色のない町
 時がゆっくりと過ぎるのを感じながら、なだらかに流れる雲に身を任せる。たゆたう思考はいつかの日を思い出させた。愛した人の笑う姿は瞼の奥で未だ鮮明に、けれどもう戻ってこないと知れば、時折思いは涙へと変わってしまう。それは雨となり、雲間から落ち、大地を潤し、川となり、やがて大海へと吸い込まれていく。当たり前のように、世の一部となる。いいや、世界こそが僕の一部だ。
 けれど彼らは無慈悲にも僕から大切なものを奪った。
 だから、一度だけ、大切なものを奪ってやった。
 赦すことに疲れてしまった。どれだけ赦しても彼らは懲りることを知らないようで、また悪事を重ねる。だから懲らしめてやろうと思った。けれど、彼女は喜ばなかった。拗ねた子供をあやすように、優しく僕に語りかけた。
 でも、どうしてだろう、その言葉だけ思い出すことが出来ないんだ――。

 
 それは不思議な町だった。
 鈍色の空の下、公園のベンチに座って足をぶらぶらさせながら辺りをぼんやりと観察していた。なんてことない小さな広場なのに、インクの染みのような不確かな違和を感じる。どこにでもある景色を切り取ったような一日。けれど、このアンティークの古びたベンチも、遠くに見える止まった時計塔も、葉をつけた木々も、どこか違う。それが何であるかを考えようとしても頭はぼうと空回りするばかり。大事なことを忘れてしまったように、残るのは確かな違和感と胸の痛みだけ。
 どうして誰もいないのだろう。
 どうしてこんなにも寂しいのだろう。
 かすかに痛む胸を抱えるようにうずくまろうとして、膝の上に置かれた木箱に気付く。
 大事に抱えられたそれは、けれどどうしてそこにあるのか思い出すことが出来ない。
 一人首を傾げる。なぜ、今まで気付かなかったのだろうか。
 両手に収まる小さな箱をくるくると掌の上で転がす。箱には花の細工をほどこされた美しい留め金に、小さな南京錠がされていた。大事なものを仕舞うための秘密の鍵はどこにあるのだろう。そっと箱を耳に寄せてみる。軽く振ってみたけれど、少し重いわりにはカラリともコロリともいわないので、なんだ空の箱なのか、と少し残念な気持ちになった。
「みつけたよ」
 どこからともなく聞こえた声に、驚いて視線を上げる。
 僕と同じ十を少し過ぎた少女が、数歩先でにこにことこちらを見つめていた。手を後ろで組み小首を傾げる姿は、どこか楽しげだ。彼女は小さくスキップを踏みながら僕へと近付く。赤い靴でスキップを踏むたび、白いワンピースの裾がひらりと揺れる。キャラメル色の前髪の下の大きな双眸は、空色だ。
 そして、はたと思う。そうだ、空の色は青色なのだ、と。
 気づかなかったことが不思議なほど、この町に感じていた違和はすぐ傍にあった。
 この町には「色」がないのだ。
 全て灰色がかって、モノクロ写真のように冷たく、僕の身体も服も全て個性のない無彩色が支配していた。その中で目の前の少女はいっそう色鮮やかだった。彼女を見るまで僕は空の青も、鮮やかな赤も、すっかり忘れてしまっていた。
「君はだれなの?」
「わたしはヴィヴィ。あなたは?」
 僕は誰なのだろう?
 少し考えて、首を振った。
「わからないんだ」
 彼女は二度瞬きをして、不思議ね、と呟いた。そうだ、不思議だ。尋ねられて初めて、僕は自分が誰であるかわからないことに違和感を覚えた。名前も、思い出も、帰る場所さえ、どれだけ記憶を引き出しても一つとして思い当たるものがない。それを今になって恐ろしいと感じた。自分自身が得体の知らない生き物のようで……。
「大丈夫よ」
 ヴィヴィは小さく微笑んで、きっと思い出せるわ、と言った。見知らぬ女の子に励まされることは少し恥ずかしく、けれど心が安心するのを感じた。強張った肩がゆっくりとほぐされていく。詰まった息を吐き出すように、瞳を閉じて深呼吸する。目を開けると彼女と目が合った。微笑み返すと、ヴィヴィは花開くつぼみのようにぱっと笑った。
「ねぇ、その箱の中にはなにが入っているの?」
 小さな箱は、その存在を忘れてしまいそうなほどぽつんと手の中に静かに納まっていた。不思議そうにする彼女によく見えるように、僕は箱を持ち上げた。目線の先にある箱をじっと青い瞳で見つめ、そして気付いたように、鍵がかかっているのね、と僕へと視線を動かした。
 僕は箱を膝に上に乗せて、「鍵がないから開けることができないんだ」と言った。すると彼女はきょとんとしたように、
「なら探せばいいわ」
と当たり前のように小さく靴を鳴らして腰に手をあてる。大人びいた仕草はどこか愛らしい。
「でも、どこを探すの?」
「もちろん、あなたが隠した場所よ」
 その言葉に、今度は僕が首を傾げた。どうして彼女は僕が隠したのだと確信したように言うのだろうか。思い出せないことがたくさんあるのに、僕よりも彼女は僕のことを知っているのではないか、と錯覚してしまいそうになるくらいヴィヴィの言葉には迷いがない。魔法のように、僕の心を動かす。
「だって、それはあなたの箱なのでしょう?」
 そうかもしれない。
 この箱は確かに僕が持っていたのだから。
 箱を抱き寄せて目を閉じる。何も聞こえない、何も感じない。ただ僕の鼓動が小さく脈を打っている。
「きっと、思い出せるわ」
 魔法の言葉だ。見上げれば、少女は小さな白い手を僕へと差し伸べていた。行きましょう、と柔らかな声。僕は無意識にその手を握り返していた。立ち上がると同時に、温かな感覚がした。
「あら、あなたの瞳は美しい翡翠色なのね」
 色を取り戻した僕に、彼女は嬉しそうに笑いかけた。
 僕らは町へと踊るように駆け抜けた。


 少女の赤い靴が石畳を軽やかに響かせる。ヴィヴィは踊るように歩いた。それは小さなバレリーナのように、時折僕の手を放しては、くすくすと笑いながらつま先で二歩三歩、くるくると回って軽く会釈。そうして再び僕の手を握る。灰色の町の中、彼女はとても楽しそうだった。そんな彼女を見ていると僕も楽しくなった。
 誰もいない町。それはまるで二人だけの秘密の時間。裏路地を通り過ぎながら、真上で揺れる洗濯物たちに色があったら、と考える。きっと素敵な景色になったかもしれない。では、この町の色はどこへ行ってしまったのだろうか。
 どこともなく歩みを進めると、町の終わりに出た。
 その先には灰色の寂れた野原が広がっていて、いくつもの瓦礫が小山のように積み重なって点々としていた。押しつぶされたレンガ、冷たい瓦、壊れたガラス、元々は建物だったらしい。この野原は元々町の一部だったのだ。
 崩れずに残った壁の一つを見上げて考える。
「……どうしてこの町には色がないんだろう」
「それは、神様が色を隠したからよ」
 ヴィヴィは僕の手を引いて歩き出した。その表情は見えないけれど、彼女が悲しんでいるように感じる。何がそんなに彼女を悲しませるのだろう。僕の頭の中は疑問ばかりで、何一つ答えを見つけ出せない。左手に抱えた不思議の箱のように、僕も自分自身の秘密をかわらずにいる。
 少女は歌うように物語る。
 少し前のこと、世界は戦争をしていた。第二次世界大戦と呼ばれるそれは、多くの人を殺し町を破壊し憎しみを植えつけ、やがて終戦を迎えると悲しみだけが残った。神様は嘆いた。大事を汚し殺しあう人間たちを、祈ることを忘れてしまった人間たちを。いつか自分も忘れられてしまうのではないか、と神様は深い悲しみに沈んだ。
 何よりも、神様は恋人が戦争で死んでしまったことに心を病んだ。腕の中で息を引き取った美しい娘は微かな笑みを浮かべていたけれど、はたして彼女は幸せだったのだろうか。ああ、彼女が大好きだった歌はどんなフレーズで始まるのだったか。
 孤独の中で神様は考える。
 そうだ、彼らを懲らしめてやろう。
 大事なものを奪われたのだから、彼らの大事なものを奪ってやろう。
 神様は世界のありとあらゆる「色」を奪った。
 色は喜びと怒り、悲しみと楽しみを司る。感情は人にとって大切なものだから、と。
 それでも神様の心は癒えない。灰色の町を見下ろしていると、悲愴は一層深くなるばかり。その理由を創造主たる神様でも見つけ出すことが出来ない。やがて神様は、全てを、投げ出した。そうして、世界は時を止めた。
「神様は自分勝手だわ」
 ヴィヴィは拗ねたように言う。僕はひどく悲しくなった。
「でも、神様は大切な恋人をなくしたんだよ?」
「だからって、恋人の気持ちを無視するなんてひどいわ」
 彼女は赤い靴を強く鳴らして地団駄を踏んだ。勝手よ、と呟いてうつむく。握り締める手に力がこもる。そっと顔を覗けば、彼女は小さく頬を膨らませていた。それは小さな子供が泣くのを我慢する様子に似ていて、僕は困ったように静かにため息をついた。女の子はくるくると変化する万華鏡のようだ。繊細でうつくしく、あらゆる可能性を秘めた不思議な存在。
「ねぇ、ヴィヴィ、元気出してよ」
 何を言っても、彼女はだんまりを決め込んだらしい。
 僕は困り果てて、助けを求めるようにあたりを見回す。小さな広場の真ん中に僕らは立っていた。四方に別れた路地の片隅に一軒の花屋を見つけた。僕はヴィヴィに待ってるように伝えると、花屋へと駆け出した。小さな花屋の軒先には、様々な種類の花が咲いている。もちろん一つとして色がなかった。無色の花々はやはりどこか悲しげだ。
 はたして、ヴィヴィは喜んでくれるのだろうか。ごめんください、と声をかけても店内には誰もいないようで、返事がなかった。僕は、一輪くらいなら大丈夫だろう、と少し後ろめたい気持ちを抱えながら彼女に似合う花を探すことにした。色がなくとも花には様々形や色がある。
 思えば、こうして誰かのために何かをするのは初めてなのかもしれない。あのベンチに独り、鬱々と空を見上げていたことが嘘みたいだ。
 そうだ、僕はずっと悲しかったのだ。
 孤独であることが?
 目の端に、ないはずの色が瞬く。
 視線を巡らせば、灰色の花々に埋もれるようにして、淡いピンク色のガーベラが咲いていた。それは控えめでいて、けれど目を放せないほど鮮やかに心を捉える。僕は手を伸ばしその花弁にそっと指先を触れた。柔らかな花弁は繊細な芸術品のように美しい。一輪のガーベラを箱と共に大事に抱えて、彼女の笑顔が見れることを願いながら、元来た道を風のように駆け抜けた。
「ヴィヴィ見てごらん」
 彼女の元に辿り着くやいなや、僕は花を差し出した。ゆっくりと顔を上げる彼女の反応を、高鳴る鼓動を抑えるようにして見守る。
 ヴィヴィは微かに目を丸くして、「ガーベラ」と囁いた。
「きれい」
「君のために探してきたんだよ」
 彼女は壊れ物に触れるようにそっと花を手に取った。繊細な指先で花弁に触れて、小さく微笑む。僕は彼女の手に自分の手を重ねた。
「ねぇ、ヴィヴィ、鍵なんてもう探さなくていい。僕はずっと君と二人でこの町にいたいんだ。ヴィヴィが僕を見つけてくれたんだ。だから、ずっとここにいようよ」
 目を覗きこむと、微かに青い双眸が揺れた。
 やっぱり思い出せないのね、とヴィヴィは悲しそうな音色で呟いた。ああ、僕はまた彼女を悲しませたのか。「また」という言葉が頭に引っかかる。なぜ、そんなことを考えてしまったのだろう。思い出せない。けれど心がとても痛い。見知らぬ哀切が心に広がっていくのを感じる。僕は彼女の手を引き寄せ、額へと導いた。
 ねぇ、君は何を知っているの?
 それは音楽だった。
 どこからか蓄音機が奏でる、少しノイズの混じった艶やかな音楽。ゆっくりと心を落ち着かせる、僕にそっと語りかける。懐かしいと感じるのは、いつか聴いたことのある音色だからか。いつのまにかヴィヴィも目を閉じて静かに耳を傾けていた。暫く、二人で音楽に身を任せた。
 音楽が終わると、彼女は小さく息をついた。
「お墓参りにいきましょう」
 わたしの大事な場所へ、この花を添えに。
 小さな手が力強く僕を導く。


 名前の刻まれていない新しい石は、主が死んで間もないことを暗示する。そこは小高い丘だった。灰色の大きな木の陰に彼女の言うお墓はあった。
 ヴィヴィは膝を曲げて座ると、石の上にガーベラを添えた。慈しむように、懐かしむように、彼女の表情はとても穏やかなものだった。灰色の世界も、淡い色の花を添えれば鮮やかなものへと少しだけ変貌する。僕は彼女の後ろに立って木を見上げていた。静かに佇む木は、本当ならどんな色をしているのだろうか。青々とした葉を伸ばすのだろうか、それとも春の季節には花を咲かせるのだろうか。どんな色の花を咲かせるのだろうか。
「そこには誰が眠っているの?」
「わたしたちの大切な人よ」
「僕たちの?」
 ええ、とヴィヴィはうなずく。その声音は確かなもので、やはり彼女は大切な何かを知っているのだと、僕はぼんやり考えた。あやふやな記憶、曖昧な感情、小さな違和感。無彩色の町。少年と少女。小さな箱――鍵の在り処。
「まだ思い出せないの?」
 彼女が振り返る。
 花が微かに揺れる。
 思い出せ、そこに眠る者の存在を。
「あなたは何がそんなに悲しいの?」
「ぼく、は……」
 立ち上がる。手を伸ばされる。逃れようとしても身体が動かない。ここで逃げてはいけないのだと、声がする。けれど、これはいったい誰の声なのだろう。苦しい。積み重ねた無意識の嘘たちが鉛のように身体を動かなくする。これは嘘なのだ、と警告する。少女の額と僕の額とがこつんとぶつかり合う。
 目を覚ませ。
 少女は歌うように物語る。
 ここに眠る者はとても幸せだったのだ、と。
 彼女は戦争に巻き込まれて惜しくもその命を失ってしまった。けれど、愛おしい人に出逢えた半生はとても幸福なものだった。恋人の腕の中で最期を迎えた娘は、けれど残された恋人の深い悲しみに心を痛めた。神様とて、死した人を甦らせることはできない。死んだ彼女では愛おしい人を慰めることも出来ない。どれだけ声を出しても届かない。ああ、泣かないで、私は幸せだったのだから、あなたと過ごした日々は永遠なのだから。
 悲しみに暮れた恋人は、人々から大切を奪ってしまった。全てから目を逸らしてしまった。神様はときとして残酷だ。それが互いを傷つけることになるとも知らずに。
 彼女の瞳から零れた雫は小さな鍵へと変わる。彼女は鍵を恋人の元にそっと落とした。その鍵が愛おしい人が目覚めるための道しるべとなることを信じて、力を失った彼女はやがて独り眠りについた。
「ここは神様がたった一人愛した人が眠る場所」
 目を閉じていたヴィヴィが、ゆっくり空色の瞳を開く。
「あなたの愛した人が眠る場所」
 全て思い出した。過去も、現在も、未来も。
 ここは僕が作り出した世界だ。
 僕は彼らから大切なものを奪われたから、自分も彼らの大切なものを奪ってやった。彼女から贈られた思い出の小さな箱の中に、誰にも見つからないように隠して南京錠をかけた。けれど鍵のないそれは開くことがない。僕は鍵を作り忘れてしまったのだ。大丈夫、と声がする。
「わたしが鍵なのだから」
 ヴィヴィが箱に触れたとたん、彼女の細い指先が光の粒子となって散り始めた。それは七色の淡く暖かな光。ねぇ、ヴィヴィ、僕は君と少しの間一緒にいることが出来てとても嬉しかったんだ。君は迷子になってしまった僕を救い出してくれた。もうこの世にいない愛おしい恋人が願ったように、一つのの道しるべになったんだ。
 七色の光はやがて少女の身体を全て包みこむ。美しい瞳がそっと細められる。
 風船のように膨らんだ光は、ぱっと花弁のように散った。さようなら、と彼女が小さく笑った気がした。
 子供でいることはもうお終いにしよう。魔法を解くように、僕は本当の姿に戻る。青年の身体は確かに自分のものであるのに、少年でいた時間が長かったせいかなんだか自由がきかないみたいだ。ヴィヴィが今の僕を見たのなら、どんなふうに思うだろう。かつて愛したひとが言ったように「綺麗」だと微笑んでくれるだろうか。 「ありがとう、ヴィヴィ」
 小さな囁きは風に紛れてしまう。未だ色のない空を見上げて、ああ彩りの世界が懐かしい、と考える。
 失くさないようにと、大切なものを閉じ込めた箱とヴィヴィの鍵を大事に胸に抱いた。背中の大きな翼を大空へ広げ、僕は地面を蹴った。


 小さな鍵と、小さな箱。僕の大切な二つの宝物。
 けれど、そろそろ返さなければ。耳を澄ませば遠くで祈る声が聞こえる。こんな自分勝手で臆病な神様なのに、誰かが自分のために祈っている。灰色の町を見下ろす時計塔の上、僕はその端に座って思い出を振り返る。大丈夫、きっと形がなくとも、忘れることはないから。一人で生きていくことは悲しいけれど、決して「独り」ではないことを知ったから。毎日、恋人のお墓に花を添えよう。彼女の好きな淡いピンク色のガーベラを、そして色とりどりの物語を聞かせよう。彼女が悲しまないよう、僕が再び間違いを犯さぬように。
 懐かしい歌を口遊みながら、鍵を握り締める。ヴィヴィの鼓動が感じられるようだ。
 そっと鍵を差込み、箱が開く。
 懐かしい音楽を奏でる小さなオルゴールを聞きながら、僕は少し眠ることにした。新しい明日を迎えるために、もう怖がることはないから、きっと踏み出せるだろう。
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