君の眠る造花の庭
 愛した人が死んだ。

 それは突然に、しかし予め決まっていたかのように。幸いだったのは眠るように穏やかな最期だったことか。彼女の口元には微かな笑み――そう、死んでいることがまるで嘘のように、生前と同じ穏やかな表情がそこにはあった。嗚呼、彼女は眠っているだけなのだ。
 しかし、現実は無常に時を刻んでいく。握り締めた手の暖かさが次第に消え、沈黙の中に彼女の弱々しい呼吸音を聞くことはもうない。閉ざされた瞼はあの美しい宝石のような瞳を隠し、光さえも届かなくなった。神に祈ったところで時間を巻き戻すことは不可能で、叫びも涙も虚空へと消え、やがて恋人の身体も土へと還る。それが自然の摂理。後に残る感情など知る由もない。世界は恐ろしく無常だ。

 夢を、見るようになった。

 それは、彼女のいない孤独を埋めようとするかのように。
 それとも、無意識に彼女の幻影を追い求めた結果なのだろうか。
 夢の中の彼女は静かに眠っていた。秘密の花園のような作り物の箱庭で、作り物の美しい花々に囲まれ、穏やかに眠る女はどこか幸せそうであった。棺に横たわった青白い身体でなく、確かに血の通った淡い桃色の頬と風に揺れる長い睫と赤い唇。ほどかれた髪には無数の花びらが散って、まるで彼女の好んでいた御伽噺の一幕のように、眠る姫君のように。その唇に触れれば目を覚ましてくれるのだろうか。そうして、「あれは悪い夢だったのよ」と優しく微笑んでくれるのだろうか。

 けれど彼女は目覚めない。
 ただ、静かに眠るだけだ。

 恋人であった男の存在にさえ気づかず、いくらその名を呼んでも声は届かない。そして彼女の名さえも忘れそうになってしまう。瑞夢とも悪夢ともつかない恐ろしい夢だ。全てが無になっていく感覚は、痛みよりも深く、身体と精神を傷つける。やがて現実と夢の区別さえつかず、このまま死んでしまうのではないか。しかし、それもまた良いのではないか。彼女の傍で果てることができるのなら、なんと素晴らしいことだろう。しかし、夢は夢でしかない。
 目覚めてしまえば、彼女の眠る箱庭はただの幻影となるのだ。


 遠くの空が汚い灰色に包まれていた。煙突から上る煙が層となって雲を作り、その街が一層陰湿な場所へと姿を変える。太陽の光さえ届かず、近くの運河は溝の匂いで酷い有様だ。これが産業革命の成れの果てなのか、と自嘲気味に笑い、自身もその革命の一端を担っているではないかと考え、ただなんとも言えず可笑しい。
 その家は街から離れた小さな村にひっそりと建っていた。以前は寄り添う恋人がいたが、彼女は数日前に死に、その棺に土をかけたのは自分であった。
 独りとなったが、広い家にはまだ彼女の存在が残っていた。不意に見た時計は調度ティータイムの時間を指している。もうすぐ男の研究室に彼女が紅茶を届けてくるのではないか、そうしていつものように他愛ない話をして過ごしのではないか、と錯覚してしまいそうなほど確かに「それ」はあった。頭の中で彼女はもういないのだと唱えたところで、心は無意識に「それ」を求める。

 機械の黒い油に紛れて彼女の香水を思い出し、静かに目を伏せる。ゆっくりと心を蝕んでいく「それ」は「残像」だ。廊下から笑い声が聞こえても、目の隅に豊かな髪がゆらりと通り過ぎても、彼女はいない。いるはずがない。自分がよく知っているのだ。最期の吐息が途切れるのを看取ったのも、冷たくなっていく身体に寄り添ったのも――誰よりも受け入れなければいけないというのに、鮮明な記憶は、けれど、まるで現実味がない。


 最後の西日が窓から部屋を照らす頃、覚えのない来客があった。
 玄関を開けてみれば、それは旧い友人で、たった三年ぶりだというのにすっかり変わった姿に一瞬誰であるかわからなかった。「やあ」と彼がくしゃりと笑って漸く思い出す。

「……その、彼女のことは残念だったね」

 どこか気まずそうに眉尻を下げた旧友。なぜ知っているのか、と思うことはなかった。訃報はすぐに伝わるものだと、静かに友人を家に招き入れた。
 キッチンから慣れない手つきでティーカップを二つと予め作ってあった紅茶をトレイに載せて、友人の元へ向かった。夕日はいつの間にか姿を隠し、遠くの空は淡い茜色をしていた。客間の電気をつけると、友人は窓の外を眺めていたようではっと振り返った。ティーカップを差し出してその向かいに座る。

「良い村だね」
「……髭を伸ばしたんだな」

 彼は困ったように笑って、鼻の下の髭を撫でた。体面を保つってヤツさ、と本人はあまり気に入っていないようだ。外見は変わっても、内面は昔から知る友人の姿らしい。

「研究のほうはどうなんだ?」
「少し停滞している。なかなか上手くいかなくてね、でもお偉いさんにとってはそんなことは関係ないときた。最終段階まで来ているし、期待も大きいのはわかるけどね。ほとほと困っているよ」
「パリの博覧会が近いのだろう」

 十九世紀最後の万国博覧会がパリで執り行われると新聞では大々的に報道されていた。十九世紀の終焉と二十世紀の幕開けを飾るに相応しいものにするため、様々な催しを計画しているのだと言う。
名高い発明家である旧友はその一任を担っている人物であった。若い頃、二人で夢中になって研究に没頭していた頃とは違う。親友の出世が誇らしいと同時に、あの頃が懐かしかった。

「君がいてくれたら、って思うんだけどね」

 紅茶を啜る旧友も、あの頃を思い出していたのだろうか。

「……すまない」

 国の重要研究者となった友人に対して、自分は金持ちの要望があれば発明をするお雇い発明家となった。それは好きな研究に没頭できるからという身軽さを求めた単純な理由だったが、思えばそのことを大いに嘆いたのはこの純粋で真っ直ぐな旧友だったではないか。
 部屋を沈黙が包む。付き合いが長いというのに、まるで初めて会ったかように二人の会話はぎこちなかった。それは、彼女がいないからなのだろう。

 二人に思い出には必ず彼女がいた。二人して彼女の愛を競ったことさえある。彼女は自分を選んだが、親友は笑顔でそれを祝福してくれたのだ。良き友であり、良き好敵手であった。あの頃は何もかもが希望に満ち溢れていたものだ。いつか離れる時がくるなど、想像もしなかっただろう。

 けれど、それは若者の幻想でしかない。変わらないものなどない。旧友も家庭を持ったし、自分もこれからのことを考えなければならない。時は待つことを知らないのだ。気がつけばあっという間に年を取っている。ただ、変わることがないのは彼女か。苦い紅茶を飲み干して思う。不味い、彼女の味とはまったく違う、と。この感情をどうすれば良いかまだわからずにいる。

「ああ、そうだ」

 友人は思い出したように、ポケットを探った。懐かしいものを見つけたんだ、と彼が差し出してきたのは一枚の写真だ。
 開けて見れば、そこには微笑む三人の若者がいた。
 真ん中の椅子に座り、行儀良く手を組んで穏やかに見つめてくる少女は彼女だ。その表情は、夢の中の彼女と重なる。この写真は「記念に」と言って撮ったものではなかったか。何の記念であったか思い出すことができないが、ベルベットのドレスを着た少女とタキシードに身を包んだ二人の青年の姿からしてパーティーでの一葉だったのかもしれない。

「彼女が死んでしまったなんて、僕はまだ信じられないんだ」

 友人は静かに泣いていた。その様子を、どこか穏やかな面持ちで見つめる自分がいた。
 電球がじじっと点滅する。
 それは自然と言葉として出てきた。

「夢を見るんだ」
「夢……?」

 ああ、と呟いて天井を見上げる。暫く電球を見つめていると目の前がどんどん白くなっていく。まるで気を失う前の瞬間のように、頭がぼうとする。

「彼女が綺麗な花園で眠っているんだ。いくら名前を呼んでも目を覚まさない。ただ静かに眠っているだけ。どうして彼女は目覚めないんだろう、不思議でしかたがない」

 ちかちかと電球が点滅する。それは突如と脳を駆け巡った。
 彼女は、自分が「目覚めさせる」ことを待っているのではないか。
 夢の中ではない場所で、もう一度自分と寄り添うことを願っているのではないか。そう、彼女はまだ生きているのだ。形としてではなく、けれど、それが形となることを待っている。男の目に一瞬光がさしたことに、果たして友人は気づいたのだろうか。

「夢の中の彼女は穏やかに眠ることができているだろうか」
「ああ……でも、もうすぐ彼女は目覚めるよ」

 電球から目を逸らして旧友を見る。真っ白だった視界が、ゆっくりとその輪郭を捉える。そっと微笑む。もうすぐなんだ。誰ともなく吐き出した言葉は夜の闇に吸い込まれた。



 彼女と長く寄り添っていたものの、それは夫婦という形ではなかった。彼女が、ずっと恋人でいたいから、と拘りをもっていたのだ。彼女がそうすることを選んだのだからそれで良かった。

 春先とはいえ朝はまだ冷える。朝日が昇る前の静寂の時間、あたりには薄い霧がたちこめ、息を吸い込むと肺を冷たい空気が満たしていく。母屋と隣接した小さな小屋の扉を開け、滑りこむようにして外とを遮断する。暗い部屋の真ん中には大きなコンデンサーが置かれていた。壁にある三つのブレーカーを上げれば、重たげな音と共に部屋の機械が動き出し、発せられた電気が四方を光で満たす。微かに焦げ付くにおいと機械油のにおいが混ざり合って鼻腔をくすぐった。長年嗅いできたにおい。

 彼は隅に置かれた机の前に座り、小さな鉄の箱を取り出した。
 今日もあの夢を見た。いつものように彼女は目覚めない。しかし、気づいたのだ。これはただの夢ではない。彼女はまだ生きている。夢の中で自分を待っている。ここから目覚めさせてくれ、そう呼びかけているのだ。
 人間は光を生み出すことに成功した。あらゆるものを映し出すことに成功した。
 人間の脳はいくつもの電気信号で形成されていると、提唱されたではないか。

 ならば、夢の中の人間を現実へと連れ出すこともできるのではないか。

 この鉄の箱にはいくつもの電気信号がくるくると回っている。目に見えないそれは、眠っている間に蓄えた自分自身の記憶であるはずだ。ここまで作り出すために費やした時間はそう長くはない。人は大切な者を無くすと徐々にその記憶を忘れていくという。それは声からはじまり、やがてその表情や仕草をも忘れていくのだと。彼女の記憶が鮮明なうちに、これをやり遂げなければならないのだ。

 プロジェクターを改造した機械の一部に鉄の箱をはめ込め、赤いボタンを押す。試行段階のそれは、コンデンサーの電力を吸い取りながら中の水銀灯を点滅させ始める。鉄の箱の中の円盤が低い摩擦を奏でながら回り出した。プロジェクターのなかでいくつもの閃光が散って、やがて一つのかたまりとなる。それはいくつもの粒子であり、レンズを通り、外の空間へとゆっくりと形を形成していく。シネマトグラフが映し出す映像のように、けれど微かに色を持った立体の物質だ。

 花が形成され、草木が形成され、やがて女性の身体を形成していく。目の前をひらりと舞った薔薇の映像に触れると粒子は崩れ、しかしすぐに形を取り戻した。それは冷たくもなく熱くもなく、何も感じない作られた物質。それでも色を作り出せるようになったことは大きな成果だ。あと少し――。

 ぱちんと何かが切れる音がして、突然ブレーカーがダウンする。作り出されていた物質は瞬く間にその形を崩し、そこにあった花園も姿を消す。あたりが完全に闇に包まれなかったのは、天窓から差し込む眩しいほどの朝日の光が部屋を照らし始めたからだろう。そこで漸く、息を吐き出した。
 コンデンサーを確認すると、電線の一つが焼けて黒くなっていた。焦げたような異臭に思わず鼻を覆う。所々上がった黒い煙はショートしたことを示していた。異常発熱だった。
 立ち上がろうとして違和感を覚える。くらりと身体が傾いたとたん、身体を廻った鈍い痛みと共に、目の前が真っ白になった。


 夢を見た。いつもとは違う夢だ。目の前に棺があり、それを取り囲むように顔のない喪服の人間たちが立っている。ふいに恐ろしくなり黒い人波を掻き分けて前へと進もうとした。棺はすぐそこにあるようで、けれどなかなか辿り着くことが出来ない。
 急がなければ、と心のどこかで声がする。
 漸く辿り着いた時、人波はどこかへと消え去り、自分と棺だけがその白い空間にはあった。ゆっくりと歩み寄れば、その中に横たわっていたいたのは穏やかに眠る彼女だった。その身体に触れようとして、けれど躊躇して拳を握る。

「起きてくれ」

 ぼんやりと呟いた。果たして、それは本当に願っていることなのだろうか。足元はただ白く、段々とこの空間にめまいを覚え始める。どこが右でどこが左なのか、本当に自分は立っているのか。耳元で女の声が聞こえる。
 はっと、顔を上げれば、彼女の瞼が突然開かれた。
 淡い青が彼の目を捉え、赤い唇から言葉が零れ落ちる。

「――――」

 それはノイズとなって響いた。




 耳鳴りがする。頭の奥から鼓膜へと突き破るような不愉快な音だ。重たい瞼を持ち上げた。眩しいほどの光に目を細め、ぼやけた視界を彷徨わせ、隣に人影かあるのを捉えた。輪郭のはっきりしない姿に一瞬彼女の姿が脳裏を過ぎる。けれど、それは旧友であった。怒ったように眉間に皺を寄せてこちらを睨んでいる。

「気分はどうだ」

 低い声だ。

「……頭が鉛のように重い」
「あたりまえだ。気を失った時に床にぶつけたようだからな」
「私は……気を失っていたのか」

 ベッドに寝かされているということは、彼が自分を助けたのだろうか。テーブルには薬の瓶もあるので、医者でも来たのかもしれない。しかし、それを尋ねることがどうも億劫で深呼吸と共に目を閉じる。旧友のため息が聞こえた。
 目を閉じると音がより鮮明に聞こえてくる。窓辺で小鳥が歌を奏でている。庭に植えられたポプラの葉が風に揺られてざわめいている。村の子供たちが楽しそうに声を上げながら家の前を通り過ぎていく。ねぇ、目を閉じてみて。彼女は言った。きっと新しい世界が感じられるわ。君の言った通りだ。そこには自分の知らない世界がある。

「何も食べてなかったろう」

 旧友は温かいスープを指し出した。有無を言わせない様子に、素直にスープの椀を受け取る。オニオンとスパイスの美味しそうな香りを吸い込んで、そういえば最後に食べたのはいつだっただろうかと考える。研究に没頭するあまり、自分は生活を蔑ろにしてしまったようだ。きっとこのスープも彼が作ったものだろう。「すまない」と一言謝れば、またため息をつかれた。
 彼は自分に怒っているのだ。

「君はあの小屋で一体何をしようとしているんだ?」

 暫くして、おもむろに友人は問いかけた。二階の窓から小屋の屋根が見える。彼女が不気味な場所だと散々言っていた研究室。重たい鉄があちらこちらに組み立てられた部屋は、一般の目からして確かに不気味に違いない。

「夢を現実にすることは可能なのだろうか」

 この時の友人の表情を、恐らく自分はずっと忘れることはないだろうと思った。
 まるで触れてはいけない禁忌に触れてしまったかのように、彼は剣呑な顔をして、けれどすぐに哀れむような目で自分を見つめた。いよいよ自分は頭がおかしい人間にされてしまうのだろうか。なによりも、友人の一瞬の軽蔑にも似た表情が恐ろしかった。

「アルケミーのようなことを、君の口から聞くとは思わなかったよ」
「私はただ彼女を目覚めさせてやりたいだけなんだ」

 旧友は何か言葉を発そうとして、けれどはっとしたように噤んだ。

「……彼女は死んだんだ」

 吐き出すようにして紡がれた言葉は、すうと耳を通り過ぎていく。ああ友よ、彼女はまだ死んでいないんだ。あの花園で自分をずっと待っているんだ。でなければ、どうして同じ夢ばかり見てしまうのか。その言葉を受け入れてしまったら、狂ってしまう。この世界に自分を繋ぎ止めるものがなくなってしまう。

「死んだ人間は甦らない、甦らせてはいけない」
「誰がそう決めたんだ?」
「そんなことが出来たところで、彼女はきっと悲しむだろう」

 君の今の姿を見て悲しむだろう。
 自然の摂理と均衡を崩そうとする人間は社会から排除される。友人は自分を諭そうとしているのだ。そんなことをしてはいけない、と静かに、けれど確かな言葉で目を覚まさせようとしている。しかし目覚めることを拒んだ人間はいったいどうなるのだろう。何を失うのだろう。もう失っているというのに? 自分には一体何が残っているというのだ。

 彼女は自分の全てだったのだ。

「君の研究室で彼女を見たよ」

 思考が現実に引き戻される。旧友へと視線を動かす。

「いや、あれは彼女であって彼女ではないかもしれない。まるでスクリーンから映像が外にでてきたかのように鮮明で、けれど不確かな存在で。よくよく見ればいくつもの小さな粒子が作り出した曖昧な姿だった。……君は驚くべき発明をしたんだろうな。でも、駄目だ。僕は……あれは恐ろしいものだよ」

 人を惑わせる。
 旧友は言葉一つ一つを選ぶように話した。けれど、思う。あれは世紀の発明などではない。ただ彼女のために作った機械でしかないのだ、と。彼女を目覚めさせるために、あの頃を取り戻すために作ったものでしかないのだ。偶然に自分はその知識があって、それを使っただけである。発明家などと呼ばれる資格など最初からないのだ。
 何故だか笑いがこみ上げてきた。ははっ、と声に出せば、友人は怪訝そうにこちらを見た。

「……やはり彼女はまだ生きてるんだ。だってそうだろう? 彼女は現れたのだから、そうであるに決まっている。まだ死んでなどいない、その肉体も取り戻してみせる」
「君は愚かだ」

 旧友は立ち上がり、男に視線を送ることもなく部屋を出て行こうとした。しかし、扉の前で一度立ち止まり、振り返らすにただ問いかける。

「夢とはなんだろうな」



 夢とは単なる幻想でしかないのだろうか。
 逢いに行かなければ、と直感にも似た思いに、まだふらつく足を動かして研究室へと向かった。耳を澄ませば自身の息遣いさえも聞こえてしまいそうな静寂が支配していた。埃と機械油のにおいが充満する研究室は、最後に訪れてそう時間が経っていないというのにひどく懐かしい。天窓から月の光が部屋を照らし出していた。
 光が一番強い場所に、彼女はいた。
 こちらに背中を向けた姿はぼんやりと今にも消えてしまいそうな気がした。透けた身体の向こうに夢を閉じ込めた鉄の箱が転がっている。彼女の指先がそっと触れるようにして添えられていた。

「ナターシャ」

 喉の奥で燻る名前を紡ぎ出す。掠れた声に彼女の肩が小さく動く。ゆっくり振り向いたその顔は確かに彼女だ。青い瞳が自分を捉える。胸の奥でぎしりと歯車のように何かが動いた。歩み寄り、その頬に触れようとする。
 けれど触れたとたん、彼女の一部が粒子となって崩れた。驚いて手を引き彼女を見つめる。その姿はすぐに元に戻った。触れることも赦されないのか。彼女が泣き笑いのような表情をする。その繊細な唇がそっと動き、言葉を作り出す。声にならない言葉だ。今度は彼女が手を伸ばし、自分の頬に触れる。何も感じられないそれは、自分が作りだしたものだ。

「夢から君を目覚めさせたところで、所詮それは私の幻想でしかない」

 端から知っていたのだ。旧友に言われるまでもなく、男はそのことを誰よりも知っていた。けれど、それでも求めたのは心に空いた隙間をなんとしても埋めたかったからだ。

 頬を涙が伝う。
 彼女が死んだ時も流れることのなかった涙が、溢れ出し床へと零れ落ちる。息が苦しい。涙を流すという行為はこんなにも痛みを感じるものだったのか。

「君が愛おしい」

 ずっと伝えたかった言葉だ。
 ふっ、と彼女が笑った気がした。穏やかなその表情を、姿を、記憶に焼き付ける。忘れたくはなかった。声は時が経つと共に忘れてしまった。けれど思い出と面影だけは永久に美しいまま、色褪せないように仕舞っておこう。そうして、なんでもない一瞬に君の名前と共に懐かしめば良い。

 不意に彼女の唇が男の唇を掠める。
 目を見開いた時、彼女の姿が風のように消えてなくなった。不鮮明なノイズだけが耳元に残る。力を失った足を支えることが出来なくて膝をつく。月の光が温かい。そのまま身体を冷えた床へと横たわらせ、部屋の隅の闇へと目を凝らす。身体も精神も疲れていた。少し眠ろう。きっと夢を見ることはもうないのだろう。ただ深い眠りにつくだけだ。ゆっくりと瞼を閉じる。

 ――願わくば、美しい幻想に沈むことを赦して欲しい。

 私が君の元へ行くその時まで。