寒丹花
 指の先まで凍るような寒さだった。
 師走も末だというのに、未だ雪の降る兆しがないことが不思議なほど空は晴れ渡り、ただ頬に当たる風が鋭い刃のように頬をかすめてゆく。襟巻きに顔を埋め着物の袖に手を入れ、暖を取ろうとするも、体温は瞬く間に奪われた。散歩をするだけだから、とコートを着てこなかったのだが、その安直な考えが凶と出たらしい。

 寒さから逃げるように、自然と歩調は速くなる。「寒い、寒い」と呟けば、それは白い息となって空気に溶けてゆくのだった。

「綺麗な花ですね」

 艶やかな声に、私は顔を上げた。
 家宅へ曲がる小路に、一人の娘が微笑を浮かべこちらを見ていた。肩上で揃えた艶やかな黒髪と雪のような白い肌、深緑の着物が景色に浮かび上がる。年の頃は十六、七だろうか、この界隈では見かけない顔だ。
 といっても、私がこの町で知っている人間など片手に納まるほど少ない。しかし、こんなにも印象的な娘だ。会話を交わすことがなかったとしても、どこかですれ違っていれば、忘れるはずがない。

 私は思わずその美しさに見惚れてしまったのだが、彼女の視線が私の手元に注がれたことで、合点がいった。
 羽織の袷に隠れるようにして、一輪の椿が収まっているのだ。
 彼女はそれが目に止まったらしかった。
 近くの寺の一角には椿の古木がある。そろそろ花の季節かと立ち寄れば、鮮やかな紅の花を咲かせていたので、きっと書斎も彩るだろう、と一枝、まだ花の開いていないものを選んで手折ってきたのだった。

「綺麗な花ですね」

 彼女は言葉を重ねた。

「……ええ」

 私はどう返せば良いのかわからずに、うなずいた。女性と話すのはどうも苦手だ。

「椿は良い花です」

 娘は私の無愛想な返事を意に介する様子もなく、笑っている。
 私はその時、不思議なことに、彼女のことを知っているように感じた。

「どうか、大事に活けてやってください」

 娘はにこやかに言葉を紡ぐ。

「もし、お嬢さんはこの界隈に住まわれているのですか?」

 或いは、この町に多くある寺の娘かもしれないと考えた。
 しかし彼女は答えることなく、微笑を浮かべたまま一礼する。人を魅了する所作だ。小路の向こうに消えてゆく姿をぼんやりと見つめることしかできない。やがてうつつに戻ると、慌ててその背中を追いかけた。
 小路を折れた先には、人の影がなかった。気配のないがらんとした路に立ったまま、あの娘は幻だったのかしらん、と考える。それにしては、あまりにもはっきりした幻影だ。私は化かされた心地でひとり首を傾げる。
 袷に鎮座する紅い椿が、微かに揺れた。




雪澄きよすみって、素敵な響きの名前だわ」

 文机の横でだらしなく足を放り投げた娘は、前ぶれもなくそう言った。艶っぽい声が紡ぐ言葉は不思議と美しく感ぜられ、自分の名さえ詩的響きを含んでしまうようだ。
 私は原稿用紙から顔を上げ、そうですか、と返した。

「私はあまり好きではないですが」
「どうして?」
「明らかに寒そうな響きですから」

 すると、何が面白いのか、彼女はくすくすと笑い出した。
 私は彼女と接するようになってから、女性というのはやはり未知の生物であることを、ますます確信するようになった。次に出る行動がわからないので、対処のしようもなく、ただ翻弄される。それはもどかしく、例えるならば背中の痒いところに手が届かないような苛立ちさえ覚えるようだ。

「そうね、雪澄さんは、寒いのが苦手だものね」

 彼女は納得したようにうなずく。
 私は少しむっとして原稿用紙へと視線を戻した。そして真っ白い原稿を見て、更にため息をついた。どうしても言葉が出てこない。くすくすと隣で微かな笑い声が聞こえる。
 初めて出逢った三日前のあの日の清楚で丁寧な娘の印象と打って変わり、その姿は可憐でお喋りな少女そのものだ。
 彼女は悪戯な笑みを口元に浮かべ、私を見つめてくる。黒目がちの瞳は渦巻くように深く、その奥に小さな光を宿している。今日は濃紅のワンピースを着ていた。露になった足は、枝のように細くしなやかだ。女性というのは未知の生物であるが、同時に美しい生き物でもあると知った。

「もうすぐ花が開きそうだわ」

 彼女はぼんやりと床の間へ視線を動かした。
 椿の花が殺風景な部屋に彩りをそえている。
 ふと、ある考えが思考を過ぎった。

「花が落ちたら、貴女はどうなるのでしょう?」

 問うてから、それがなんと残酷な問いかけであったことに気付いて口を噤んだ。しかし、言葉にしてしまってからでは、もう遅い。思ったことをすぐに口に出してしまうのは、自分の悪い癖だ。
すみません、と小さく呟いた私に、優しいのね、と彼女は言う。けれど、娘は私の問いに答えることはない。
 あの日、いつの間にか書斎に現れた彼女は、自分は椿の妖だ、と言って私を驚かせた。深緑の着物を着た姿に見覚えがあったので、戸惑った。

「貴女は先ほどの」

 尋ねると、

「こんにちは、雪澄さん」

 彼女は楽しげに答えた。
自分を知っている風の娘に私は戸惑い、さらに彼女が続けた言葉に微かに眩暈を覚えた。少女は私の手にある花を指差し、こう言ったのだ。

「その一輪の椿はわたし、わたしは椿の花」

 此処にいるのは、貴方がわたしを手折ったから。
 彼女の言い分はこれであった。そうして彼女との奇妙な同居生活が始まった。

「しかたないわ、だって貴方が私を手折ってきたのだから」
 彼女は決まってそう言った。彼女の瞳の中に移った寂しげな色が、心をとらえて離さなかった。


 雪が降りそうだわ、と彼女は言って、縁側を挟んで障子の向こうにあるガラス戸をがらりと開け放った。とたん、凍てつくような風が部屋の中へと流れ込む。「寒い」と、私は慌てて袢纏を引き寄せて身体を縮こまらせた。

「何をしているのですか、風邪を引いてしまいますよ」

 はたして花は風邪を引くのだろうか。冷たい空気に晒されてもなお、平然としている彼女を見ると、その心配はないらしかった。「寒椿」「冬椿」という冬の季語があるように、椿は雪の中でも凛として咲く花なのだ。
 娘は足に下駄を突っかけ、庭に降りた。小さな家宅なのでその庭も小さく、申し訳程度に作られたと言っても過言ではないほど殺風景であった。夏になれば軒の影に朝顔が咲き、秋の入りには金木犀が甘ったるい芳香を散らすが、冬は常緑樹たちの深い緑以外彩りがない。その中に立つ少女は、どこか異質でもあった。

「見て、雪澄さん」

 白い腕が天へと伸ばされる。
 白鼠色の雲が、すっぽりと空を覆っていた。これならば、彼女の言う通り今晩には降るかも知れない。縁側から空を見上げて小さく身震いする。冬に弱い自分にとって雪はそれほど魅力的ではなく、単に寒いだけである。

「雪澄さんはきっと、春が待ち遠しいのね」
「そうでもありません。春はくしゃみが酷くてしかたなのです」

 彼女は笑う。面白い人、と言われても自分のどこが面白いのかさっぱりわからない。少し眉を寄せた私に、じゃあ、と彼女はくるりと回りながら尋ねる。

「どの季節が好きなの?」

 私は少し考える風をした。

「……強いて言うなら、秋、ですね」

 彼女は飛石を一つ一つ飛びながら、その腕を私のほうへと伸ばした。象牙色のワンピースの上に羽織った黄朽葉色のカーディガンが翻り、肩上の豊かな黒髪が揺れる。
 私は彼女の手を取り、縁側へと引き寄せた。
 氷のように冷たい手だった。
 その手を握ったまま、温めるように自分の頬へと押し付ける。温度のない手は、けれど絹のように柔らかく、私は暫くそのまま目を閉じた。

「温かい人」

 彼女の空いた指先がもう片方の頬にそっと触れた。その手も握り締める。この一瞬がずっと続けば良いのに、と考える。
そうしたら冬も好きになるのに――。
 いつの間にか床の間の小さな紅の椿は花開き、静かに二人を見つめていた。


 ふと花活けの椿に目をやると、花弁の先が茶色くくすみ始めたことに気付く。
 彼女はその鼻先をつんと指で弾いた。表情のない顔は少し青白い。椿は日増し艶をなくしているが、控え目な鮮やかさを辛うじて保っている。下を向いた花は、どこか物悲しいとさえ感じる。彼女の様子が優れないのは、花が関係しているのだろう。
 花の娘と出逢ってから一週間が過ぎ、暦では年を越し睦月となった。庭は大晦日に降った雪が一面を覆っていた。

「少し、散歩に行きませんか」

 こんな寒い日に散歩など、普段の自分であったなら考えつくはずもなかった。けれど、今にも消えてしまいそうな彼女を見ていたら、此処から連れ出さなければと思った。
 彼女はゆっくりと視線をこちらに向けると、ぬれた瞳を細め、首を傾げた。

「椿を見に行きたい」

 あまりにもか細い呟きだった。
 寒さを感じないと知りながらも、彼女に自分のコートを着せ赤い襟巻きをその細い首に巻いてやった。男物の長いコートは彼女の身体をすっぽりと覆い隠す。そうすることで、少しだけ安心できた。ブーツを履き、彼女に赤い雪下駄を履かせた。
玄関を開けると、風はないものの張り詰めたような冷たい空気がすぐに身体を包みこむ。私は頼りない足取りの娘の腕を取り、自分の肩へと引き寄せ、歩き出す。

「まるで夫婦のようね」

 彼女は力なく笑った。
 向かう場所は決まっていた。

 寺の多いこの町は、水路も多い。迷路のように配置された水路は、大きいものから小さいものまで、どの小路を曲がっても果てしなく続いている。雪化粧された町はしんと静まり、微かな音さえも吸い込むようだ。傍を通る水路を赤い花が流れていた。春はまだ遠く、けれど雪景色の中の落椿は鮮やかに視界を染める。

 私は、隣を歩く娘の手を強く握り締めた。

 水路の一つに架かった石橋を渡り、寺へと足を踏み入れた。境内は朝早くに除雪されたのか、雪が少ない。
その椿は鐘楼の裏手にひっそりと根付いていた。この寺が建った時からあると伝わる古木。樹齢数百年もあろう背の高い幹は幾十にも枝分かれし、雪の残る濃緑色の艶やかな葉に混じって紅い花が咲いている。

「これはこれは、若先生」

 低い声だった。振り返ると、寺の住職が珍しげにこちらを見つめて立っていた。私より八つ年上の三十も半ばの男は、住職と呼ばれるのはまだ若いように見受けられる。
 彼は笑うと眦に小皺がよる。愛嬌のある表情は、けれど容赦がない。理由はなかったが、私はこの住職と折り合いが悪かった。

「お前さんが外に出るなんて、今夜は大雪になるのかね」

 住職はそう言いながら、私の隣に並んだ。椿の妖の娘には気付いてないらしかった。「わたし、この人好きじゃないわ」
口の中でごもごもと彼女は呟いて、私の後ろに隠れた。

「この椿が気になるかい?」
「ええ、美しい花ですから」

 私は頷きながら椿を見上げた。

「言伝えによれば、この椿は元々白い花を咲かせていたらしい」

 物書きのお前さんなら興味深い話だろう、と住職は私に視線を向ける。
 私は一瞬息を詰まらせ、そして恐る恐る尋ね返した。

「……それは、どのような話なのですか?」

 後ろに隠れたままの彼女が、不安げに私の着物の袖を握った。私はその小さな手を包み込んだ。
きっと、私は彼女にとって一番残酷なことをしようとしているのだろう。けれど、私は知らなければならないのだ。それがどんな真実であっても、どんなに二人を苦しめようとも――。

 住職は語る。
 それは昔のこと、二人の男女がこの椿の下で出逢った事から始まる。
 二人は一目で恋に落ちたが、高貴な身分の娘と身分すらない一介の男は、添い遂げることが出来ないと知る。それでも逢瀬を重ねる娘と男の禁断の恋を知った親族は、二人を引き離そうと娘を嫁に出すことにした。
 愛おしい人と別れるならば死んだほうがましだ。娘は男の元へ逃げたし――。
 
 空高く鷹が鳴いている。脳天をつくような甲高い鳴き声。

 ――思い出せ。声がする。視界がぼやけ、声が遠くなる。
 紅い椿が白へと変わり、目の前に小さな娘が蹲っていた。

「小紅」

 と、私の声がその名を呼ぶ。娘は顔を上げ、縋り付くように私を抱き締めた。
「貴方様が愛おしい」

 艶やかな声だった。
 その声に聞き覚えがある。白無垢姿の足元は泥で汚れていて、結われた髪は所々崩れていた。それでも、娘は驚くほどに美しい。
 その手には懐刀が握られていた。細い指に握られた柄が微かに震えている。

「どうか、来世で結ばれんことを。わたしは必ず貴方様の元へゆくことでしょう」

 白い切っ先がゆっくりと首に近づき、その一瞬、鮮やかな赤が散った。倒れゆく肢体から雨のように降る赤が白い椿を瞬く間に染め上げてゆく。
 事切れた娘の死に顔は、恐ろしいほどに穏やかなものだった。私はその手から懐刀を取り、柄に施された美しい装飾を眺めた。一筋の紅が巧妙な金彫りの椿へと滴り落ちる。その刃を己の首筋にあてがい、咲き誇る白椿を見つめる。

 愛おしい人が、愛した花よ。
どうか、再び二人が廻り合うその導となっておくれ。
 願い、瞳を閉じた――。
 
 思い出した。
 溢れる涙を止める術も知らずに、その場に頽れる。身体が鉛のように重かった。珍しく心配する住職の声が遠くに聞こえる。滲む視線を廻らせたその先、椿の古木を背に悲しげな表情をした娘が立っていた。その名を呼ぶために口を動かす。ひゅうと喉がなる。
 彼女に触れようと手を伸ばし、けれどそこで意識は途切れた。
 
 どうして、早く気付くことが出来なかったのだろう。
 ぼんやりと縁側から殺風景な庭を眺めながら思う。幼い頃から感じていた心の隙間。ぽっかりと黒い穴が空いたような感覚。それは感情の奥にしまい込んでいた記憶によって取り戻され、漸く満たされたようだった。
 息を吐き出すと、冷たい空気に白い靄が浮かんだ。
 隣に感じる小さな鼓動が心地良い。

「……小紅」

 その名を呼ぶ。懐かしむように、失くしたものを取り戻すように。

「ずっと貴方に名前を呼んでほしかった」

 私の肩に頭を預けた彼女は、幸せそうに笑う。白椿があしらわれた純白の着物がとても似合っていた。艶やかな髪に、顔を埋める。微かな甘い香りがした。
 私は人間として生まれ変わり、小紅は椿の花として生まれ変わった。彼女自身が私たちのしるべとなったのだ。気付くのが遅くなってしまったが、それでも、こうして廻り逢えた事が奇跡のように愛おしい。

 けれど、決別の時が近付いている。
 彼女の身体が霞み始めていることに気付いていた。

 それでも知らないふりをして、最期になるだろう一時を、穏やかに過ごしたかった。
彼女と出逢った時のことを思い起こしてみる。どうして彼女があんなにも自然に私の日常に溶け込んだのか。彼女が現れたことでふわふわと漂っていた私の日常は彩りを取り戻し一層鮮やかなものとなった。
 雪澄さん、と彼女は美しい声で私の名前を紡ぐ。

「どうか、庭に椿を植えてください。この出逢いを忘れないために、わたしたちの絆を永遠にするために。わたしはきっと貴方のことを忘れない。だから」

 その先に続く言葉を、彼女の唇に指を寄せて止めた。
 小紅は小さく微笑んで、今度生まれ変わるときは人間が良い、と言った。そうだね、と私はうなずいた。
 ああ、この庭に椿を植えよう。愛おしい人の花を、変わることのない想いを、忘れないために。いつか再び出逢った時、その導となるために。

 だから安心して眠ると良い。
 春はまだ遠く、花の生は短い。
 音も立てずに、花活けの椿が落ちた。傍で消えてゆく気配を感じながら、冬の空を見上げていた。高く澄んだ青が目に眩しい。
静かに流れる涙のぬくもりを、私だけが知っていた。




 庭の一角に小さな椿の苗を植えた。花が咲くのはまだ先だが、不思議と、花が咲く頃になれば再び彼女に逢えるのではないかと思うようになった。
 再び逢うことが出来たのなら、きっと一番に彼女の名前を呼ぼう。そう決めていた。
 すうと艶やかな葉に指を滑らせる。深い緑がちかちかと目を刺激する。
 その一輪の椿はわたし、わたしは椿の花――記憶の中で声がした。
 
 冬を待ち遠しく思う自分が、少しおかしかった。