月夜の宴
 弓道場に秋の香りをはらんだそよ風が吹き込む。
 その風の吹く方向を目を閉じ感覚で定める。跪坐の姿勢で矢を番え、立ち上がった。立ち位置を定めて弦を親指にかけ、正面で構えてから、その先にある白と黒の的に視点を合わせた。丁寧に打起こしから引分けの動作を行いながら、精神を鎮めていく。弓を引きおさめ、会、一瞬風が止むその合間を見極めて矢を放った。
 カーンと弦音が響き、その余韻も感じさせぬうちにパンと弓が当たる音がした。
 二射目も同じように精神を研ぎ澄ませ、矢を放つ。残心に訪れる洗練とした空気が五月には心地良かった。
「野々宮、もう帰るのか?」
 弓を片付けていると、同級生が話しかけてきた。
「ああ、左京さんから使いを頼まれているから」
 手を動かしながら答えると、ほう、と頭上で感嘆の声が上がる。
「お前が下宿している『猫星堂ねこぼしどう』の主だったか」
「……そうだ。家賃をいれないかわりに店を手伝うことが約束だから、おざなりにはできない」
 学生服の黒の上着を羽織り、肩に弓と弓矢を入れた袋をかける。蜻蛉の柄が入った紺色の生地を使って妹が作ってくれたものだ。
 道場に向かって一礼をし、挨拶の声をかける。重なって返された労いの声を背中に受け、五月は弓道場を後にした。
 都帝国大の弓道場から南へと歩いていくと、鴨川に出る。秋の光を受けてきらきらと水面が黄金色に揺れていた。京で秋を迎えるのはこれが始めてだが、故郷の寿の街は似ているようで違う景色だ。赤とんぼが目の前をすうっと横切り、真上へと急上昇する。その姿を横目に、五月は鴨川沿いを進み三条橋を渡る。
 真っ直ぐな路を突き進み、しばらくして路地を曲がる。二人が並んで通れる通れるほどのその小路は、寺町通のすぐ近くにあって、不思議と閑静な空気に包まれていた。軒を並べるのは古本屋や骨董屋などである。そのひとつに、五月が世話になっている骨董屋「猫星堂びょうせいどう」がぽつりと建っていた。けれど、この店の名前を正しく覚えている客は少ない。大抵は「ねこぼしどう」と呼ばれてしまい、主の左京も訂正をしないものだからすっかりその名前がまかり通っている。
 京都の町屋らしく総二階の造りは縦に長く、いわゆる鰻の寝床のようである。一階の入り口には硝子戸が嵌められていて、外から店の中が見えるようになっている。入り口の真横にはモダンな色硝子細工の洋灯篭が飾られ、一階に突き出た小屋根には、鍾馗しょうきさんと呼ばれる厄除けの神の瓦人形が通りに睨みを利かせている。
 五月は慣れた足取りで硝子戸を開け、中に入った。月日の重みを感じられるような懐かしい匂いが体を包み込む。静かな店内には様々な骨董品が丁寧に並べられていた。呆れるほどに生活能力のない左京は、けれど店のことに関しては細やかな仕事をするのだから不思議だ。
 視線を巡らし帳場に誰もいないことを確かめてから、五月はその隣にある階段の傍にたって黒く切りとられた二階の空間へと声をかけた。
「左京さん、ただいま戻りました」
 すると、爪で床を打つような軽い足音が近付いてきた。
 二階の暗がりから出てきたのは店の飼い猫の万葉である。子猫の頃、万葉集の上を陣取って寝ているところを左京が見つけたことから名づけられたのだと聞いている。黒と茶と白のまだら模様の三毛猫のお嬢さんだ。
「ただいま、万葉」
 手を伸ばし小さな頭に触れる。軽くなでてやれば、体を丸め気持ち良さそうに目を細めた。
「おう、帰ってきたか」
 頭上の声に顔を上げると、二階から覗きこむ顔があった。肩にかかる長さの黒髪を後ろで一つに結び、白シャツに鼠色のズボンを履いた気取らない格好だ。今日は一日、店にいたらしい。
「二階で何をしているんですか?」
「まあ、ちょっと捜し物だ。待ってろ、すぐ降りるから」
 折り曲げた体躯を伸ばし、また闇の中へと消えてしまう。かさかさという音を聞きながら、少し高くなっている帳場の横に座り、膝に乗ってきた万葉の顎のあたりを撫でながら言われたとおり待つことにする。
 しばらくして、左京は少し埃っぽい匂いを携えて降りてきた。その手に何かの包みが抱えている。帳場の文机に置かれたそれは、立派な木箱だった。ひょろりと背の高い左京を見上げれば、
「さる高貴なお方からの急な頼まれものだ」
 とどこか悪戯っぽく口端を吊り上げる。五月は黙って頷いた。
 五月は細いながらも精悍な顔立ちをした寡黙な青年だ。口数が少ない彼にとって、左京のように話題に尽きない人といることが新鮮であり、不思議と心地良い。
 向野左京は故郷の兄と帝大時代の同期生だったという。そこから続く縁で、五月は居候として迎えてもらっている。この猫星堂は左京の祖父が細々と営んできた店だという。厳しい人だったようで、この店を受け継ぐことを了承してもらうまで大変だったのだ、と左京が話してくれたことがある。なにぶん、少し変わった客層もやってくる店なのだ。
 ふと、万葉の耳がぴくりと動いた。立ち上がり、入り口をじっと見入る。
「お、来たか」
 左京さんがそう呟いたとたん、清涼とした鈴の音が外から聞こえてきた。
 近付くにつれ頭の中で響く音色は段々と大きくなり、そして、ぴたりと止む。滑らかに開いた硝子戸の向こうから、影が一つ現れた。
「御免ください」
 紋付の着物に袴を履いた狐だった。
 顔を黄金の毛並みが覆っていて、三角の耳がある。目を細め、濡れた鼻先がひくりと動いた。その長く切り裂かれたような口から犬歯を覗かせ、
「小薄様のお使いで参りました」
 と穏やかな京都言葉で告げた。
「お待ちしておりました。どうぞお上がりください」
 左京はそんな不思議な容姿のお客に、にこやかに応対をする。
 そう、猫星堂でこれくらいのことで驚いていてはいけない。ここは京都。神様もあやかしも、人と同じように生活をする街なのだから。
 客間に通されたお使い狐にお茶を出し、五月は部屋の隅に正座をして控えた。
 左京が先ほど二階から持ってきた木箱を開け、しゃんと背筋を伸ばして座る狐へと差し出した。動物らしい手を器用に動かし、狐は中に収められていたものを取り出した。
 鞠のような形をした銀製の吊香炉だった。秋七草の透かし彫りの精密さに、思わず魅入ってしまうような一品だ。紫紺色の組紐を三つの吊るし穴に通し、吊るせるようになっている。三つの紐が合わさるところには小さな丸い透かし彫りの飾りがついていて、香炉の下から垂れるように、これも紫紺色の組紐が結ばれている。
「さすが猫星堂さん。見事な吊香炉や」
「気に入っていただけたようでよかったです。急だったものだから、驚きましたがね」
 苦笑を浮かべた左京に、すみませんでしたねぇ、と狐は髭を少し下げた。
「うちの新しい使い狐が、誤って小薄様の陶器の香炉を壊してしまいましてねぇ」
「それは災難でしたね」
「いいえ、小薄様はお優しい方ですし、咎めることはしないでしょう。ただ、その香炉は中秋の名月にあわせて使われるもの。きっと残念がるに違いありませんから、こうして、新たなものを準備しようと思い立ったのです」
 小薄様は使いの狐たちに慕われる賢君であるのだろうと、狐の軟らかな語り口から察することができた。
 ふと視線を感じて顔を上げれば、狐の薄く開かれた瞳が五月を見つめていた。
「先ほどから考えていたんやけど、君、誰かと似ているような気が……」
 ふーむと長い息を吐きながら狐は首を傾げた。
「ああ、それはきっと野々宮家の者だからですよ」
 左京もこちらを振り返りながら言う。
 四つの目にじっと見られるのはなんだか居心地が悪くて、思わず背筋を伸ばしてしまう。
「野々宮家……ああ、春一郎さんの弟さんか!」
 狐が思い出したようにぽんと手を打った。
「たしかに、みどりの眼がそっくりや」
「えと……」と五月は少し戸惑ったように呟いた。彼の瞳は緑に薄茶の混ざった不思議な色をしているのだ。
「春一郎は帝大生の頃、京都のあやかし達の中で少し有名だったのさ」
 助け舟を出すように、左京は言った。
 兄は京都にいた頃の話を弟妹に話すことは稀だったが、野々宮家は代々不思議なものと関わりの深い家柄だ。相談事を請け負うこともしている。世話焼きの兄のことだから、きっとこの街でもいろんな精霊やあやかしとの出会いがあったのだろう。
「あんじょうやりなさい」
 狐は細い目をさらに細めて笑った。
 そして吊香炉をしまった木箱を抱えると、鈴がまた鳴った。
「では、また会いましょう」と言葉が頭の中で響き、見れば、狐が今まで座っていた場所にはもう誰もいなかった。これを、狐に化けられる、というのだろうか。遠くで狐の鳴く声が聞こえた。
「これはまた、術の大盤振る舞いをしてくれたな」
 左京は立ち上がると、狐の座っていた場所からなにやら摘み上げた。
 五月へと差し出されたそれは、緑の瑞々しい葛の葉だった。
「そういえば左京さん、俺に使いを頼みたいと言ってましたよね」
 お茶の椀を片付けながら訪ねると、そうだったな、と左京は呟いた。
 狐の吊香炉は急な依頼だったと言っていたから、恐らく五月が朝に学校へ行ってから忙しくしていたのだろう。五月の言葉でようやく思い出した様子だった。
 少し待ってろ、と左京は店へと向かい、間もなく戻ってきた。風呂敷に包まれた両手で抱えられるほどの包みを持っている。問いかけるように見つめると、
「茶道具箱だ。これを南禅寺の近くにある、香久月という旧家に届けてきてほしい」
 と左京は一つ折にした紙を手渡しながら告げた。
 紙を受け取り、開くと、住所と簡易な地図が書かれていた。
 制服から黒の着物と縞の袴姿に着替え、風呂敷と出かけに左京から渡された弓の入った袋を抱え、丸太町の停留場へと向かった。
 弓は猫星堂からの祝いの品だと左京は言った。そして出かけていく五月の背中に向かって、「くれぐれも道中に気をつけるように」と意味深長な助言をした。どうやらこれから伺う香久月家は何かしらの曰くがあるようであったが、そのことをあえて言わないところが、兄の友人というべきか。
 緑色のラインの入ったワンマンの市電に乗り、やがて蹴上線へと乗り換える。市電に揺られながら、随分と日暮れが早くなってきたな、と考える。山が近いこの辺りは、景色はすっかり秋の色へ変わっているようだった。空が茜色に塗られる時間が迫っていた。帰る頃にはもう夜なのだろうと考える。
 南禅寺近くの停留場で降り、地図を頼りに歩いていく。京都に来て六ヶ月経つ。猫星堂の店の手伝いで京都の町をあちこち歩くこともあるが、何せ大きな街なのだ。南禅寺に来たのも初夏の頃で、左京の仕事の帰りに寄った一度きりだ。曲がる道を間違えないように慎重に自分のいる場所を確かめながら歩を進めた。
 南禅寺の近くとは言っていたが、正確にはその外れにあるようだった。
 哲学の道に入り紅葉した桜並木の下を少し進んで行くと、道の先で小さな人影が疎水の流れを眺めているのが眼に留まった。
 思わず立ち止まる。
 少女だった。齢の頃は十四ほどだろうか。肩上で切り揃えられたおかっぱ頭に、モダンな柄の着物を着ている。数歩離れていてもわかる、まるで日本人形のような整った顔立ち。透き通った陶器のような肌のせいか、その姿は指の先まで作り物めいていた。
 その手には花かごが提げられており、印象的な色の花が顔を覗かせていた。
――桔梗だ。
 切り揃えられた前髪の下の丸い瞳が、五月へと向けられる。深い闇色をした眼だ。
「君は……」
 けれど、五月は少女の向こうの気配にさっと口を噤んだ。
 赤い炎が燃えている。それは禍々しい渦を上げでこちらへゆっくりと近付いてきた。不浄な空気が辺りを包み込み、五月は思わず手で鼻を覆った。
 あれは通り悪魔だ。邪気が形をとったようなもので、人の前に現れ、その心の隙をついて取り付き乱心させる。気を静めることでやり過ごすことができるが、見合ってしまうと厄介だ。左京の忠告が当たったということか。
 花かごが地面に落ちる音で、五月は少女が凍りついたように動かないことに気づいた。その双眸は炎をとらえている。炎の中から不適に笑う顔が見えた。五月は少女に駆け寄ると、後ろから素早くその目を塞いだ。
「見てはなりません。しばらく、眼をお閉じになっていてください」
 少女の耳元で呟き、手に持っていた風呂敷を傍に下ろした。少女の身体はこわばったが、すぐにゆっくりと頷いた。
 弓の袋の紐を解き、中から弓を取り出した。弦はもう張れている。両手で顔を覆う少女を隠すように、その前に立った。ゆっくりとした歩みで近付いてきていた通り悪魔は、一瞬怯んだように止まった。その隙を見逃さず、五月は弓を引く体勢に入る。気を右手の指先へと集中させる。
――お前、邪魔をしよるか。
 頭の中でしわがれた声が響き、通り悪魔がひゅうっと飛び掛ってきた。瞬時に焦点を合わせ、五月は弦を放した。高らかに弦を打つ音が響き、白い光の線が赤い炎の真ん中に穴を空けたとたん、ぎゃあっと悲鳴のような声を上げて通り悪魔が痛みに悶えた。
 五月は再び弓を構える。
「去れ。でなければ、次の射で消すこともできるが」
 炎の中の顔が憎憎しげに五月を見返したが、ゆらゆらと景色に溶け込んで消えてしまった。体に重く圧し掛かっていた邪気も消えてゆく。
 弓を下ろし、少女を振り返る。その体が目の前でぐらりと傾いた。慌てて細い肩を抱え込み、地面に頭を打たないように支えた。張り詰めていた糸が切れたように少女は気絶したのだ。どうすればいいのだろう、と考えていると、「茜さま」という声とともに何処からともなく一人の女性が現れた。
 紫苑色の無地の小袖を着た、屏風絵から抜け出たような古風な人だった。ひどく心配した表情で少女の額に手を触れ、五月を見上げた。
「……あなたは猫星堂の方ですね」
 五月はその言葉に目を見開いたが、女性が横に置かれた風呂敷を指差したので納得した。風呂敷には猫星堂の屋号紋が染め抜かれているのだ。
 女性は軽々と少女を抱え上げると、振り返って「どうぞ、おいでください」と言って歩き出した。

 使いの途中なのに、という考えはすぐに杞憂に終わった。
 女性が吸い込まれるように入った屋敷の門には「香久月」と書かれた札が置かれていた。旧家と言われるだけあって、立派な屋敷だった。長く続く白壁の塀と屋根つきの門、滑らかな石畳の小庭を横切って入った玄関は六畳ほどの広さで、その隅には秋の花が飾られていた。
 五月に待つように言い置いて、女性は少女を抱えたまま屋敷の奥へと消えた。そのすぐに後に、羽織に着流し姿の男が現れ、客間へと案内される。硝子で隔てられた廊下の向こうに青々とした竹林が広がっていた。背の高い竹が光をさえぎるのか、屋敷はほんの少し暗い。
 男は「夜光」と名乗った。着物から覗く手は目を瞠るほど白く、整った顔もまるで彫刻のように作り物めいていた。彼は茶箱の道具を一つ一つ検める。どれも一品と謳われるような道具で、それぞれに月や兎、秋の七草があしらわれている。季節柄、月見の宴のためのものだろうかと推察した。
 男は丁寧に茶道具を箱の中に仕舞うと、
「猫星堂さんに、どれも良い品をおおきにとお伝えください」
 畳みに軽く手を突いて、軽く頭を下げた。
 五月もそれに倣って頭を下げる。先ほどの出来事がまるで夢のような静けさが辺りを包み込んでいた。竹林の間から聞こえてくる鳥の囀りだけが、心地良く耳に届く。
「実はこれも、祝いの品として預かってきました」
 五月は隣においていた弓袋を手に取り、申し訳なさそうに眉を寄せた。
「……すみません。ここに来る前に使わせていただきました」
 すると夜光は、かまいません、と小さく笑って弓袋を受け取った。
「あの方は、そのことを知っていて貴方に渡したんでしょうから」
「あの方……」
「左京さんですよ」
 答えたのは別の声だった。
 視線を巡らせると、開かれた障子の向こうに先ほどの女性が正座をしていた。
「真白でございます。先ほどは助けいただきありがとうございました」
 軽く叩頭した彼女に、五月は問いかける。
「彼女は大丈夫ですか?」
「はい、瘴気に当てられて今は眠っておられますが」
 そう言ったものの、真白の顔は浮かない様子だ。
 ふと五月は思い当たって、顔を手で覆った。彼らあまりにも人間離れしている。五月はこのような感覚を幾度なく感じ、そして、その勘が外れたことはない。そう、この違和感は――。
 失礼を言うようで申し訳ないのですが、と前置きをして、目の前に座る二人を見比べた。
「あなた方はいった何者なのですか?」
 すると、彼らはちょっと目を見開いて互いに視線を送った。どこか困ったような様子で夜光が肩を竦めたのを合図にして、真白がそっと唇を動かした。
「これも何かのご縁でしょう」
 真白は背筋を伸ばし、姿勢を正した。
「五月どのは『竹取物語』をご存知でございますか?」
 その問いかけに、五月は黙って頷いた。
 竹取物語は平安時代に書かれた作者不明の物語だ。光り輝く竹の中から生まれた三寸ほどの子供を翁が見つけ、やがて成長してなよ竹のかぐや姫と言う美しい娘となった。五人の求婚者たちへの難題、帝との手紙のやり取り――やがて月から迎えが来て、かぐや姫は月へと帰っていく。元々は月の住人だった彼女は罪を犯したことで地球にきたというが、その罪は謎に包まれている。
「では、もしそれが事実起こったことで、この香久月家がかぐや姫の末裔だとしたら?」
「そうなのですか?」
 すると、夜光はそっとため息をついて言葉を引き継いだ。
「もちろん物語そのものが事実というわけではないですが……かぐや姫は実在しています。千年以上前、姫は人間の娘として月の国からこの京へ降り立ったのです。ある罪を犯したために」
 夜光の隣で、真白はそっと瞼を伏せる。その背後で、暮れはじめてもなお鮮やかな緑の竹が身をしならせている。風が少し出てきたのか、葉の擦れる音が部屋の中に流れ込んでくる。
「私たちはがくや姫のお供として遣わされた、守り兎でございます。物語の中では翁と媼になりますね」
 本性は兎であるが、人間界に暮らすのではその姿はあまりにも不便なので、人の姿形を真似ているのだと夜光は言った。一千年も前のことと言うならば、彼らはいったい何歳だろうと五月は考えるも、人ならざる者にその疑問は愚問に等しい。
「月の人々はこの世界を穢れた場所だといって忌み嫌っています。何故なのかわかりますか?」
 問いかけられ、五月は考えるように眉を寄せる。
 まったく見当はつかないが、竹取物語でも同じような台詞が出ていたように思う。かぐや姫を迎えに来た月の国の人々は口々にこの世界を「穢き所」と呼んでいた。夜光の言う通りなのだろう。ふと、視線を上げると守り兎たちはそっと目を細めて五月を見つめていた。
「物思う心は災いの元だといって、月の国の人々は恐れているのです」
「物思う心……感情?」
 五月の答えに頷いたのは真白だった。
「月の国の人々は感情というものがありません。感情あるところには諍いが耐えないと、ならばそれを持たなければよいと王が定めたのです……けれど、かぐや姫は感情をお持ちになりました」
「……それがかぐや姫の罪、ですか?」
「ええ、今ではお伽噺として伝わるくらいの、ずっと昔の話ですが」
 答えた夜光は、ふっと小さく笑った。
「不思議な人ですね。驚かれない」
 五月はまっすぐに二人を見つめて、
「まあ、見聞きしたものだけが全てではないので」
 二番目の兄の言葉だ。
 あちらの世界とこちらの世界の境界線に住まう彼は、幼い五月にそう語ったことがある。何よりも野々宮家の者であれば、不思議のものと関わることは抗うことのできない性だ。五月は幼い頃から不思議と獣のあやかしと縁があった。
「なるほど」
 くすっ、と夜光が笑う。そして、真白へと目配せをした。
 彼女はその意図を汲んだように、ゆっくりと頷き、改めて五月のみどりの瞳を覗き込んだ。真剣な眼差しは、覚悟をその内に宿しているようだった。
「五月どの、お願いがございます」
 二人が頭を垂れる。紡がれた言葉は空気を振るわせた。
「私たちの姫――茜さまをお守りいただけませぬか」

 広く縁取られた窓から日が差し込む、心地いい昼下がりだった。
 なだらかな階段状になった座席にはまばらに生徒が座し、講義に耳を傾けていた。五月はノートを広げ、とんとんと小刻みに開かれたページを鉛筆で叩いた。
 教授の声は天井の高い講義室の隅から隅まで届いたが、彼の耳には届いてない。頬杖をつき、考えることは昨日の会話だ。それが頭の中で反響する。
 香久月家は平安時代より京の地に居を構える旧い家柄である。貴族に加えられた名家であり、現在が何代目であるか訊ねたときは、その途方もない数に戸惑ったくらいだ。代々より女性が当主を勤め、不思議なことに先代が亡くなると三月みつきほどで竹より女児が産まれてくる。彼女たちこそがかぐや姫の末裔であり、妙齢になるまでは守り兎の加護を受けて大事に育てられるという。
――香久月家の当主はかぐや姫の心を受け継いで生まれてきます。
 それは月の国では「罪」とされる感情というものである。
 夜光が語ったことによると、かぐや姫は月の国からの迎えがきたとき、大切な感情を消されることを憂い、地上に残すことを選んだのだという。
 それは惜しくも月の国の矢によって二つに別れた。嬉しさや愛おしさ憂いの感情は女児に姿を変え、怒りや嫉妬心の感情は身を焦がす業火へと形を変え宿主を探し彷徨い続けることになったのだ。――その業火こそが、五月が祓ったあの通り悪魔の正体というわけだ。
 かぐや姫は、守り兎たちに己が感情を守るようにと願いを託した。以後、長い年月を夜光と真白は主の願いを守ってきたのだ。そして、新しい当主を迎えることになった。
 切り揃えられた艶やか黒髪と伏せられた長い睫の下に憂いを隠した美しい少女の姿が記憶から呼び起こされる。香久月茜という名の少女。
 香久月家の当主となる少女は、十五を迎える年に片割れの感情を迎える儀式を行う。業火のような感情を受け入れることで人間として認められるというのだ。その儀式が行われるのは十五夜の夜――。京に古より棲まう大妖たちを後見人として、月見の宴を開き、業火に燃える感情を浄化して受け入れる。
 その際、弓矢を持って当主を守り浄化を行う近衛役がいる。これは通例ならば守り兎の夜光が担う役目であるが、彼ら守り兎にとって予想外のことが起こってしまった。
 十五夜が近付くにつれ、通り悪魔の力は強まっていくのが常だという。
――しかし此度の通り悪魔は、茜さまが幼い頃より現れては悪戯に惑わせるのです。
 夜光は着物の袖をたくし上げ、右腕を見せた。手首の上から肘を越えた辺りまで包帯に巻かれ、その隙間から赤黒い痣が見て取れた。痛むのか、夜光の顔が少し歪んだ。
――これは私が受けたじゅです。
 屋敷をひとり抜け出た茜を守るため、通り悪魔より受けた穢れだ。
 これでは、浄化を行うことはおろか弓矢を持つことは難しい。偶然か必然か、左京はこのことを知った上で五月に使いを頼んだということか。五月は呆れるよりも関心の心持だった。
 校門を出ようとすると、そこにあまり似つかわしくない人影を見つけて立ち止まった。
 通り過ぎる学生たちから注がれる視線に、居心地悪そうに視線を伏せるセーラー服の少女。茜だった。
 彼女はふっと視線を上げた。五月と目が合うと、頭を下げて挨拶をする。どうやら自分に会いにきたようだと推察して、五月は少女に声をかけた。
「こんにちは、茜さん。具合はいかがですか?」
 茜はびくりと肩を震わせて、慌てて頭を縦に何度も振った。
 その唇も震えていて、金魚のようにぱくぱくと動いている。緊張しているのか、言葉にならないらしい。
「守り兎は一緒ではないのですか?」
 訊ねると、唇を強く噛みしめ眉を寄せる。
 沈黙が続き、五月は首を傾げた。「あの……」とか細い声が聞こえたのはその時だ。
「真白が迎えに来る前に、あなたと話がしたくて……その」
 茜は眼を泳がせながら、言葉を捜しているようだった。
「……昨日は助けていただき、ありがとうございました」
 今にも消え入りそうな声音で呟いた茜に、五月は笑みを浮かべて「どういたしまして」と返した。
「ここではなんですから、少し歩きましょうか」
 守り兎たちがいないと、それだけで通り悪魔が現れやすくなる。それにここは人の目が多い。よからぬ噂が立つ前に、移動したほうが良かろう。邪推する輩がいないとは限らない。
 茜は素直に五月の後について歩いた。落ち着いて話が出来る静かな場所はあるだろうかと考え、その末に鴨川の土手を歩くことにした。
 穏やかな風の吹き、セーラー服のスカーフを揺らめかせる。茜は立ち止まり、しばらく流れる川の景色を眺めてから、五月へと視線を移した。黒目がちの大きな瞳の中で柔らかな光が揺らめいている。
「夜光と真白が無理なお願いをしたそうですね」
 先ほどとは打って変わって、落ち着いた声音で少女は話し始めた。
「全てはわたしのせいなのです。わたしが迷ったりしてしまったせいで、夜光に怪我を負わせてしまいました」
 茜は顔を伏せて、重ね合わせた手をぎゅっと握り締めた。
 五月は静かに問いかける。
「貴女は何を迷っているのですか?」
「わたしは……自分というものがわからないのです」
 その声が苦しげに震えていた。
 この少女は利発だ。だからこそ、己が宿命を疑問に感じている。それほど香久月家の月日が長かったということなのだろう。
「夜光と真白は、かぐや姫の感情が形をとったものが、わたしであると言います。お聞きになりましたか?」
「ええ」
 五月が頷くのを見て、茜は力なく笑った。
「そして、通り悪魔がわたしの感情の半身であると。業火に焼かれるような激しい感情の渦を受け入れることで当主として認められ、人間になれる」
 まるで傀儡のようだ、と少女は苦しげに眉を寄せた。
 とたん、五月は違和感を覚えた。このような表情をさせるもの、迷いや後悔――そういった感情は通り悪魔にあるものだと聞いている。少女たちは幸せな感情のみで幼少期を過ごし、やがて二つ目の感情を受け入れる十五夜を迎える。夜光が語るには、そうなのだ。
「……では、わたしのこの感情は誰のものなのでしょうか」
 五月はただ黙って彼女の言葉に耳を傾けた。
 茜は答えを探し出そうとしている。恐らく、これは守り兎に話すことに出来ない思いなのだろう。
「五月さん」
 少女は抑揚のない音色で呼びかける。
「わたしは知りたいのです。わたしが誰であるかを」
「……それで俺に力を貸して欲しいと、そういうことですか?」
 はい、と頷き少女は五月を見つめた。その瞳には迷いはない、けれど、微かに揺れている。怖いという感情は早々、消し去ることのできないものだ。
「ですが、成功するかわかりませんよ」
 それでもかまわないのか、と視線で問いかける。
 しばらくの沈黙が二人を包み込んだ。視界の隅で、鴨川の真ん中に立っていた白鷺が羽を広げ飛び立った。羽音に混じって飛び散った水滴が太陽の光を受けてきらきらと輝いた。
「それでも、わたしは知らねばならないのです」
 拳を強く握り締め、少女は五月を見上げた。
 それが、彼女が出した答えだというのならば――五月は弓を取らねばならないのだろう。
 
 十五夜を迎える頃には、辺りはすっか秋の香りをさせるようになっていた。
 五月から事の顛末を聞いた左京は、驚きはしたものの「お前なら大丈夫だろう」とまったく根拠のない理由で納得した。そして、力添えを頼んだから、とだけ告げた。
 山間は橙色に染まり、背後からは夜の群青色が迫っていた。月が姿を見せ始めるにはまだ、少しの猶予がある。今宵の十五夜は見事な満月である。
 香久月家では月見の茶会を開き、後見人に薄茶を振舞うのが数百年前からの慣わしとなっている。その最後に感情を迎えるための儀式を行う。茶室はこちらとあちらの世界の狭間にあるという。どのように、その狭間へと向かうのだろうかという疑問は、左京があらかじめ準備をしていたためすぐに払拭された。
 猫星堂の奥の一室には、床の間があり、そこには普段とは違う屏風絵が飾れていた。
 薄が広がる広い野原があり、手前には竜胆の花が鮮やかに描かれていた。
「秋野という作品だ。これがあちらとこちらを繋いでくれるだろう」
 左京はひとり満足げに頷いた。
 そして前触れもなく、五月の背中を押した。
 落ちるような、それでいて吸い込まれるような感覚があった。開かれた眼には眩いほどの黄金色が多い尽くした。ここは絵の中だ。
「心配するな。向こうで案内人をお願いしている」
 気をつけて行くがいい、という声は恐ろしい速さで遠のいていった。
 気がつけば、薄の広がる野原に立っていた。山の向こうで、日が沈もうとしていた。その残光が薄に当たり、秋の風が吹くことで、黄金の海原のような景色を作り出していた。息を飲むほどに美しい場所だった。
 隣で笑う声が聞こえた。
「無事に辿り着けたか。さすがは野々宮家の者や」
 視線を巡らせると、白髪の細い髪を撫で付けた好々爺が立っていた。五月より頭ひとつ分背が低いが、その姿にはどこか畏怖めいたものを感じた。着物と羽織りは芥子色で、袴は利休色と落ち着いた着こなしだ。翁は細い目をさらに細めて笑ってみせた。
「さあ、参ろうか」
 翁が足を踏み出すと、野を縫うような小路が現れた。その脇には青紫の竜胆が咲いている。
 五月は翁の後について歩を進めながら、問いかけた。
「あの、貴方は?」
「おお、そうか。わしと会うんは初めてやったなあ。この前は吊香炉はええ品やったで」
 振り返らずに歩く翁はどこか楽しげだった。
 ふと、五月は思い至った。
「……小薄さま?」
 すると翁は振り返り、にいっと笑ってみせた。
「わしも香久月家の茶会に呼ばれてたもんやで、左京君におまえさんを案内してくれないかとお願いされたわけや。面白そうだから引き受けたが……」
 小薄は片目を開け、五月を頭のてっぺんからつま先まで視線を巡らし、やがてひとり頷いた。
「うん。良さそうやな」
 ひとり納得されて、五月はますますわからない。
 いつの間にか、太陽はすっかり沈んであたりは群青の空にすっかり覆われていた。山際の赤い色を残すだけで、あと少しすればもう夜だ。振り返れば、山の狭間に月が上り始めていた。少し黄色を含んだ白い月は水鏡のように輝いていた。雲ひとつない空は澄み渡り、月に出来た窪みまでしっかりと見ることができた。
 夜風に薄が揺れて、波のような音色を作り出す。
 足元は竜胆の中の小さな光のおかげで不思議と明るい。五月は黙々と小薄の後を足早に歩いた。
 しばらく歩いて、小薄は足を止めた。
「着いたで」
 そう言って振り返り、その先にあるものを指し示した。
 野原の真ん中に、その茶室はぽつりと建っていた。茅葺の屋根に白い土壁、縁側があり障子が閉められてはいるものの、行灯の明かりがゆらゆらと部屋を照らし出していた。そこには人ならざる者の影があった。三つ足で羽を羽ばたかせる者と、もうひとつの長い体躯は蛇か――にしても随分と大きい。
 目を瞠る五月を横目に、ほっほっと小薄は笑った。
「あれが宵待庵や」
「……あの方々はお知り合いなのですか?」
「八咫烏に白蛇といえば、最上級の神使えやな」
 笑みを絶やさない翁を見つめる。その笑顔はどこか狐のそれに似ていた。
「なるほど、貴方は稲荷の御使いでしたか」
「勘がいいのは良いことや。さあ、行こうか。あんじょうやりなさい」
 頭を抱える五月は気にも止めず、小薄は躙口にじりぐちを潜り中へと入った。
 続いて庵の中に入ると、そこには美しい着物に身を包んだ妙齢の女性と恰幅のよい中年の男性が座っていた。小薄はそれぞれと挨拶を交わしているのを横目に、五月は化かされている心地だった。京はあやかしものが多い土地柄ではあると知っていたが、ここまで来ればもうどうしたものかわからなくなる。
「五月どの」
 背中越しに声をかけられ振り返ると、真白が襖の間から顔を除かせていた。
「どうぞ、こちらへ」と手招きされて部屋を出ると、もう一間、六畳ほどの部屋があった。真白は何も言わず、五月の身支度を整えた。彼女は思いつめたような表情をしていたが、訊ねるのは憚られるような気がした。これから、五月と茜が行うことを思えばこそだ。
 平安時代の武官の装束に着替え、冠を被り、おいかけという飾りをつける。後ろ付けられた間塞(まふさぎ)には矢が七本付けられているが、本物は一つだけで残りは飾りだ。重ね着をしているため、動くには少し難儀な装束だった。五月は一つ深呼吸して、茶の湯が行われる隣の部屋に控えた。
 障子戸が開かれ、夜風が入ってきた。
 空を見上げれば、点々と光る星の間を縫って、冴え冴えと輝く丸い月があった。
――それは、前触れもなく現れた。
 薄の野を掻き分けるように、赤黒い炎が近付いてくる。
 眼を閉じて時を待っていた五月は、ゆっくりと瞳を開けてまだ先にある炎をとらえた。どのように執り行えればいいのか、既に聞いている。
 ?を手に巻き、弓を取り静かに立ち上がる。くわのくつを履き、庭へと降り立った。茶室の前へと歩を進め、奥に座していた茜に一瞬視線を送った。華やかな薄紫色の振袖に身を包んだ少女は、緊張した面持ちで頷いた。
 庭に進み出てて、立ち止まる。矢を取り出し執弓の姿勢をとる。矢は大鏑という射れば音の鳴るものを使う。この音が魔を祓うのだ。
 通り悪魔は既に、目前まで来ようとしていた。
 矢番えをし、一拍置いて足踏みをする。この弓を射るまでの動作、張り詰めたような空気が好きだった。静かに弓を打起し、ゆっくりと丁寧に引き絞る。炎を纏った魔の者は、射的内に入っていた。目を凝らせば、それは少女の姿をしていた。茜と瓜二つのその顔には、恐れに似た感情が垣間見れた。
 射れば、それを祓い、茜の元へと還るのだろう。けれど、彼女はそれを望まなかった。だから――。
 五月は弓を下ろして振り返った。
 茜の傍に控えていた夜光と真白が悲鳴じみた声で五月の名を呼んだ。
「本当にこれでいいのですか?」
 訊ねる。
 茜はそっと笑みを零し、深く頷いた。
 それが合図だった、五月はゆっくりと弓を引き絞り、そして、矢を放った。風を切る低い音が、虚空の空に響いた。

 猫星堂にその客が訪れたのは、昼下がりの日曜日だった。
 深緑色のワンピースの裾をなびかせて、やって来た少女は、
「ごめんください」
 と、遠慮がちに声をかけてきた。
 店番をしていた五月は読みかけの本から顔を上げて、入り口へと眼を向けた。その人影が誰であるかわかると、めったに見せない笑みを浮かべて見せた。
「こんにちは、茜さん」
 すると彼女もはにかんで小首をかしげて見せた。
「こんにちは、五月さん。お忙しそう?」
「いや、見ての通り、この時間帯は一番暇なんだ」
 そう言って手招きすると、彼女は帳場のすぐ横に座った。どこかすっきりした面持ちの少女は、どこも変わったところがなくて少し胸を撫で下ろす。
「守り兎たちの様子はどうだい?」
「まだ戸惑っているみたい。……でも、わたしが選んだことだから」
 軽く頭振ると、さらさらと髪が舞う。
 十五夜の夜から幾日が過ぎ、秋はすっかり深まってきた。
 あの夜の出来事はまるで夢のように記憶に残っている。
 茜が願ったのは己の中にあるもう一つの「感情」を還すことだった。彼女の中にはきちんと自分自身の感情が芽生えていたのだ。それは、消し去ることのできない、彼女にとっては大切な物だった。傀儡ではないのだと、少女は証明したかったのだ。
 通り悪魔を射ることでもう一つの感情を取り込めるのであれば、その逆をすれば、己の中にあるかぐや姫が残した感情を取り除くことができるのではないか。この利発な少女はそう思い、そして五月を使ってそれを成功させて見せた。
 それだけではなく、小薄の法力を借りて二つの感情を月へと還らせたのだから恐ろしい。五月はあの時の感覚を思い出し、苦笑を浮かべた。人間を弓矢で射るのはこの出来事だけで十分だ。
――かぐや姫には申し訳ないけれど、彼女の感情は他の誰でもなく、彼女自身がもっていなければいけないから。
 あの時、月を見上げながら呟いた少女は、どこか淋しそうでもあった。
 長い間、呪いともとれるものを抱えてきた香久月家は晴れて普通の人間として生きることとなった。それでも時折、茶会を開いて大妖たちを招いていると聞くので、彼女はあちらの世界に気に入られているのだろう。
「わたし、これからがとても楽しみなんです。だって、自分の心に従って歩けるのだから」
「茜さんは何かしたいことがあるのですか?」
 茜は、そうね、と呟き、悪戯っぽく笑った。
「まずは五月さんとランデヴーがしていたいわ」
 ぽかんと口を開けた五月を、少女はくすくすと笑いながら見上げる。
 やがて、五月は小さく唸るように答えた。
「……考えておきます」
 五月は短く切った髪をくしゃりと、照れくさそうに撫でる。耳がわずかに赤くなっている。
「なになに、二人で内緒話かい?」
 店の奥から顔を覗かせた左京が、にやにやとこちらに視線を寄こした。まったくお節介なひとだなと五月は呆れ、咳払いをして真顔に戻った。けれど、その様子に目の前の少女はまた小さく笑う。
「そうです。五月さんとわたしだけの内緒ですの」
 その表情は、秋晴れの空のように晴れやかだった。
Back to index  Message