AM 2:00
 この街は坂の多いことで有名だった。
 大きな坂から小さな坂まで一つ一つに名前があり、住人たちは「こんなに疲れる街はどこにもない」と文句を口で言いながらもこの小さな街を気に入っているように、私の目には見えた。

 そんな坂の多い街の、海辺の近くにある大学に通うため、私は東京からやってきた。
 人口六万にも満たない地方へ行くと知らせた時、先生にも友人たちにも呆れられた。なぜわざわ首都から田舎へ行く必要があるのか、と誰もが思っただろう。母には、いったい何の不満があるの、と一方的に責め立てられたりもした。彼女は子供への英才教育を徹底していた。それなりに高いランクの高校に通い、それなりに成績も良かったから、母は私が都内の有名大学に進むものだと決め付けていたのだ。
 逆に私は彼らがおかしく思えてならなかった。なぜ勝手に決め付けるのか、なぜ私に対する勝手なイメージを押し付けようとするのか。息苦しい場所だと常々思っていた。けれど、世間一般の目から見ておかしいのは私なのである。その「世間一般」が我が物顔でまかり通ることも、不思議でならなかった。

 しかし周りの一方的な反対も、父が娘の好きにさせようと決めてから、すっかり聞かなくなり、こうして幽霊坂の上にある小さなアパートに引っ越してきたのである。娘が田舎へ行くと言い出してから小言の増えた母はまず「坂の名前が縁起悪い」と苦い顔をし、坂を登りきると「これだから田舎は」と荒い呼吸を吐き出し、素朴で優しそうな管理人を見て「田舎臭い」と小さくぼやいた。人間とは一つのこと意固地になると、なにもかもマイナスに見えるらしい。そんな母の寂れた後姿に、ため息をつかずにはいられなかった。

 二階建てのアパートは築十五年らしいが、昨年学生向けにリフォームしたと管理人が言ったように部屋の中は外見と打って変わって真新しいにおいがした。小さなベランダからは海を眺めることが出来る。部屋に運ばれた荷物を解いていくうちに、母は綺麗な部屋と外の景色に機嫌を良くしたらしい。
 現金なやつだ、とはまさにこのための言葉だろう。
 その頃には呆れることにすっかり疲れた私に、車で街の探索に出ていた父が「母さんか」と顔を見るなり苦笑気味に言ったので、なるほど父は母の気まぐれに長年付き合ってきたのだ、と少し同情する。「良い街だよ」懐かしむような目をして父は坂の下に広がる海を眺めていた。
 二人の乗った車が坂を下っていくのを見送り、そうして私の見知らぬ街での一年目が始まった。



 幽霊坂と名づけられているが、だから幽霊や妖怪の類が出るわけでもなく、私は順調に大学生活を満喫していた。
 この街の空気は肌に合っていた。初めこそあちらこちらに蜘蛛の巣のように張り巡らされた坂道に苦戦したけれど、慣れてしまえば自転車に乗って坂を下ることほど気持ちの良いことはなかった。腕や脚の隙間を縫って流れていく風にゆっくり身体を預けると、やがて浮遊しているような感覚におちいる。全てから解き放たれる瞬間。私はすぐにこの街の坂を好きになった。

 海沿いには私鉄が走っていて、特別な用事があればそれに乗って大きな街へ行けばいい。なにもない休日は大学の図書館へ行くか、部屋を空け放してレポートを書いたり読書をしたり趣味に没頭したりした。時折管理人に誘われて、近くの畑へ繰り出すこともあった。自治体に頼まれて近所の子供たちと勉強会を開くこともあった。充実とはこのことだ、と都会の友人に伝えれば、あんたの感覚がわからない、と非難されたけれど、さしたる問題ではない。都会は便利だね、と言いながらも無意識に都会人の愚痴を零すその矛盾に果たして彼女は気づいているのだろうか。

 そんな生活も二年が経ったころ、私が彼と出逢ったのは夏祭りの夜――いや、正確には深夜だった。窓を開け放しても風一つなく、潮の香りと湿気だけが身体に絡んでくるそんな真夏夜だった。寝苦しさに目を覚まし、水でも飲もうと視線を動かすと、窓の傍で外を眺める人影がいた。

 私は二三度瞬きをして、まじまじとその人物を見た。細身だが背の高い、ぼさぼさの黒髪をした青年のようだった。私の思考は一瞬停止した。その幻想的な姿に数秒見惚れる。

 けれど、すぐに違和感が胸を占めた。
 そうだ、なぜ自分の部屋に見知らぬ人物がいるのか。
 声を上げようとしたが、喉が渇いているせいでひゅうと頼りない音がでる。それに男は気付いたらしい。彼はゆっくりとこちらに顔を傾けると、驚いたように目を見開いた。私は背中をひやりと流れていく汗を感じた。なにか行動をとらなければ、と頭ではわかっていても身体が動かない。
 私の不安を知ってか知らずか、目の前の人物はじっとこちらを見ている。
 その視線がふっと柔らかなものに変わる。彼は唇を小さく動かして「こんばんわ」と言った。
 チッチッチと秒針の動く音のする時計は、午前二時を指したばかりだった。

 

 男性が女性の部屋にやってくるというのはそれなりに親密な関係であるか、そうでなくとも深夜という時間帯にやってくるなど言語道断である、という保守的な考えを持ち備えた私は、果たして彼はどうだろうかと考える。

斎野いつきのさんはどうしてこの部屋にいたんですか?」
「さぁ、それが僕にもわからないんだ」

 窓に寄りかかり外の景色をぼんやりと眺めていた彼は、困ったように笑って首を傾げた。それは彼の癖の一つだった。その胸元の向こうに微かに夜の空が見える。日中は透明に近い姿であるが、夜が更けると同時に濃さを増していく。
 要約すれば、斎野さんは幽霊だ。
 霊感と無縁に過ごしていた私にとってこの事態はなかなか飲みこめないものであり、なにせ経験がないので対処しようがない。彼と出逢って一週間は無視を決め込んだが一向に消える気配はないし、私の頭が勝手に作り出したイマジナリーフレンド(子供の頃、私は空想の友達を作って遊んでいた)でもなさそうだ。何か害をなしてくるようでもなかったので、腹をくくり彼との対話を試みたのはつい二日前のことだ。

 すると案外良い人らしいことがわかった。
 聞きたいことは山ほどあったけれど、とりあえず「同じ一つ屋根の下、よろしくお願いします」と挨拶すると、彼は驚いたようにしてから柔らかく表情をくずして「はい」と答えた。後になってから考えれば、幽霊に挨拶するなんておかしい。けれど、私にとっては幽霊だろうが何であろうが初めて接する人には違いなかったのだろう。

「夏木さんは勉強熱心ですね」

 私が名乗る前から彼は私の名前を知っていた。私がその存在を意識する以前から、彼は私にことを見ていたという。その言葉に、だらしのない姿まで見られていたのか、と思うとこちらが見えなかった頃とはいえ恥ずかしさは変わらない。そんな私を見て何を勘違いしたのか「だいじょうぶ、変なことはしてないから」と弁解されたときはさすがに笑ったけれど。

「勉強というよりこうして文章を書いてることが好き、が正しいかも」
「僕は根っからの勉強嫌いの活字嫌いだったから、夏木さんの気持ちがわからないよ」
「インテリに見えるのに?」
「それが、アウトドア派だったんだなぁ」
「見えません」
「でしょ」

 よく言われてた、と斎野さんは楽しそうに笑った。
 彼との会話は過去形で進む。死んでしまったのだから今のように自分を語ることが出来ないのだ、と彼はなんでもないことにように言った。その感覚がわからない私は、寂しくないのだろうか、とよくわかりもしないくせに思った。無責任だ。他人事ならば人はいくらでも言える。親身になったつもりで、けれど心の中では自分でなくて良かったなんて安心している卑怯者だ。
 だから彼には極力何でも聞くと決めていた。今、何を思っているのか。何を感じているのか。

「夏木さんは良い子だね」

 そんな私に、彼はきまってそう言う。

 そんなことを言ってくれたのは、彼が初めてだった。「良い子」なんて年齢でもないというのに。
 思えば、昔からこの率直な性格はいくつかの関係を破綻させる原因になったし、自分をよく知っている人たちにも「もっと他人の気持ちを考えなさい」と口を揃えて注意されていた。そんな失敗や後悔を積み重ねていくうちに考えをすぐに口に出さないほうが身のためだ気付いて以降、人間関係が楽になったのは確かだ。
 言葉にしたい自分の気持ちをだますこと、誤魔化すこと。
 けれど、時々思う。自分が導き出した答えは、本当に正しい答えなのだろうか。

「そろそろ寝ますね」

 いやなことを考えると、どうしてこんなに疲れてしまうのだろう。肉体ではなく、精神が疲れるのだ。私はシャープペンシルを机に投げ出してノートを閉じた。電気を消してベッドに潜り込む。気がつけば夏を過ぎようとしていて、夜風が心地よく部屋のカーテンを揺らす。斎野さんは夜空を眺めるのが好きらしいから、窓は開け放すことにしていた。

「おやすみ」と穏やかな声が届く。

 私は少しの間のまどろみから、やがて深い眠りに沈んだ。
 


 悩んでいるときに髪をくしゃくしゃにするのも、彼の癖の一つだった。
 秋の暮れ、海の向こうに日が沈もうとしていた。夜になれば急激に気温が下がり、この頃は窓を開けていることが少し辛く、うなじをなでる風に肌が粟立つ。それでも日の出ているうちは斎野さんのために窓を開けるようにしていた。
 ひらひらとカーテンが揺れるその向こう、ベランダに立って景色を眺めていた彼は、突然髪をくしゃくしゃにして小さく唸ると、「夏木さん」と私の名前を呼んだ。

「ひとつ思い出したことがあります」
「それは、よかったじゃないですか」

 私は読んでいた文庫本をぱたりと閉じて、彼へと顔を向けた。斎野さんは神妙な顔で私の前に座ると、でもあまりいいことではないかもしれない、と息をついた。

 彼は生前のことをあまり覚えていない。
 それはまるで小説にあるようなベタな展開のようだけれど、正確にはどうしてこのアパート――私の部屋にいるのか、わからないだけであって、例えば好きなものや何気ない思い出などはちゃんと記憶しているらしい。生前の感覚とでもいえばいいのか、彼の言葉や仕草で何が好きで何が嫌いなのかおのずとわかってくるわけだ。ただ、大切な記憶だけ靄がかかったように断片的で、曖昧なのだ。
 けれど、思い出したのなら言うに越したことはない。私は渋る彼を促すように、その目を見据えた。やがて観念したように彼が口を開く。

「僕はどうやらこの部屋で死んだらしい」

 そのまま、絶望したように肩を落として机に顔を突っ伏した。
 正直、この時どう声をかければいいのか私は考えあぐねて無表情になっていたのだと思う。「それは、」と言葉を紡ごうとして、けれどやめた。やはりなんと声をかければ最良なのかわからない。どうして死んでしまったのかと問うのも、それは辛かったですねと慰めるのも、どれも違う。私はそんな安っぽい言葉をかけるだけの勇気を持っていない。
 いや、これは勇気とは違う。もっと浅はかなものだ。

 彼がこの部屋で死んだ可能性を考えたことがないと言えば嘘になる。彼と出逢って最初に頭を過ぎったことだったはずだ。死んだ人間が死んだ場所にいるのは当たり前で、しかし彼の存在と同じくしてその記憶も曖昧なのだから真相を聞くことはできない。
 だから直接聞けないかわりに、別の場所で死んで魂だけが縁の深いこの部屋に戻った、幽体でふらふらとしているうちにこの部屋に辿り着いた、と無理やり憶測を重ねていった。可能性の糸は何十にも絡まっているのだから、一つの可能性に固着するのは危険だ。そうして、私はそのことを意図的に考えることをやめてしまったのだ。
 だからすうと謎が解けた時のようなカタルシスを、彼から真実を告げられた瞬間、私は感じてしまった。

 やがて頭を起こした斎野さんも、私のこの反応を最初から見抜いていたのか、

「やっぱり驚かないんだね」

 と小さく笑った。

「なんとなく、もしかしたら、って考えたことはありました」
「素直なのはいいことです」
「ひとつ、聞いてもいい?」

 どうぞ、といつものように首をそっと傾ける。

「どんな日だったの?」

 それは、考えなしに出た言葉だった。思いつきもしないような、逆にどうしてそんなことを聞くの? と問われてしまうような、馬鹿馬鹿しい問いだった。けれど知りたかったのかもしれない。この同じ部屋で、彼が最期に見た景色を。
 斎野さんは開け放した窓へと目を向けた。いつの間にか日が暮れ、残像のように残る橙と紫の混じった水平線を後ろから迫る群青が飲み込もうとしている。秋の長夜。

「こんな秋の日だったかもしれない。でも、真っ暗だったから深夜だったんだろうね。覚えているのは、真冬とは異質な冷たい空気と、星空。あの時はペガススの大四辺形を見た気がするから、晴れてたんだと思う」

 綺麗な夜だった、と彼は懐かしむように目を細めた。
 自分の死は、こんな風に穏やかに語れるものなのだろうか。幽霊になると生きていた頃とは違う感じ方をするものなのだろうか。そもそも、彼は完全に「死んだ」のだろうか。思えば、彼とこうして普通に接すること自体、違和があるのかもしれない。けれど、彼は世間やメディアが作った幽霊のイメージとはあまりにもかけ離れている。スピリチュアル関連の本を数冊読んだことがあるが、どの理論も私が知る彼と一致しないのだ。
 ねぇ、どうしてそんなに穏やかに笑えるの。

「たぶん、苦しくなかったんだろうね」

 彼は言う。
 それが全ての答えのように思えた。



 空を見るようになったのは彼の影響だ。ふと気付けば空を見上げている。それが癖になってきている。今までなんとも思っていなかった日常の一部が特別なものになる。不思議な気持ちだった。自分のしらない自分を見つけたようで、なぜだか嬉しくなる。

 空だけではない。例えば、幽霊坂の道端に咲いた小さな花。例えば、垣根の上で日向ぼっこをしている猫。例えば、季節の移ろいと共に変化する海の色。それらを感じること。呼吸すること。きっと都会に残っていたら知りえなかったはずの、心の静けさ。穏やかさ。小さな変化に気付いたときに感じる喜び。登りきった坂から見える光輝く海を見つけたとき、私はその景色にとらわれた。「あたりまえ」が「特別」へと変わる瞬間。
 斎木さんは夜空の小さな光を指し示す。

「あれがオリオン座、その斜めがおおいぬ座でそこから少し左がこいぬ座。それぞれのα星、ベテルギウスとプロキオンとシリウスを繋いで冬の大三角形になる」
「斎木さんは空のことになると本当になんでも知ってるんですね」
「星は好きだよ。こうして眺めているだけで落ち着くんだ」

 星を見よう、と誘ったのは彼だった。
 冬の空はどの季節よりも冴え冴えと美しい。月のない夜は群青よりも深い色をしている。街の明かりも少ないので星がよく見えた。遠くで海のざわめきが微かに耳に届くだけで、とても静かな夜だった。息を吸い込むと痛いほどの冷たい空気が肺を満たし、吐き出せば白い靄となって闇に消えていく。かじかんだ手を温めるためにポケットに腕を突っ込み、首を亀のよう縮こませた。

「恋人同士ならこういうとき、彼氏が彼女の手を取って温めるものなのかな」
「想像できないかも」
「夏木さんは好きな人はいないの?」
「私は……」

 口を噤む。そのまま空を見上げてみる。寒いな、と考えた。そうしていやなことから逃げようとしている自分に気付いて唇を噛みしめる。「怖いんです」と乾いた声で呟く。

「誰かに好きだって言われるのも、誰かを好きだって言うのも怖い。もしかしたら失望されるかもしれないし、私のせいで誰かが傷つくのは嫌だから……」
「それが君の本心なの?」

 はっと頭を鈍器で殴られたような感覚だった。視線を横に動かせば、斎野さんは手すりに持たれて夜空を眺めている。その姿は本当は生きているんじゃないかと錯覚するほどありありとしていて、その呼吸や温度が伝わってこないことが不思議でならなかった。触れることが出来れば良いのに、と思った。その体温を感じられたどんなに良いだろうか。
 この気持ちはきっと恋とは違う。もっと黒くて、深いもの。
 ――依存。

「私は、」

 息が苦しい。

「自分自身が傷つくことが怖いんだと思う」

 好意というものが恐ろしくてしかたないのだ。温かくて甘くて、けれど同時に鋭利な刃物のように冷たく心を傷つける。それでも焦がれるのは、どうしてだろう。

「僕も怖かったよ」

 彼が静かな声で囁く。その音色は私の乱れた心を落ち着かせてくれる。

「だから、逃げたんだ」

 夜空を彩る光の点はどうして人をこんなにも魅了することが出来るのだろう。星座の名前を知っていても、実際に夜空を見上げてみたとき、どれがどれなのか私には見分けがつかない。それでも惹きつけられる。美しいと思う。私の隣にいる彼は今、何を考えてるのだろう。耳を澄ませば心の奥の声を聞くことが出来るだろうか。

 寒い、と思った。そして美しい。
 その夜、私は始めて流れ星を見た。
 闇色の空を横切った光はどこへ向かうのだろう。考えようとして、やめた。




 もうすぐ消えるよ、と彼は言った。

「どこへ?」
「さぁ、どこだろう」

 桜の花は散り、私は大学最後の年を迎えた。
 就職活動や卒業論文で忙しい時期だというのにぼんやりすることが増え、そのことに感づいた学友から何度か心配げに声をかけられた。今朝方もアパートの管理人に会い、少し話したが、どれも自分を心配する言葉だったような気がする。「香具山さん、悩み事があるんならなんでも聞くから」とこの地方独特の訛りで困ったように眉尻を下げる管理人に感謝を述べ、そして気付く。
 思えば管理人はずっと私の――いや私の部屋のことを気にかけていたのではないか。
 初めから知っていたのだ。あの部屋で過去に何が起こったかを、その結末を。

「僕はもうここにいてはいけないんだ」
「どうして」

 いつものようにベッドに凭れ掛かって本を読んでいた。日に日に暖かくなってきているので、窓も近頃は開け放していることが多い。斎野さんはお決まりの窓辺で黄昏ながら、唐突もなく話し始めた。

 お互いが無駄なことをあまり話さない性格のせいか、こうして話す機会は案外少ない。いつも外を眺めながら考え事をしてるらしい彼を邪魔したくはなかったし、彼も私の勉学に気を使っていたのだろう。一番近くにいる存在なのに、私たちは互いに知らないことのほうが多い。近くにいるだけで心地良い存在なら、あえて詮索する必要もないだろう。そう考えていた。

「君は近頃、疲れることが多くなったでしょ?」

 思い当たることがないわけではない。怪訝な顔をした私に、彼は申し訳なさそうに笑う。

「それは、僕のせいなんだと思う」
「よくわからない」
「きっと、これは君にはわからなくていいことだよ」

 そんなことを言われて、私はどう答えれば良いというのだろうか。彼は私の性格を知った上で突き放そうとしている。お互いを傷つけない最良の方法で、わだかまりの残らない言葉を選んで。それは弱虫なりの言葉ゆえに、同じ弱虫である私は何も言い返すことができない。言い返すことが、大きなリスクに繋がるのだと、心のどこかで知っているのだ。

 それでいい、と彼は笑う。

「夏木さんは僕のことを忘れるべきなんだ。……いや、時々思い出して懐かしむくらいのそんな存在でいい」
「そんなことが出来るの?」
「君は良い子だから、きっと出来るよ」

 今すぐにじゃなくてもいい、君のペースで思い出にしていけばいい。
 その姿が一瞬霞んでいく。けれどすぐに元の彼に戻る。そうして人は忘れていくのだろうか、と考えた。陰のない彼、温度のない彼、呼吸をしない彼。耳に心地良い声と、癖のある髪、少し垂れ目ぎみの黒い目。ワイシャツから覗く白い腕と、骨ばった細い指。――私は一度もそれに触れたことがない。
 年を重ね、経験を重ね、新しい人と出逢い別れ、そうして過ぎていく時間に中でふと彼を思い出した時、果たして私は彼の残像を思い出すことが出来るだろうか。今でもこんなに不安定な存在だというのに。なにも残さずに消えてく存在だというのに。
「夏木さん」と彼が私の名前を呼ぶ。

「ひとつだけ、お願いしてもいいかな?」

 細い人差し指で示された先は、備え付けのクローゼット。

「あのクローゼットの天井に、一箇所だけ取り外しができる場所があるんだ……生前僕が開けたものなんだけど、その裏にひとつ忘れ物をしまったらしい」

 僕が消えた時、それを見つけてくれないだろうか、と彼は言った。私はうなずく。見つけた後どうすればいいかと尋ねると、好きなようにしていいよ、と小さく微笑む。少し気になってためしに何であるか聞いてみれば、「僕の大切なものだよ」とはぐらかされたけれど、その言葉が聞けるだけで十分だ。大切なものを託されること、それが私を安心させる。ああ、そうか、私は失うことが不安だったのだ。

「君ならきっと見つけられるよ」
「斎野さん」
「ん?」
「良い場所だと良いですね」
「天体観測ができる場所だと最高なんだけどね」

 視線を交わし笑う。この一瞬を噛みしめる。
 彼の好きな夜を一緒に迎えられるのは、あと何度だろうか。


 斎野さんが消えたのは、なんでもない日常の中だった。何かの記念日というわけでもなく、ありふれた一日のこと。あまりにも呆気ない。しかし、彼らしいと思う。
 開け放した窓から入り込む風がひらひらとカーテンを揺らす。いつもは窓辺にいるはずの彼がそこにいないことに気付いて、「ああ行ってしまったんだ」とすぐに思い当たった。この日のために心を備えていたけれど、それでもちくりと痛む。小さな喪失感が姿を現す。

 いってしまったんだ。そう、何度も自分に言い聞かせた。

 そして彼の言葉通りクローゼットを開けた。
 喪失を覚悟しながら、ずっとこの日を待っていたのかもしれない。彼の言った取り外しのできる場所は上手く偽装されていたが、簡単に見つけることができた。それをカタカタと動かすと、横にずれて正方形の暗い穴がぽっかりと開く。動かしたときに舞い上がった埃が鼻をくすぐり、小さくくしゃみをする。明かりで照らさないまま手を突っ込むと、箱のようなものに指先が触れた。少し背伸びをして箱を掴み、暗い穴から取り出した。
 埃を巻き込んで出てきたのは箱であることには違いないが、立派な物ではなく、適当に見繕ったのだろう靴箱だった。

 私はクローゼットから出ると、布巾で蓋に積もった埃や汚れを取り除いた。少し揺らすと、中でカラカラと何かが転がる音がした。少し重たい。二箇所ガムテープで閉じられていた。そのまま剥がして箱を損なうのはいやだったので、はさみで丁寧に開封することにした。
 蓋に手を添えて、少し思考する。きっとこの気持ちは、プレゼントを開けるときの子供のそれと似ているかもしれない。一度深呼吸して目を閉じる。指先が震えるのを感じた。落ち着け、と臆病な自分に言い聞かせる。
 そして、蓋を開けた。

「これは……」

 カバーのない旧式の一眼レフカメラと、茶封筒が入っていた。
 私はまずカメラを手に取った。彼が使っていたものなのだろうか。所々小さな傷があるが、旧式のものにしては新品と変わらない。大事にしていたのだな、と伺うことができた。両手にかかるこの重みを感じながら彼は写真を撮っていたのだろうか。考える。このカメラで何を撮っていたのだろうか。カメラの電源ボタンを押してみたが、バッテリーが切れていることに気付いて肩を落とす。

 気を取り直して茶封筒を手に取った。書類を入れるサイズの文房具で売ってあるようなごく普通の茶封筒だ。その封を開け、中身を取りだす。中には数枚の写真が入っていた。
 花を撮ったもの、建物を撮ったもの、海を撮ったもの、夕焼けを撮ったもの――その中に見覚えのある景色がたくさんあるので、この街を撮ったのだとわかる。最後の数枚は彼の好きだった夜空を撮ったものだった。図鑑でみるような天体写真。どれも美しく、肉眼で捉えることの出来る星とはまったく違って見える。

 きっと彼はここに写る星の名前を全て知ってるに違いない。
 私は机に頬を寄せ、しばらくそれらの写真を眺めていた。

 これが、彼の忘れ物。彼の大切だったもの。今更ながら、聞きたいことがたくさんある。
 彼の放った言葉たちの意味を、彼が熱心に見上げていた空のことを、「逃げた」その本当の理由を。けれどそれを聞くことは叶わない。それで良いのかも知れない。知ってしまえば、きっとこんなにも想えないだろう。謎は多いほうが良い。彼と交わした言葉の数々は嘘ではない、その事実だけで十分のような気がした。

 ふと、一つの写真の裏に何か書かれていることに気付く。
 繊細で綺麗な字。けれど神経質ではない、彼らしい穏やかな字面だ。
 声に出して、その短い文を読み上げる。

「二十二の、僕の終末へ」

 そこで初めて彼が自分と同じ年だったということを知った。
 二十二歳で自ら幕を閉じた彼の人生と、きっとこれから先続くだろう自分の人生。
 老いることを恐れたのか、変わることを恐れたのか。それとも終わりを迎えることで手に入れることが出来る「永遠」を望んだのか。世間から見れば早すぎる死、自ら絶った命。彼の生き方が正しかったかどうかなど誰も知り得ることは出来ないだろう。

 それでも美しいと思う。
 少なくとも私の知る彼はずっと美しいままだ。

 


 ハロー、終末を迎えた君へ。
 そちらでの生活はいかがでしょうか。
 私はなんでもない悩みを抱えながら、時折あなたを思い出しながら、「明日」へ歩いています。
 そうしてふと夜空を見上げた時、思うのです。
 あなたもどこかで同じように夜空を見上げてるんじゃないかって。
 世界は案外美しいのかもしれません。
 私はもう少し、ここで生きていこうと思います。