の風貌も相まって、いまどきのモダン・ボーイといった感じだ。

「遅いぞ。帰ろうと思っていたところだ」

 肩に置かれた手を乱暴に振り解くと、彼は悪びれもせずに肩を竦めた。

「すまんすまん、そう怒るな。今夜は後悔はさせないからさ。ほれ、これが入場券」
「……もう既に後悔しているんだがな」

 綾彦はため息をつきながら、友人が差し出した二枚の入場券の片方を受け取る。そこには『キネマ座』の文字と指定席の番号が書かれていた。演目の名前を見つめながら、やはり断ればよかったかもしれない、と綾彦は複雑そうに眉を寄せた。




 事の始まりは、帝大図書館でのことだった。
 分厚い洋書に顔を伏せ、次に提出する論文に頭を悩ませていると、本棚の向こうから現れた大須賀がきらきらと目を輝かせて向かいの席に着くなり、

「綾彦よ、大事件だ」

 とこっそり囁きかけてきた。
 思考を邪魔された綾彦は、胡散臭そうに友人を見上げた。この男の言う大事件はおおかたどうでもよいことであるのだと、経験から知っていたのだ。

「どうせくだらないことなのだろう」

 そう言って再び論文へと視線を戻した時、素早い動作で広げていたノートを取り上げられたので、綾彦はむっと顔をしかめた。

「君は少しくらい、大親友の話を聞こうという優しさはないのか!」
「いつから俺とお前は親友になったんだ? 悪い事は言わん、そのノートを返せ」

 いやだね、と大須賀はまるで拗ねた子供のようにぷいと顔を逸らす。まったく面倒くさい男である。しばらく睨みあっていたが、これではいよいよ埒が明かないと考え付いて息をついた。
 大須賀と出会ってから随分とため息を吐く回数が増えたのは、きっと気のせいではないだろう。
 よし聞いてやる、と言ったらば、大須賀はぱっと笑みを浮かべた。とたん、カウンターの向こうから男のわざとらしい咳払いが聞こえてくる。振り返ると、丸眼鏡をかけた司書官が壁に掛けられた『私語厳禁』の張り紙を差して睨んできたので、綾彦はしかたなく勉強道具を抱え、大須賀がおごるというので大学近くの甘味屋へと退散することにした。

 甘味屋の奥の席を陣取り、頼んでいたふたりぶんの汁粉が机に置かれてようやく、綾彦は向かいに座った友人へと問いかけた。

「で、そのくだらない話とはなんだ?」

 嫌みなど気にかけず、大須賀はにこりと満面の笑みを浮かべた。曰く「聞いて驚くことなかれ」と、そう前置きをして。

「宇野千花子が浅草の劇場で公演するらしいのだ!」
「宇野……なんだって?」
「宇野千花子。おいおい、名前くらい聞いた事があるだろう?」

 目を瞬かせる綾彦に、大須賀は大げさに嘆いて見せた。

 彼女のことを知らぬとは男の恥、というのである。知らんものは知らん、と綾彦は答える。そんな素っ気ない態度を取られたところで、この親友は気にも留めない。大須賀が長々と勝手に語る流行りものについての談義のおかげか、綾彦はどうにか世間に疎くならずに済んでいるわけだが、感謝するつもりはない。まったくもって、大きなお世話なのだ。

 彼が言うには、宇野千花子は帝劇で人気の舞台女優らしい。
 左目の小さな泣き黒子に、笑うと笑窪が出来る優しげな表情。可憐な仕草、淑やかな言葉遣い。西洋人の父と日本人の母の間に生まれたその容姿は美しく、明るい瞳は星のように輝いている。苦労を重ねたその経歴すらも、今ではファンの間で語られる美談となっている。男ならば一度は彼女とカフェーや百貨店へランデブーに行きたいと夢に描き、情熱的な恋に落ちぬかと妄想するものであり、しかし決して触れられぬ孤高の姿はまさに舞台の聖母マリアである……云々。

 下手をすれば小一時間ほど話し続けるのではないかと思ってしまうほど、うっとりと夢心地で話す大須賀を前に綾彦はほどよく甘い汁粉をすすった。見るに、宇野千花子に魂を奪われているらしかった。そんな友人に綾彦はささやかに憐れみの眼差しを向けるも、本人は気付かない様子だ。
 ああ、時間が勿体無い――と熱弁している大須賀を横目に論文のことを考え始めた頃、今度は唐突に机をばんと叩かれ慌てて目の前の友人に視線を戻した。

「そう、彼女は我らが天女、いや女神なのだ!」

 鼻息荒く彼が顔を近づけてきたので、綾彦は身体を引いた。

「いったい何の話だ」
「聞いていなかったのか? ……まあ、良い。それで宇野千花子が浅草で公演するわけだが、これほど絶好の機会はないと思わないか?」

「そもそも何故、帝劇の女優が浅草で舞台に立つんだ?」

 帝劇といえば日の本一の劇場だ。そんなところの女優が浅草で演じるなど奇妙だ。

「なんでも宇野千花子が映画女優に転向するらしくて、若い頃に世話になったひとが浅草にいる縁で……なんて噂があるな。まあ僕たちのような学生じゃあ帝劇など夢のまた夢だが、浅草なら軽い財布にも優しい。ほら、君も噂の大女優を近くで見たいだろう」

 なるほど、そういうことか。しかしこの友人には悪いが、綾彦は大女優だとか舞台だとかに興味がまったく湧かないのだ。興味の湧かないものは行っても仕方がない。断るために口を開こうとするのを、けれど大須賀の言葉が遮った。

「それに、君は近頃勉強ばかりで付き合いが悪い。いつ見てもぴりぴりしているようだし、たまには肩の力を抜かないと倒れてしまうぞ。遊学が上手くいかなかったこと、まだ気にしているのか?」

 先ほどと打って変わって真剣な表情をする大須賀に、綾彦はばつが悪そうに顔を逸らした。
 彼の言うことは当っている。近頃、感情の落としどころが見つからずに焦燥している自分がいることを、綾彦も気づいていた。
 三ヶ月前、綾彦は英国への遊学試験を受けた。ようやく欧州大戦が終戦を迎え、新しい人材教養を目的とした遊学生募集が再開されたのだった。公費とあって受験者は多かった。十二の頃に父が病に斃れてから女手一つで育ててくれた母への恩を返すためにも、父と同じ外交官を志し、かねてより外国へ行く事を夢見ていた綾彦も迷うことなく応募した。寝る間も惜しんで勉学に励み、試験に挑んだわけだ。

 しかし、合否の結果は『不合格』。

 綾彦は現実を受け入れることに随分と時間を有した。足元ががらがらと崩れ、ぽっかりと空いた黒い穴へ落ちてゆく感覚がした。立っていることも辛く、くらくらと眩暈を感じながら下宿先へと戻り、不合格の紙を握りしめ自室でぼうと一日を過ごした。そのとき、夢の砕かれる音を聞いたのだった。

 他者からの慰めの言葉が安っぽく感じられてしかたなく、勉学も講義にも集中できない日々が一月は続いただろか。現実を受け入れても、未だずきずきと痛むものがある。自分がひどく情けなくて、取り憑かれたように再び勉学に打ち込んでいる。

「……僕はそんなに変わったか?」
「いや、綾彦は綾彦だろう。付き合いが悪いのは元からだからな」
「大須賀君、それは先の言葉と少し矛盾してはいまいか?」
「斎木君、それは言っていけない」

 冗談を真面目腐って言うものだから、綾彦はようやく笑うことができた。
 この友人には一生かなわないかもしれない。ユーモアのセンスというのだろうか、何故だか憎めないのだ。加えて、腐っていた期間の綾彦に根気よく付き合ってくれたのもこの友人だけなのである。言葉にはしないものの、彼には少しの申し訳のなさも感じているのだ。
 ということで、と大須賀は小さく咳払いをした。

「本の虫は、少しくらい世間の愉しみってものを知ったほうがよかろう」

 明日の夕刻浅草のキネマ倶楽部前で、と口早に彼は告げる。
 そして綾彦が何かを返す前に、「これから用があるから俺は先に出る」といつの間にか食べ終えたお汁粉を机に置き立ち上がった。小銭を置いてから制帽を被り、そして店を出ていこうとする、しかし思い立ったように、振り返り「来なかったら東京一高いカフェーで一番高いメニューを奢らせるからな」とにやりと笑って、表通りの向こうへ姿を消した。

 いつだって自由な男だな、と呆れながら綾彦は笑み漏らし、はたと気づく。いつの間にか丸め込まれた自分がいる。けれど、たまにはいいかもしれない、そう自分に言い聞かせながらゆっくりと茶をすすった。




「どうした綾彦、先に行ってしまうぞ?」

 はっと顔を上げれば、大須賀が数歩先で不思議そうにこちらを見ていた。
 視線を上げると、目の前に三階建ての洋風の建物があった。白い化粧煉瓦に半円形の屋根のてっぺんには旗が風にはためいている。想像よも立派な劇場に少し驚いた。劇場としても活動写真館としても利用できるのだと、綾彦の隣で得意げに大須賀か説明する。

 入り口は広く、その上には『キネマ座』と立派な看板が掲げられていた。並んだ幟には『宇野千花子』やその他の演者の名前が書かれている。入り口近くには、真っ赤なドレスに身を包み髪を白い椿で飾った女優の横顔が描かれた大きなポスタァが飾られていた。恐らくこの女優が噂の宇野千花子なのだろう。
 鳥打ち帽に劇場の名前が入った羽織を着た呼び込みの青年が声高らかにいう。

「さて今宵演じられますのは、悲しき恋物語『椿姫』! 主演は帝国劇場で数々の舞台に立ちその美しい容姿と素晴らしい演技で方々を魅了知る宇野千花子嬢でございます! たった一夜の特別公演! ここ浅草に降り立った女神をとくとご覧あれ」

 そのとき綾彦は初めて自分の見る演目の名前を知った。興味がないものにはとことん疎い自分の性格もここまで来ると、いささか居心地が悪い。幸い海外文学にはふれてきたので、アレクサンドル・デュマ・フィスの『椿姫』は知っていた。パリを舞台に高級娼婦マルグリットとアルマンという青年の悲恋を描いた物語。海外でも人気の演目だ。

 綾彦は友人と肩を並べてキネマ座へと足を踏み入れる。

「なんだ綾彦、緊張しているのか?」

 大須賀はからかうようにこちらへと視線を送った。
 それをあえて無視をして、あたりを見回した。
 広いホールの隅ではペラゴロと呼ばれる若者たちが談笑をしている。夫婦連れや幾人の婦人の集まりもあったが、どうしても男が多いように感じられるのは気のせいではないだろう。皆が揃って洒落た格好をして、中には香水をしている者もいるのか人工的な甘い匂いが鼻をかすめた。

 綾彦は何故だか自分が場違いのように思えてきた。床一面には赤い絨毯が敷かれ、天井にはシャンデリアがきらきらと輝いている。その隅には溢れんばかりの花が飾られ、ホールの中央には大階段があり、それを登った先が劇場への入り口のようだった。
 黙ったまま階段を上がり通された指定席は舞台からさほど遠くない距離だった。ここなら舞台にいる演者の顔もよく見えることだろう。さすがは男爵家の三男坊。抜かりない大須賀は良い席だと事前に確認してから、入場券を買ったのだろう。横に座る友人は浮かれたように顔を緩めている。

 しかし、慣れない空間はやはり居心地が悪い。あと十五分程で開演されるらしいが、どうにも落ち着かないのだ。綾彦は顔でも洗えば気分も良くなるのではないかと考え、大須賀に「ちょっと」と断り、ホールへと引き返すことにした。背中越しに「遅れるなよ」と声をかけられ、返答するように手を振った。
 ホールに立っていた案内人にお手洗いの場所を確認して、一息ついた。ようやく普及し始めた水道の冷たい水が意識をはっきりとさせる。それを二度繰り返し、懐から手ぬぐいを取り出して顔を拭った。ぼんやりと鏡に映る自分の顔色は、寝不足のせいか少し不健康だ。身だしなみには気を使っているのがせめてもの救いだな、と自嘲するように溜息をついた。

 そろそろ戻らなければ、そう思ったとき、廊下の向こうから声が聞こえた。
 男と女が言い争っている。男は苛立ったように声を上げ、反対に女は冷静に応えている。
 気になり扉を少し開けて覗く。
 やはり一組の男女が何事か口論しているようだった。男は三十も半ばで、燕尾服を着て顔を真っ赤にしている。ひどく怒っているようだ。女の顔はこちらに背中を向けているので見えないが、真っ赤なドレスをしゃんと着こなしていた。その髪に飾られた白い椿に目が留まる。そこで、綾彦はなんとなくその女が誰であるかを察した。
 男の口から、舞台、形無し、裏切るのか、といった言葉が断片的に聞こえてきているので、二人はどう考えてもこれから演じられる『椿姫』の演者だった。女はといえば、ただ静かに男の言葉に耳を傾けている。
 しかし、なんと出難い現状なのだろう。口論するなら舞台裏ですればいいのに、と少し恨めしくなりながら、ただ聞こえてくる話に耳を傾ける。

 早く落ち着いてはくれないものか、そう思ったとき、突然男が手を振り上げたのだから綾彦は慌てた。これはいけない。大した考えもなく廊下に出て、二人の間に割って入った。

「あっ、あの、劇場の入り口はどちらでしょうか?」

 なんとも間抜けな質問をした自分を、もっとましな言葉はなかったのか、と呪いたくなった。
 女がこちらに顔を向ける。化粧を施した美しい顔に、はっと目を奪われた。
 その横で男はきまり悪そうな顔をして、足早に反対方向へと消えて行った。観客に対して礼儀がなっていないとは呆れたものだ。

「すみません、邪魔をしてしまったでしょうか」
「……いいえ。お礼申し上げますわ」

 女はドレスを少し持ち上げ優雅に礼をする。
 そして顔をあげにこりと笑った。おそらく一つ二つと年上なのだろう、細められた左目の端にある小さな黒子が印象的な美しいひとであった。瞳は琥珀のような明るい色だ。舞台のために施された厚化粧の赤い唇が艶やかに光り、また目を奪われそうになる。
 うまい言い訳を探そうと頭を廻らせていると、今度は彼女が、あ、と思い出したように声を上げる。

「劇場の場所でしたかしら?」

 それならこの廊下の突き当りを右に、と小さく微笑んでみせる。
 それはあの場を取り持つために言った言葉だったのだが、綾彦は気恥ずかしくなって、「ありがとうございます」と硬い笑みを浮かべた。そろそろ公演の時間なので、と彼女が軽く頭を下げる。そして廊下の角を曲がる手前で、一度振り返った。

 どうしたのだろうと思っていると、

「公演、楽しんでいってくださいね」

 そう言い残し、彼女は踊るように消えてしまった。
 柔らかな笑みを浮かべた姿が残像のように脳裏に焼きつき、遠くで開演を知らせる声が聞こえてくるまで、綾彦は呆然とその場を離れることができなかった。
 幕が下りたとき、綾彦は演劇の内容をほとんど覚えていなかった。周りに合わせて拍手喝采を贈り、劇場を後にしながら大須賀が熱心に感想を述べる間も上の空で相づちを打っていた。その様子を見かね「何かあったのか?」と尋ねられた。立ち止まり、友人の心配そうな顔をじっと見つめながら綾彦は思考する。
 自分に一体何が起こったというのだろう。
 あのひとの話をしようとも思ったが、適当な言葉が思いつかず曖昧に返答をした。
 公演中もずっと彼女から目を離すことが出来なかった。輝かしく繊細な声で紡がれる台詞たちが耳を離れない。彼女のことは己の胸の内に留める方がよかろう。

 宇野千花子、それが彼女の名前なのだから。




 綾彦は幼少期、外交官である父の赴任で家族と英国で五年間暮らしたことがあった。
 冷たい雨の降る季節をようやく過ぎた倫敦の空が、珍しく晴れていたことを覚えている。書記官である多忙な父が一日の休暇をとったことがあった。
 久しぶりに母と父と連れだって出かけることが子供心に嬉しく、街を横切る冷たい風と興奮に頬を赤く上気させて父と母の手を握っていたことが思い出される。皆で連れ立って立派な建物へと向かった。その大きさに目を丸くしている息子に、父は「ここは劇場だよ」と優しく教えた。
 言葉こそ知っていたものの、この建物の中でどんなものが見れるのか知らなかった。
 両親に手を引かれ、広くてすべすべとした乳白色の石の柱が聳えるホールを進み、天井の高い劇場へと入った。真ん中に並ぶ席ではなく、部屋のようになった両側二階目の席に着く。すぐに父の元を知り合いらしい英国人の夫妻が挨拶に来たので、話に花を咲かせる大人たちを横に、綾彦は臙脂色の厚い幕が下ろされた舞台を熱心に眺めていた。その手前にはオーケストラのボックスがあり、ときおりか細い音が響いた。

 そして、ふと幕の袖からこっそりと顔を覗かせる少女に気づいた。
 ひっつめ髪に白いリボンをつけた十代の少女は観客席をのぞき見ていた。その視線が下から上へと動いていく。ふと、少女と綾彦の視線が合う。はっと息を飲みその姿から目が離せなくなる。少女も目を丸くしたが、ゆっくりと細めると悪戯っぽく笑い、人差し指を唇をあてて幕の後ろへと姿を消した。
 開幕の合図がして、幕が上がった。明るく明るく照らされた舞台。響き渡る音楽。
 音楽に合わせて、隅に配置された二階建てのバルコニーから男が登場する。彼は引っ込むと、今度はその後ろから本を手に座る白い服の少女が出てきた。「あっ」と綾彦は小さく声を上げた。全く動かないその少女は先ほどの少女だった。
 微動だにしない少女を不思議に思っていると、父が、

「バレエだよ。あの少女は人形役なんだ」

 トウシューズのつま先をひょいと上げ、小さな足を動かして踊る美しい踊り子たちに綾彦は目もくれず。ずっとその少女を見つめていた。機械的な動きはまさに人形のそれで、初めて見るバレエに少年は夢中になったのだ。その感情は、けれど、父が亡くなり生活が変わってしまったことで置き去りにされた。

 あの時、確かに心奪われたはずのあの可憐な少女のことを、どうして忘れてしまっていたのだろう。
 夢の中で見たその少女はゆっくりと成長し、やがて舞台の真ん中で赤いドレスを纏った姿へと変わる。浮かべられた笑みは、どこかで見たものだった――。

 目を開けると、窓の向こうは薄ぼんやりと明るかった。
 綾彦は上半身を起こし、部屋一面に広げたままにした数冊の本を見て大きく息をつく。昨晩、勉強の途中で寝入ってしまったらしい。窓辺へ這い寄り硝子窓を開ける。冷たい朝の空気と共に、鳥の囀りが耳に届いた。昇り始めた太陽の最初の光りが部屋に入り込み、瞳を細めた。

 久しぶりに懐かしい夢を見た。
 それも、子供の頃の夢。無邪気で一番幸せだった頃だと思う。
 何故そんな夢を見てしまったのだろう。綾彦は昨夜の演劇を振り返り、考える。すっかり忘れていた少女を思い出したのは、あの女優と言葉を交わしたからなのか。今でもあの微笑みが脳裏に浮かんでは、なかなか消えようとしない。あの美しい琥珀色の瞳も、だ。
 この複雑な感情をどう言葉にして表現したらいいか、綾彦は考えあぐねて、そしてそれを放棄した。

「宇野千花子……か」

 ぼんやりとその名を呟く。
 しかし、今日も朝早くから講義があるを思い出し、すぐに身支度をと整えるために立ち上がった。違うことに集中すれば、忘れる事が出来るものなのだろうか。寄宿先で世話になっている夫婦と朝餉を共に摂り。奥さんに見送られて、大学へと向かう。
 くすぶり始めた謎の感情に、綾彦はどうしても答えを見つけ出すことが出来なかった。


 その日は大須賀に誘われ、課題を仕上げるために、馴染みの喫茶店へ足を運んでいた。
 ときおり手を止め、女給が頃合を見て空になったカップへと注いだ珈琲を啜る。飲めば頭が冴えるかと思えば、安っぽい珈琲は香ばしくもなく、ただ苦いだけだった。綾彦は渋い顔で、喫茶店の隅に置かれた蓄音機から流れる音楽に耳を傾ける。まったく課題が進まない。

「君、近頃様子がおかしくはないか?」

 大須賀がそんなことを言うので、綾彦はどきりとした。
 目の前の友人はどうしてこんなに勘が良いのか。少し居心地が悪いとさえ思えるその視線をどうしても受け止める事が出来ずに、ふいと顔を逸らした。

「……前にもそんな事をいってなかったか?」
「いや、あの頃はぴりぴりと静電気を発しているような雰囲気だったが、今は違う。その逆だ」

 ふわふわしているぞ、と心配そうに眉尻を下げられた。
 確かにキネマ座に行って以降の数日、ぼんやりとすることが増えた。以前は意図的に無視をしていた大須賀のつまらない話さえ、意識せずとも耳を通り抜けるようになっていた。講義の時間はしっかりと受けてはいるももの、ふと気が緩むとすぐにぼんやりと思いに耽ることが増えた。
 自分でも、何か変であることには気づいていた。だた、それを認めるには釈然としない個人的な感情があった。なんども面倒くさいことこの上ない男だと自覚している。

「まさか、うら若き乙女と恋に落ちたのではあるまいな」

 想定外の言葉に、飲みかけていた珈琲で咽てしまった。咳き込む綾彦に、大須賀は「そうなのか!」と詰め寄ってくる。何故そんな推測をしたのかと、ふと友人の手元に置かれた本の表題を見つけて、納得した。夏目漱石の「こゝろ」である。

「あえて言うが、本の世界と現実を混ぜるのはどうかと思うぞ」
「漱石先生の『こゝろ』なかなか興味深い本であった」

 で、つまるところ恋であるのか、と友人は尋ねる。
 綾彦は「違う」と呆れたように答え、喫茶店の外へと視線を動かした。

 その時、何処かで見たような影が窓の外を通り抜けた。
 綾彦は立ち上がり、慌てて喫茶店を後にする。背中越しに友人に何か言われたようだったが、よく聞きとれなかった。あのひとを追いかけるために、自然と足早になる。確かめたい事があった。
 確かめなければならぬ――それが頭の中を埋め尽くしている。
 こんなにも行動的だったことがあっただろうか。面倒事が嫌いで、人付き合いも悪い自分である。大須賀とも、あちらが気まぐれに綾彦に声をかけなければ関わる事はなかった。それほど自分の世界と外の世界とを遮断している人間が、こうして衝動に突き動かされるのは、あるいは身体の中で疼く感情がそうさせるからなのだろうか。
 人波を掻き分けて記憶に焼き付いた後ろ姿を探す。彼女はすぐに見つかった。

「……あの!」

 思わずその腕を掴んでいた。驚いたように、そのひとはぱっと振り返る。
 驚いた表情をしていた。確かに彼女だ。綾彦は心の中で疼くものがすうと和らいでいくのを感じた。

「あら、あなたは……」

 宇野千花子はそう呟き、綾彦と掴まれた腕とを見つめた。
 綾彦は腕を強く握ってしまっていることに気づき、慌てて手を離した。一体何をしているのだ、と羞恥で耳が熱くなる。

「す、すみません」
「あなた、キネマ座で迷子になっていたひとね」

 学生さんだったのね、と詰襟の制服をきた綾彦を見て彼女は感心したように言った。覚えていてくれたのか、と驚きながら、言いたいはずの言葉がなかなか見つからずに押し黙ってしまう。パクパクと口を動かそうにも、頭がうまく働かなくて慌てる。
 彼女は小さく笑った。

「まあ、落ち着きになって。深呼吸をなさってください」

 その言葉の通り目を閉じ、深呼吸をした。
 ようやく落ち着いて瞳を開けると、和やかに彼女は待っていてくれた。
 宇野千花子は薔薇の散りばめられた着物に身を包み、髪は流行りの耳かくしだった。その艶やかな黒髪に薔薇の小さな髪飾りをつけている。軽く化粧を施した顔は、あの日とはまるで別人のようで、落ち着いた琥珀色の瞳には若い娘の光を含んでいる。けれど彼女の纏う雰囲気はあの日と同じ。

「あの時は助けて頂いて……ありがとうございました」

 一瞬何の事がわからなくて目を瞬く。

「迷子だというのは嘘だったのでしょう? だってあんな場所で迷うなんておかしいもの。だからきっとわたしを助けようとして嘘をついたのではなくて?」
「……気づいていたのですか」

 ええ、と彼女は微笑む。なるほど、舞台女優ならばあんな下手な芝居などすぐに見破ってしまうのかもしれない。なんだか気恥ずかしい。
 ずっとお礼を言いたかったの、と穏やかな表情をする彼女は、あの日舞台で演じた姿とまったく違う。当たり前だ。女優とて己の心や性格があるのだ。

「不思議ね。あなたとはあの日逢ったきりだというのに、なんだか前から知っているように思えてならないの。変な話だけれど、こうしてまた逢うことができて嬉しいわ」

 まるで運命のようね。
 竪琴のように美しい声音で紡がれる言葉は穏やかだ。

「あの、名前を教えていただけないでしょうか?」
 綾彦は尋ねる。

 彼女は不思議そうに首を傾げる。綾彦自身も何故このような質問をしたのかわからず、けれど真っ先に口を衝いて出た言葉がそれであった。あの日、彼女に声をかけたあの一瞬、綾彦は始めて心が突き動かされるのを感じた。それは未知の疼き。
 この邂逅は、果たしてなにをもたらすのだろうか。

「……宇野千花子。千の花の子と書いて、千花子よ」

 覚えてちょうだいな、と悪戯っぽく囁く。どんな花よりも美しい笑顔がそこにはあった。
 その瞬間、綾彦は気づいたのだ。ああ、自分はその桜色の唇から紡がれる名前を聞きたかったのだ、と。そして、これはどうやら厄介な感情らしい、と。

 今度は彼女が名前を尋ねる。「斎木綾彦」と答えれば、綺麗な響きだ、と彼女は応える。このまま時が止まってしまえばどんなにいいだろうか、と初めてそんなことを考えた。いつもの綾彦なら、何を非現実なことを言っているのだ、と理論ぶって否定するのだろう。しかしそれをしなかったのは心の声が勝ったからか、それとも本当は夢でも見ているからか。
 もう行かなければ、と彼女は困ったように笑った。
 綾彦は引き止めることもできずに、そうですか、と静かに呟いた。気の利いた言葉の出ぬ己の口が憎らしく、もどかしい。その様子が可笑しかったのか。彼女は小さく声を上げて笑った。

「では、お会いできて良かったわ」
「また逢えるでしょうか?」

 懇願するような表情をした男に、彼女は目を見開く。そして小さく、けれどはっきりと頷いた。

「ええきっと、またどこかでお逢いできるわ」

 彼女の姿が人波に紛れるまで、綾彦はその背中を見送った。
 見えなくなってからも、呆けたようにただその場に佇む綾彦を、行き交う人たちが胡散臭そうに見ては通り過ぎて行く。けれど、その視線も気にならなかった。夢心地とはこのことを言うのだろうか、と上手く働いてないらしい頭で考えた。

「斎木綾彦! こんなところで何を阿呆みたいに突っ立っているのだ!」

 後ろから突如と現れた腕が首に回されたかと思えば、大須賀が通りから綾彦の身体を引っ張った。些か乱暴な扱いは、どうやら怒っているらしい。見れば、彼は珍しく眉間に眉を寄せて綾彦を睨んでいた。

「突然何処かに行ったかと思えば、いくら待っても戻ってこない……お陰で君の珈琲代まで払わされる羽目になったのだぞ。一体今まで何をしていたのだ。きっちり返してもらうから覚悟しろ! ……おい、聞いているのか?」
「ああ、聞いている」

 なぜだかおかしい気持ちになって、口の端を吊り上げて笑った。大須賀が今までとは打って変わって訝しげな視線を送る。

「やっぱり君はおかしくなったのか? 悪い事は言わないから、一緒に病院に行ったほうがいいのではないか?」

 さすがに失礼な事を言う友人に「俺はまともだ!」と綾彦はむっと眉を寄せる。
 では一体どうしたのだ、と至極真面目に返される。しかし、そのことは綾彦が一番知りたい事なのだ。自分は一体どうしてしまったのだろう。嬉しくて仕方ないのだ。歌いだしたいほどに、気分がいい。
 一番印象的だったあの舞台の台詞が口をつく。

「この感情に名前をつけるとしたら、あなたはどんな名前をつけてくださるのかしら」
「は?」
「……いや、なんでもない」

 それは宇野千花子が演じる『マルグリッド』のために創作した台詞。彼女の『マルグリッド』は美しくも最期まで可憐な女性だった。
 帰るか、と伸びをする。空はそろそろ群青に染まり始めようとしている。もうすぐ寄宿先の奥さんが夕餉の支度を始める時間だ。それを手伝わなければ。
 大須賀は帰り道を歩く間、ずっと訝しげに綾彦を見ていた。普段は冗談ばかり言っている友人が、こんな神妙な顔をするなどめったにないのだ。心配されているのは十分承知していたが、なんだか可笑しかった。いつかはこの友人に話すときがくるだろう。そのとき、彼は何と言うのだろうか。

 寄宿先の生垣が見える手前で友人と別れた。別れる間際、今日は早めに寝ろ、と助言をされたので素直にうなずいておく。その背中を見送り、電柱の光りが照らし出す下宿歳の門をくぐった。
 冷たい風が頬を撫でる。ふと夜空を見上げてみると、軒先に星が一つ二つと瞬いている。冬の星座だ。星は舞台照明のように光を放ち、彼女の姿を照らし出すのだろう。
 頭の中で、柔らかな声が問いかけた。

『この感情に名前をつけるとしたら、あなたはどんな名前をつけてくださるのかしら』

 この感情に名前をつけるとしたら、それは――。