十七回目の春へ
 彼女は冬になると深い眠りにつく。遠い春の目覚めを待つために。柔らかな太陽と、風と、花の香りに包まれる季節を迎えるために。それは彼女にとって自然なことだった。眠るその姿は静かで、まるで幸せな夢を見てるように穏やかで。規則正しく上下する胸が、彼女が生きていることを伝えてくれる。どくどくどくと、鼓動を伝えてくれる。
 どんな夢をみているのだろうか。
 伺い知ることはできない。
 けれど、一つだけ知っている。 
 そう、――彼女は「花」になったのだ。
 僕らが幼かった頃、このつつじの庭で、花を一輪摘むその後姿が記憶の中に鮮明に残っている。それは赤いつつじだった。色鮮やかな眩しいほどの赤が、彼女の白い手の平の中にあった。「ねぇ、見て、綺麗でしょ」と満面の笑みを浮かべる。風が彼女の柔らかい髪を揺らす。
 けれど、僕はその花を恐ろしく思ったのだ。二人を囲むように高く聳え立つつつじの群れが、白や薄紅や赤紫の淡い花々が、迷路のようなその場所がただ恐ろしかった。幼い頃の僕は臆病な子供だった。いつも苛められて、そのたび彼女が僕に手を差し伸べて助けてくれた。僕は何度、いつか彼女を守れるように、と幼心に願っただろう。その時が来たらきっと守るのだと信じていた。
 彼女が赤い花片を小さな唇へと寄せる。
 ゆっくりと蜜を飲み込む。
 小さな喉がごくりと上下する。
 その時、時が止まったかのような一瞬を、目の前の少女を、美しいと思った。
 

 その年の冬、彼女は初めて眠りについた。
 そして僕は彼女が眠るのを見届け、その目覚めを待つようになった。白い部屋のベッドの中で静かに眠る少女。殺風景な景色に今にも飲まれそうな彼女を、今度は自分が守ろう。時間があるかぎりその傍を離れずに、小さな柔らかい手を握り返して話を聞かせる。本を読むことが多かった僕は、自然と物語を聞かせてあげるようになった。どうしてあんなにも熱心に彼女に語りかけたのか、今思えば、彼女に寂しい思いをさせたくなかったからなのかもしれない。孤独ほど恐ろしいものはない。その恐怖を知ってほしくなかった。だから彼女の道しるべとなるよう語りかける。ねえ起きて、もうすぐ、春が来るよ。
 彼女は目覚めると、微笑みながら「ありがとう」と決まって僕の手を握り返す。眠っていてもあなたの声を聞くことが出来るの、と言った。だから怖くないのだ、と。春の柔らかな日差しの下、彼女は可憐な花のようだ。僕は微笑み返す。その頃、僕らはまだ無知な子供で、だからそれがずっと続くものだと思っていた。
 けれど僕らは永遠に子供のままではいられない。
 十三の年を迎えた頃、僕は始めて違和感を覚えた。心の奥で燻るものがある。それに気付いたのは、冬の一日。あの白い部屋で眠る少女のあどけない横顔が、ふと、知っている彼女と違うことに気づく。ふせられた長い睫、柔らかな白い肌、桃色の唇が艶やかに誘う。冷えた部屋の中で、胸の奥が熱を持つ。目の前に横たわる少女は少女であってそうではない。違う。彼女は一体「だれ」なんだろう――。
 やがて春が訪れる。彼女が目覚めた時、僕はそこにはいなかった。
 あれほど恐れていた彼女の孤独を、誰でもなく自分が与えてしまったのだ。


 霞んだ春の青い空に花びらが舞う。花の季節。一人空を見上げながら、自由だと思った。そう思った自分が恐ろしかった。「守る」と言っていたあの頃の幼い自分はそれがどれほど二人を縛る言葉であるか知りもしなかった。彼女への罪悪感と、心の奥の見知らぬ違和感を抱えたまま、僕らは十六の年を迎えた。僕は彼女を知らない風を装って、普通の学生を演じることに挺した。近くて遠い彼女の体温を、離れた場所から感じる。これが自分の罪滅ぼしなのだと、目を閉じて。
 彼女は一度も「どうして?」と問わなかった。
 ただ一度、偶然に視線が交わった一瞬、悲しそうに笑っただけだった。忘れたつもりでいた感情が疼く。締め付けられるほどの痛みは、呼吸を忘れさせる。逃げ出した醜い自分を、彼女は許してくれるだろうか。少女と女の間で揺れるその姿は美しい。やけに大人びいた表情はやはり僕の知らない彼女だ。
 思えば、三年の月日が経っていた。冬が近付こうとしている。もうすぐ彼女は眠りにつくのだろう、ぼんやり考える。冬は悲しい季節だ。一人残された夕暮れの教室は静かで寂しい。徐々に冷たくなっていく空気が身体いまとわりついて、吐き出す息まで寂しく思える。
 音のない空間で、柔らかな声音が、僕の名前を呼んだ。
 その瞬間をずっと待ち望んでいた気がする。
 そして気付く、心の奥の見知らぬ違和感の正体を。ああ、どうしてもっと早くに気付けなかったのだろう。
 振り向けば、教室の入り口に彼女が立っていた。表情は影になって伺うことが出来ない。彼女は今、どんな顔をしているのだろう。そして自分はどんな顔をしているのだろう。長い沈黙が降りる。二人の間に透明な膜が張られたように、それは、彼女に名前を呼ばれたことが幻ではないかと思わせるのに十分で、僕はどう声をかければいいのか考えあぐね、動かない少女を見つめることしかできない。やがて、彼女の存在も実は幻なんじゃないかと思い始めた頃、その小さな唇がゆっくりと動いた。
「お願いがあるの」
 落ち着いた声だった。
 私を、あのつつじの庭に連れて行ってほしい。
 どうして、と僕は問うた。
「思い出の場所だから、あなたとの大切な始まりの場所」
 あの頃の記憶が甦る。赤い花、白い手、上下する喉、競い合うように咲き誇るつつじの花の甘い香り。忘れるはずはなかった。始まりの場所、と彼女は言った。それが何を意味するのか、僕は知っているはずだ。――僕らの心が初めて交わった始まりの場所。
 十七回目の春をそこで迎えたいのだと、彼女は言った。
「私はもうすぐ枯れてしまうから」
 花は永遠に咲き続ける事は出来ない。いつか散る宿命を背負っているから、美しく儚いのだ。それは最期の言葉のようでいて、けれど甘言のように胸に響く。冬の音がした。冬の底で、春は息を潜めている。僕らを縛り付ける美しい季節は目覚めては眠り、そうして廻っていくのだ。
 その冬僕は彼女の眠るのを見届け、いつかのようにその手を握り締めた。細く滑らかな手だった。絡めた指から微かな体温を感じる。眠りにつく彼女へ初めて「おやすみ」と言葉を贈った。そっと微笑み瞼を閉じた彼女は、一体どんな夢を見るのだろうか。懐かしく無機質な白い部屋は静かに僕を迎え、ベッドサイドに飾られた花の香りに微かに混じるアルコールのにおいを深く吸い込む。彼女と同じ香りだ。
 そうして過ぎてゆく冬の日を数えながら、いつかのように彼女に物語を贈り、やがて来る春を待つ。本の中の少女は彼女に似ていた。悲しい恋の物語だった。


 春は冬の終わりを偲ぶように訪れた。
 僕は約束通り、白い部屋から彼女を連れ出した。透明な液と身体とに繋がれた管を細い腕から外し、花びらのように軽い彼女の身体を抱え、始まりの場所へと向かう。夜明け前の空気はゆっくりと肺に入り込む。明るくなり始めた空は穏やかに晴れ渡っていた。風が柔らかく、彼女の長い黒髪をさらう。眠る顔はどこか微笑んでいるようだった。
 思い出の場所には、つつじの花が咲き誇っていた。朝の庭は薄靄に包まれ、登り始めた太陽を浴びてきらきらと輝く。花弁の先ついた雫が静かに弾ける。子供の頃、あんなに恐ろしかった景色は、けれど成長してみれば小さくなったとさえ思えた。僕らはもう、つつじの群れに隠れることはない。
 花々の中に彼女を横たえ、横に座り込む。その姿はまるで花園に眠る姫のようで。そう、あの頃から彼女は花が似合う少女だったのだ。いや、彼女は、凛と咲く花そのものだった。その事実に知らぬ振りをしていたのは愚かな自分だ。
 雫に濡れた花の甘い香りが鼻腔をくすぐった。目に止まったのは鮮やかな赤い花。薄紅や赤紫の花々が咲き誇る中で、その一輪だけが赤色をしていた。注意して見なければ目に止まらないように慎ましく、けれど見つけてしまった瞬間目に焼きついて離れない。
 どうして君はあの時、この花を見つけてしまったのだろう。
 赤い花を摘み取る。
 僕はまだ、君に想いを伝えることが出来ないまま。
 いつの間にか薄靄が晴れて、空の青が美しい花々を讃えている。次に何をしなければいけないのか、知っているはずだ。隣で眠る彼女を見つめる。君は枯れてしまうと言った。けれど、僕がそうさせない。もう君を独りになどしない。
 だって君は――
「君は僕の愛おしい花だから」
 赤い花片を自らの唇へと寄せる。柔らかな感触と、甘い蜜の味。それをゆっくりと飲み下す。心がゆっくりと満たされていく。あの時、彼女もこんな気持ちになったのだろうか。考える。胸の奥底が暖かい。鼓動を感じた。花の鼓動だ。そして、彼女の生きている証。
 そっと瞼に口付けを。
 君の本当の目覚めを、僕が与えよう。
 そうして彼女が目覚めた時、囁くのだ。十七回目の春を迎えた僕らへ。

「おはよう」と――。
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