月花蝶
 花から花へ、黄金の鱗粉を煌びやかに散らせながら、蝶が舞っている。

 白い腕を伸ばしてみても、蝶はひらりと手を逃れ、紅い花へと触れるだけの口付けを交わす。たくさんの蝶が、黒い揚羽蝶が舞っている。その中に立つ自分はいったい誰なのか、思い出せない。
 すうと、懐かしい香りが身体を包み込んだ。
 此処は夢か。繊細な浮世絵の中に迷い込んだように現実味のない世界。嗚呼、これはきっと夢に違いない。此処が何処なのか、なぜ此処にいるのか、不思議と疑問は生まれなかった。ただ、この場所を美しいと思った。色とりどりの花は天まで敷き詰められるように咲き乱れている。果ての見えない花の柱。百花繚乱の美しさに目を心を奪われてしまう。

 ――お花、お花。

 鈴の鳴るような美しい声音だった。
 声の主を探すために視線を巡らせば、無数の蝶が群がる場所があった。近付き、指先で触れようとしたとたん、ぱっと四方へと羽ばいた蝶の群れは高く天を目指す。その群れの中から現れたのは白い着物をきた妖艶な女だ。

 花びらと黄金の鱗粉が煌びやかに舞っている。白無垢の女の髪は艶やかな黒で、緩慢に開かれた瞳も美しい闇色だった。
 お花、と女が名を呼ぶ。忘れてしまったはずの己の名だ。
 懐かしい記憶と共鳴するように、花びらが弾けて舞い上がった。それは音のない嵐のように女の身体を包み込み、自分の視界を紅く染めていく。この色に見覚えはないか。声がする。記憶の底に残っていまいか。嗚呼、よく知っている、忘れることなどできるはずがなかろう。そう、この色は――。

 伸ばした手は、けれど届くことはない。




 どこからか梅の香りを乗せた風が、鳥篭のような町を吹きぬける暮れ六つ。
 夜見世に灯りが点り、着飾った女達と花を買いに来る男たちで吉原は賑わい始める。
 客を迎えるために顔に化粧を施し美しい着物に身を包んだ女達は、誰とも知れぬ男に甘言を放ち、好いてもいない男に抱かれ、そうして長い夜が過ぎていく。女郎が何を想って抱かれるのか、知る者などおらぬ。涙に掠れた声すら、宵闇が全て掻き消してしまうのだ。
 帰蝶は中見世橘屋の看板女郎である。
 端麗な顔立ちと、幼い頃からさまざまな芸を叩きこまれた所作は一品と謡われるほど。しかしそのことを誇示しない気の優しい彼女は不思議なことに他の女郎から恨まれることが少なく、時代が時代ならば「太夫」と呼ばれても差し支いない、と口々に言わせた。
 その花のような微笑みを見ることができたなら、と夢見る男も多い。所詮、女郎は女郎、位があったとてやることは一つだというのに。何故男達は女に夢を見たがるのか、帰蝶には理解できなかった。

 看板女郎ゆえに帰蝶はめったに張り見世へ上がらない。
 彼女を買う客はそれなりの財力を持つ者たちなので、あらかじめ差し紙を送り宴を催すことが多い。所謂遊女の予約である。そのため帰蝶は宴の刻となるまで自分の屋敷で待つのが常であった。今宵の客は新造時代からの馴染み客であり、見世開きより一刻ほど遅れてからやってくると知っていたので、ゆっくり身支度をすることができた。

 広い自室でじりじりと音をたてる蝋燭をそれとなく眺めていると、やがて襖越しに二階回しが声をかけてくる。帰蝶は、隣で与えてやった和紙で遊ぶ禿かむろの肩にとんと触れ、静かに立ち上がると回廊へ出た。板張りの回廊は冷たい。暦では初春であるが、未だ寒さは厳しい。帰蝶はそっと息をついて、馴染みの待つ屋敷へと歩を進めた。

 一言声をかけ、目的の座敷の襖を開ける。馴染みである大旦那と連れの男が何か話し込んでいるようだった。
 帰蝶は始めて会うはずの男に見覚えがあることに気づいて目を見開いた。まさか、と心の臓が苦しく脈を打つ。帰蝶の視線に気づいた男も、不思議そうに眉を寄せた。細められた目が、淡い座敷の光を映し出す。遠くの屋敷から聞こえてくる三味線の音色が耳鳴りのように響いている。

「帰蝶、待ってたよ」

 大旦那がにこりと笑いかけてきたので、帰蝶は取り繕うように頭を垂れる。

「旦那様、お久しゅうございます」

 簡単な挨拶を済ませ、銚子を手に取り、男の持つ猪口へと酒を注ぐ。酒を飲み干す大旦那に視線を向けたまま、男を見ることを躊躇った。確かめることが恐ろしかった。
 すると、ああ、と思い出したように隣の男が呟いた。

「あすこにいるのは清十郎といって、贔屓にしてもらっている大店の次男坊だ」

 やはり、そうなのか。告げられた名が記憶の奥から幼い思い出を浮かび上がらせる。
 帰蝶は戸惑いを悟られないように、「帰蝶と申します」と丁寧に首を傾けた。清十郎と呼ばれた若い男もただ静かに名乗っただけだった。気づかれていないのか、それとも隠しているのか。けれど、何も触れられなかったことに安心する己がいた。

 新造が三味線を弾く。歌声と共に踊り子が滑稽に舞い始め、宴は賑やかになる。清十郎とは言葉は交わさず、極力視線も交わさず。別れ際に小さく微笑みを送っただけ。やがて大旦那と床に入り、その愛撫に身を任せる。長い夜の帳、男の温かい胸に抱かれながら、けれど帰蝶は眠ることができなかった。
 いくつもの感情が複雑に絡み合う中で、夢うつつに遠い記憶が蘇る。


 吉原の遊女たちは貧しい家から売られてきた娘たちが多いが、武家の娘や大店の娘だった者も少なからずいる。帰蝶は元々、浅草で米屋を営む裕福な家庭に生まれた。吉原に来る以前、思えば随分贅沢な暮らしをしていたのだろう。食べ物に困ったことはなかったし、毎日綺麗な着物も着させてもらっていた。そう、大事にされていたのだ。

 帰蝶には十も歳の離れた姉が一人いた。
 姉の名をお蝶といい、帰蝶の源氏名の一文字が同じであるのはただの偶然か、それとも何かの因縁か。
 お蝶は町で有名な美しい娘で、帰蝶はそんな姉が自慢であり彼女の幸福を誰よりも願っていた。許婚との婚礼を控えた姉は輝いて見えた。
 ある日お蝶の部屋へ向かうと、そこには純白の美しい着物が飾られていた。姉のために摘んだ桔梗の花を握り締めたまま、帰蝶はその美しさに取りつかれたように立ち尽くしてしまった。青紫の花がつんと甘い香りを放つ。気配に気づいたのか、姉が振り返る。

「まあ、お花」

 蕾が綻ぶような笑顔だった。

 姉が手招きするので、帰蝶はゆっくりと傍に歩み寄った。桔梗の花を見て「綺麗ね」とお蝶は言う。こんな花に比べれば姉のほうが綺麗だ、と帰蝶は思いながらも「姉あね様に」と花を差し出した。お蝶は丁寧に花を受け取ると、床の間に置かれた花瓶に活ける。その手つきさえ繊細で、帰蝶は一瞬、姉が何処かへ消えてしまうのではないかと錯覚を起こし、けれど直ぐにかき消すように頭を振った。

「姉様、このお着物は婚礼の?」

 帰蝶は着物へ近づき、じっと白い着物を見つめる。見る角度によって蝶が浮かび上がることに気づいて、目を瞠る。着物に触れるために手を伸ばそうとしたけれど、即座に傍に座っていたお婆に甲を叩かれ、慌てて引っ込めた。

「そんな泥で汚れた手で触ってはいけません」
「……お婆のけち」

 聞こえないように呟いたつもりが、老婆の耳にはしっかり届いたらしい。鬼のような形相に、しっまた、と思ったが、直ぐに気を利かせたお蝶が帰蝶の手を取り「お庭に行きましょうか」と廊下へ出たので、怒られることはなかった。すくすくと肩を振るわせる姉を不審に思ったが、振り向いて舌を出したその仕草が可愛らしくて帰蝶も小さく笑った。

 庭へ向かうと姉は言ったが、向かったのは町外れの桔梗畑だった。お供をつけずに来てよかったのかと帰蝶は心配になったが、お蝶はそんなことは気にもとめていない様子だった。姉には意外と暢気なところがある。彼女は着物が汚れるのもかまわずしゃがみこみ、まだ蕾のままになっている一輪にそっと触れる。

「……綺麗ね」
「わたしは姉様のほうが綺麗だと思うな」

 すると姉は困ったように笑う。その笑顔は哀しげでもあった。何故お蝶がそんな表情をするのか、幼心に理解できずに少女は首を傾げた――。



 昔の思い出に沈んでいると、開け放した襖の向こうから女将が顔を出した。
 帰蝶、と名を呼ばれてやっとその存在に気づき、遠い思い出から引き戻される。ぼうとその顔を見上げていると、どうかしたのか、と尋ねられたので曖昧に微笑んで、なんでもない、と答えた。
 自分が禿だった頃よりも幾分皺の増えた顔は、どこか疲れているように感じられる。此処にきてからの十一年は、よくよく考えれば、人の姿を変えてしまうほどの長い年月だったらしい。そんなに月日が経っていたこともすっかり忘れていた。帰蝶の時間はさざなみのように静かに、けれど確実に過ぎていくのだ。

「女将さん、何かあったんですか?」
「あんたにお客さんだよ」

 その言い方がおかしくて、帰蝶は首を傾ける。昼見世を終えたばかりだというのにまた客だなんて。すると「あんたと話したいって人が来てる」と女将は付け加えるように言い直した。そこで漸く帰蝶は納得し、けれど話すためだけに自分に会いに来る人間などはたしていただろうかと、女将の顔をぼんやりと見つめながら不思議に思った。


 襖越しに噂好きの女郎たちの気配を感じながら、帰蝶は男と向き合っていた。
 まさか会いに来るなど、と帰蝶は心中驚いていたが外面は女郎らしく極めて冷静に取り繕う。部屋に入り込む西日に照らされた顔はあの夜の宴よりもいくらか血色が良い。目じりに細やかな皺があったが、それでも柔らかな表情は彼女の記憶にあるものと変わらない気がする。

「お花ちゃん」

 優しげな微笑みを浮かべ、懐かしい名を呼ばれる。
 帰蝶はどう声をかければ良いのかわからずに、清さん、とだけ呟いた。喉の奥やけに乾いていた。
 遠のきそうになる意識を繋ぎ止めたのは、襖の外で女将の怒鳴る声と、蜘蛛の子を散らすように逃げる女達の気配だ。小さな囁きと衣擦れの音が遠ざかると、長い沈黙が二人を包み込む。清十郎と視線を交わすことが怖くなって、叱られた子供のように指先を見つめていた。どうしてだろう、言葉が出てこない。

「まさか、お花ちゃんがここにいたなんて」

 嘲弄ではなく、後悔を含んだ声音。

「……清さんのせいなんかじゃありませんよ」

 そう、しかたのないことだったのだ。けれど帰蝶の言葉はこれっぽっちも説得の音色を含まない。では、何と言えばいいか。責めたてればいいのか、泣いて今までのことを後悔すればいいのか。しかし、それでは此処にいた己を否定することになってしまう。「どうしてあの時」と過去を振り替えたところで虚しいだけだということを、帰蝶はよく知っている。

 ならば悲しい記憶よりも、美しい記憶だけを心に残せばいい。難しいことだ。けれど、そうすることで「自己」を保ってきたのは本当だ。帰蝶が見つけた、ただ一つの、生きる術。

 清十郎は姉の許婚だった。幼心に見ても、互いを好いていることがわかった。周りの大人達からも、おしどり夫婦になるに違いない、と噂されたものだ。若い二人は生に溢れていた。時折、遊び相手になってくれた清十郎を帰蝶は大好きだった。
 けれど婚礼を前にして姉は死に、親も死に、生き残った帰蝶は橘屋に売られた。売られたというより、女将に助けられたと言ったほうがいいかもしれない。助けられたという言葉は遊女屋には不釣合いだが、もし女将がいなかったらもっと酷い仕打ちにあっていただろうと思えば、自分は幸せなのだろう。将来看板女郎を張る娘としても、そして女将の特別な思いがあったことを含めて、他の娘よりも大事にされた自覚はある。

「……お蝶は私を許さないだろうね」

 届いた言葉は、胸の奥に拭えぬ染みのように落ちていく。
 この男は囚われているのだ。愛した女の幻影。そして後悔。嗚呼、どうして出会ってしまったのだろう。出会わなければ思い出すこともなかった。しかし過去の風に吹かれ回り出した風車を、止めることはもうできない。




 その夜、姉の夢を見た。
 懐かしい夕暮れの座敷。その縁側で姉と肩を並べ、手玉をしたり歌を歌っていたことを覚えている。わざと下手に歌いながらお蝶の笑いを誘い、調子はずれの手拍子をとる幼い妹。帰蝶はくすくすと笑う姉の姿が好きだった。

 甘ったるい花の香りが漂う。とうに忘れたと思っていた懐かしい場所で、お蝶は純白の着物に身を包み、庭に植えられた沈丁花をぼんやりと見つめていた。薄闇の中で白く浮き立つ小さな花を薄ら恐ろしく感じて、思わず着物の袖を握り締める。
 小さな手。帰蝶は紅い着物を着た小さな娘になっていた。

「姉様……?」

 幼い声で問う。女は顔を上げ、にこりと微笑んだ。

 嗚呼、姉様。
 ずっと会いたかった。

 帰蝶は着物が乱れるのもかまわずに走り出し、姉を強く抱きしめた。姉様、姉様、と何度も呼ぶ少女の柔らかな髪をお蝶は優しげに撫でる。その手は温かい。帰蝶の目から溢れる涙も温かかった。
 こんなにも温かいということを、忘れていた。

「誰かに苛められたの」

 穏やかな声音だ。落ち着かせるように姉は何度も頭を撫でる。そして涙が止まる頃、屈み込んで帰蝶の濡れた頬を袖端で拭った。もう泣いてはだめ、とお蝶は昔のように優しく叱ってくれた。全てあの頃と同じ。姉の姿は変わらない。そう、姉は死んだあの時のまま、この場所に留まっている。

「姉様に逢いたかった」

 ずっと逢いたかった、忘れた事などなかった。いつの間にか幼い娘から女郎へと姿を変えた帰蝶は、同じ高さにある姉の黒い瞳を見つめた。強く握り締めた手に小さな鼓動が伝わってくるようだった。話したいことはたくさんあるはずなのに、いざ逢ってみれば何一つ言葉が浮かばない。どの言葉もこの美しい場所に似合わない気がするのだ。
 姉の瞳の奥に帰蝶の姿が映る。偽者の自分。では本当の自分は何処にいるのだろうか。

「わたし、――姉様はずっと見ていたの?」

 お蝶が小さく笑う。

「寂しかった?」

 帰蝶の手を引きながら、姉は歩き出す。
 襖の一つを開きその先にある闇に躊躇いもなく進んでいった。やがて一つ二つと花が咲き始める。色とりどりの花は甘い香りを放ち、どこからか迷い込んできた黒揚羽が蜜を吸う。何処へ行くのだろうか。今では掴まれた手が氷のように冷たい。お蝶は花の群れへと歩みを進める。一際高く群生した紅い花々へと近づいていく。その中へ踏み込む直前、姉が振り返りそっと微笑みかけた。
 ひときわ強く引かれた身体は、とたん、闇の世界へ沈み込んだ。

 上弦の月がかかる夜だった。鈴虫が鳴きやみ、代わりに女子供の泣き叫ぶ声と汚い男達の怒号と何かを切り裂く音が聞こえてきた。この感覚を知っている。帰蝶は言い知れぬ恐怖に震える。これから起こることを知っている。押し込められた狭い押入れの闇の中で少女は身体を抱き寄せ、微かな隙間から襖の向こうを覗き見る。
 お花、何があっても此処から出てはいけないよ、音をたててはいけないよ。この声は姉のものだ。いやだ、姉様いかないで。帰蝶は震える声で訴える。けれど、大丈夫、と微かにお蝶が笑った気配を感じて、溢れだしそうになる涙を必死で堪えた。泣いてはいけないと思った。耳をふさぎたくなるような恐ろしい音が近づいて来ている。姉は怖くはないだろうか。やがて、いい子、とお蝶は呟いて立ち上がり帰蝶の傍を離れた。

 前触れもなく縁側に面した障子に大きな鬼の影が映る。
 それは一瞬だった。
 蹴破られた障子の音、刀が空を切る音、そして肉を絶つ音。微かな月明かりに紅い染料が舞う。どさりと何かが倒れる。それが姉の身体と知るのに、時はかからなかった。帰蝶は悲鳴を上げそうになるのを、辛うじて両の手で口元をふさぎ、息を止めることで堪えた。唇を強く噛む。全ての音が無になるまで何刻そうしていたのだろうか。濃厚な鉄の匂いと、隙間から流れ込んできたぬるりとした液体の感触。ただただ恐ろしくて、涙をながすことも忘れていた。

 長い長い夜が明ける。さあ出ておいで。大人達がじっと押入れの中で丸くなった少女に優しく声をかける。
 鬼じゃ、仮面を被った月夜の鬼じゃ。
 なかなか出ようとしない帰蝶に大人達は痺れを切らせ始める。その後ろで他の男達が何かを運び出そうとしていた。姉様、娘は叫び、慌ててその身体に飛びつく。朝露に濡れて冷たくなった身体に思わず、ひっ、と細い声が漏れた。手にぬらりとついた感触に、見れば紅い血が滴り落ちて、帰蝶の着物に紅い花を咲かせる。同時に、温かいものが頬を伝った。
 姉の着物から揚羽蝶が舞い上がる。ひらひらと黄金の鱗粉を撒き散らす。蝶たちはやがて群れとなり、その鱗粉は着物を白く染め、冷たくなった姉の身体を覆い隠した。

 そして全てが遠くなる――。



 はっと目が覚めた。
 一瞬何処にいるかわからず、帰蝶は霞んだ視界を必死で凝らす。薄暗い部屋が自分のものであることを思い出し、安堵のため息を吐き出した。僅かに開かれた雨戸から暁方の空が見える。冷たい空気を感じて布団の中へと潜り込み、目をきつく閉じた。

 恐ろしい夢を見た。過去の記憶がありありと目の前に転がっている。そう、姉が死んだのは自分のせいだ。罪は消えぬというのに、どうして忘れようとしていたのだろうか。お蝶はずっと見ていたというのに。噛み締めた唇から鉄の味がする。あの部屋に散った血のにおいと同じにおい。自分の血も、鮮やかな紅をしているのだろうか。

「……ごめんなさい」

 謝罪の言葉は、けれど姉を連れ戻すことはできない。姉は死んだ。鮮やかな花が散るように、美しく果てたのだ。その心に何を秘めていたのか、知ることはできない。
 布団の中で足を抱え込み小さくなる。頬を涙の雫が伝った。自分に涙を流す権利などあろうか。けれど、それを止めることができぬ。いっそうのこと、姉のいるあの花園に行けたらどんなに良いか。
 もう一度眠れば、お蝶に逢えるだろうか。きつく目を閉じた向こうには、底なしの闇が広がっていた。一度踏み入れれば抜け出すことはできない、暗黒の闇。




 清十郎が再び橘屋を訪れたのは、弥生に入って少し経った頃だった。
 お蝶の夢を始めて見てからというもの、帰蝶は眠るたびあの花園の夢を見るようになった。あの美しい場所に沈んでいたい、と思えば思うほど眠りに誘われるようで、以前よりも眠る刻が増えたような気がする。つい先ほど、見かねた女将に注意されたばかりだ。春の暢気な風にでも当たったんじゃないの。その様子を見ていた同期の女郎が、冗談っぽく言ったものの、その声には労わるような音色が含まれていた。

 清十郎は「土産に」と言って、饅頭を持って来た。見世の女郎達は喜んだ。饅頭の香りを漂わせながら二階にある部屋へ戻っていく化粧っ気のない女達を、清十郎は微笑ましく見送る。あたりが静かになると、帰蝶は頭を垂れ改めて礼を述べた。この見世の看板を背負っているのだから、最低限の礼儀を弁えなければ看板に傷がつく。しかし清十郎にとって帰蝶は幼い「お花」のままであるらしく、気にしないでくれ、と昔と変わらない笑顔で手を振った。

「……調子はどうだい?」

 質問が少しおかしくて、笑ってしまう。調子も何も、女郎のすることならばよくわかっているだろうに。考えた末に作った苦し紛れの話題だったのだろうが、この場所にはあまりにも不釣合いだ。清十郎もそのことがわかっていたらしく、すまない、と苦笑を浮かべた。
 その様子に帰蝶は小さく微笑み、部屋から見える庭へと視線を動かした。殺風景な庭、春の兆しはまだ遠い。

「姉様の、夢を見ました」

 不意に口から出たのはそんな言葉だった。
 清十郎ははっと顔を上げ、帰蝶を見つめる。帰蝶も視線を戻し男の瞳を見つめ返した。少し肌寒い風が吹き抜ける。彼は一体何を心に秘めているのだろうか、ぼんやりと考える。彼にとって、お蝶との記憶は単に外すことのできない重い枷ではないのだろうか。
 ゆっくりと清十郎が言葉を紡ぐ。

「……お蝶は元気にしていただろうか」
「笑っていました。あの頃と変わらないまま」

 おもむろに煙管を取り出し刻み煙草を詰める。吐き出した紫煙はゆっくりと二人の間を漂った。白く霞んだ向こうで、無表情の男が強く拳を握り締め座している。帰蝶はゆっくりと清十郎に近づき、その手に自分の手を重ねた。

「もう、忘れてしまいましょう」

 優しく声をかけた帰蝶を、驚いたように清十郎は見つめる。重ねた手が微かに震えていた。嗚呼、この男を解き放とう。罪を背負うのは自分ひとりでいい。いや、自分ひとりがいい。あの美しい場所は、姉は、自分だけのものだ。

 所詮女郎は口先だけの存在。
 甘い言葉も吐けば、恨み言も吐く。
 それはゆっくりと身体を廻る毒のように恐ろしくも、人が恋焦がれる永久の夢のように美しい。花街に本音などありはしない。あったとしても、それは心の中だけだ。帰蝶もそんな女郎の一人でしかない。ここで生きた歳月が血の中に染み込んでいるのだ。だから平然と嘘をつく。

「姉様はきっと、清さんを恨んでないなどいない。夢に見た姉様は幸せそうでした。だから清さんは後悔しなくてもいいんです、きっと幸せになってほしいと、姉様も願っているはずだから。わたしも、清さんが悲しい思いをするのは嫌ですよ」

 清三郎は帰蝶の手を強く握り返した。そこに温かい雫がぽたりと落ちる。俯いた顔は見えないが、泣いているのだろう。小刻みに揺れる肩を帰蝶は静かに見つめていた。男の涙を見たのは、これが最初で最後だ。

「……お花ちゃん」
「わたしはもうお花じゃあありませんよ、帰蝶っていう女郎なんだ」

 男の涙も乾いた頃、彼はゆっくりと頭を下げて最後の謝罪をした。その様子をぼんやりと見つめていた帰蝶は、清十郎の背後に映った景色に息を呑む。現実とは違う、色とりどりの花が咲き乱れている。それは夢の中でしか見ることのできない花園。舞い込んできた半透明の蝶が清十郎の肩に止まった時、帰蝶は小さく微笑みを零した。嗚呼、夢に飲み込まれていく。



 仲之町の桜のが満開を向かえていた。
 大見世大文字の名も知らぬ女郎が足抜けをしたと噂に聞き、そしてその足抜けの相手が清十郎であったことを知ったのは、小さな禿をつれて訪れた馴染みの茶屋で、店の主に一通の文を渡された時だった。文にはただ一文「ありがとう」と書かれていた。
 帰蝶は向かいで桜餅をほおばる少女をぼんやりと見つめながら、その言葉を反芻する。あれから清十郎と会うことはなかった。好いた女がいたなど、知りもしなかった。少し、裏切られたような気分だ。けれど恨む気持ちは微塵も湧かない。

 女郎と男はまだ見つかっていない。逃げ切って、幸せになってほしいとさえ願う。
 清十郎は過去を悔いることをやめ、明日へと進み出した。それで良いと思う。けれど、帰蝶には明日の自分など見えぬ。明日があるかさえわからぬ。ただ、終わりへと近づいていることだけは知っている。
 黒揚羽が舞っている。色とりどりの花が咲き乱れている。けれど、手を伸ばしてもそれらはするりと通り抜ける幻影でしかない。夢が見せる幻影は、日に日に広がり鮮明になっている。夢とうつつが交じり合う狭間に帰蝶は踏み入った。振り返れば、まだ戻ることこのできる境界だ。けれど帰蝶は夢へと進むのだろう。浮世に思い残すものも執着するものもない。何よりも、あの花園には姉が待っている。

「帰蝶姐さんは、あの場所へ行くの?」

 小さな禿が問う。ああ、この娘には見えているのか。

「ああ、あすこには待ち人がいるから」

 微笑む姉女郎を、禿はただ静かに見つめていた。何か言いたげに視線を彷徨わせ、やがて唇を噛み締め俯く。利口な子だ。この子なら自分がいなくとも上手くやっていける。教えるべきことは全て教えた。その将来を見れないことは少し惜しいが、きっと一人前の女郎となるだろう。ただ、一つだけ。いつの日か、女郎以外の道を歩ませることの出来なかった姉女郎を、赦してほしい。

「……ごめんね」

 俯いたままの禿の柔らかい髪をそっと撫でた。娘は小さく頭を振り、顔を拭う。

「姐さんが幸せならいいんだ」

 そう泣き笑いの表情を浮かべた禿を、帰蝶は強く抱きしめた。
 甘い香りのする小さな肩に顔を埋め、今だけ、と静かに涙を流した。小さな娘の言葉は帰蝶にとって救いの言葉だったのかもしれない。その身体を強く強く抱きしめる。禿はされるがままに姉女郎の涙が止まるのを待っていた。




 春の穏やかな風のように、時はゆっくり過ぎていった。
 いつものように宴の席に上がり、男に抱かれ、甘言を囁き、その胸の中で花園の夢を見る。そうして変わらぬ日々が過ぎていく。違うのは、目覚めるたびあの幻影が色濃くなり、段々近づいていることだけか。

 帰蝶の部屋一面に、絡みつくような花の香りが散る。
 着物に描かれた花や蝶、鳥達が浮かび上がり、花園の一部となる景色を眺めている間に、帰蝶は再び目を閉じる。音のない世界は、なんと孤独なのだろう。
 誰かに懐かしい名を呼ばれた気がして、瞳を開けた。窓辺に凭れ掛かり少し眠っていたようだ。外には春の月がぼんやり静かに佇んでいる。不思議と星の見えぬ夜だった。お花、と名を呼ばれる。その名を知る人間はもう一人しかいない。
 
 ――姉様。
 
 振り返ると、部屋の隅の一層暗いところに、白い着物を着た美しい女が立っていた。その周りを微かに光る黒揚羽が舞っていた。夜の蝶は仏の使いと謂われる。その後ろには百花繚乱の景色がある。花の香りが、帰蝶の鼻腔を霞めた。あの夕暮れの日に咲いていた、桔梗の香り。
 
帰蝶はゆっくりと立ち上がった。それと一緒に着物に咲いた桔梗の花が浮かび上がる。腕を伸ばせば、姉の冷たい指先が帰蝶の指を絡め取る。とたん、身体が軽くなった気がした。やっと迎えに来てくれたのか。姉の指先が、帰蝶の頬へと滑るように触れる。やっと解き放ってくれるのか。姉の指先が、蝶々の口付けのように帰蝶の紅い唇に触れる。やっと恋焦がれたあの場所へと行けるのか。交わした口付けは深く甘く、絡めた舌は熱く愛おしい。

 そうして、眠りつくようにゆっくりと瞳を閉じ、永久の夢へ落ちるのだ――。