グッモーニン・ザ・ムーン
 四月終わりのいくばかりかひんやりとした朝の住宅街に、鳥の声が伸びやかに響く。その囁きに耳を傾けながら、三堂静は道を横切り、赤煉瓦と白い窓枠の小洒落た家々が規則正しく建ち並ぶ歩道を軽やかに突き進んだ。
ロンドンはハムステッド・ヒーズに程近い一角、自宅のセミデタッチド・ハウス――一軒家を真ん中で左右対称に分けた家――に入ろうとしたとき、隣から穏やかな声に引き留められた。
「グッドモーニン、ミドーさん」
 顔を向けると、お隣の小庭に水やりをしていた銀色の髪のマダムが、にこやかに柵の向こうからこちらを覗いている。
「グッドモーニン、グレイさん、いい朝ですね」
 静は両手に抱えた紙袋を抱えなおし、笑みを返した。拍子に袋から香ばしいパンのにおいが漂う。久しぶりに総菜パンが食べたくなり、知人が開いている日本の総菜パンのお店へ、朝早く足を伸ばした帰りだった。
「本当に。今日は暖かくなるといいわね。それにしても、随分とあなたを見ていなかったような気がするのだけど、今回はどこへ行ってきたのかしら?」
「アメリカです。昨日の夜に帰ってきました」
 静はアメリカに二週間ほど滞在していた。交響楽団のツワーコンサートへ、客演ソリストのオファーを受けての渡米だった。仕事は成功のうちに終わり、静は三日の休みを取ってロンドンに戻ったのである。
 上流階級の家系であることが誇りのお隣のマダムは、クラシック音楽を愛してやまないようで、お隣に有名なチェリストが住んでいるということが自慢のようだった。静を見かけるとアフタヌーン・ティーやらディナーに誘おうとするので、いつも断るのに苦心することになる。断れずに一度伺ったアフタヌーン・ティーでは、結婚話を勧められて困ったものだ。続きそうな雰囲気の世間話に、静は内心冷やりとしたが、タイミング良くロイヤルメールの自転車が家の前に止まった。
 顔なじみの配達員の青年がそばかす顔に笑みを浮かべて「郵便をお届けに来ました」と、赤いメッセンジャーバックから二通の手紙を差し出した。礼を言って受取り、「ではまた」とマダムとの会話をやんわりと切り上げて、静は自宅のドアを開けた。
小さな玄関ホールは天井が高く、右手に滑らかな木製の手すりが備わった階段があり、真っ直ぐ伸びる廊下は左手の応接間と奥のダイニングキッチンへと続いている。静は玄関先で靴を脱ぎ――日本のこの習慣だけはどうしてもやめられないのだ――ダイニングキッチンへと向かった。
 クラシックな外観とは打って変わって、内装はスタイリッシュモダンに改装されている。庭に続く大きな窓から差し込む光は、三方を囲む白い壁に反射してあたりを明るく包み込む。
 パンの袋と郵便物をテーブルに乗せ、静はカーテンをさっと開けた。青々とした芝生の庭が朝露に濡れて、その奥には芽吹き始めた林檎の樹が堂々と植わっている。
 ハムステッドはロンドンでも屈指の高級住宅街だ。静がこんな立派な家を住まいにできているのは、一重にイギリス人である祖母方の親族??静にとっては大伯父にあたるシリル・トビアス・アラン氏の厚意からだった。
 ロンドンの王立音楽大学に入学して二年が経ったある日、当時は居候だった静に、この家の主人アラン大伯父は天気の話をするような調子で「君にこの家を譲ろう」と言った。なんでも、そろそろ田舎の屋敷に隠居してのんびりと余生を過ごしたい、と大伯父は考えていたそうだ。弁護士として長年勤めあげた大叔父は引退して久しく、そして独身だった。彼にとって静は孫同然で、イギリスで信頼できるたったひとりの親族だった。静にイギリスでの生活のノウハウを教えたのもアラン氏であり、その時間は彼にとっては楽しいひと時だったのかもしれない。感謝してもしきれないほど、静はアラン氏から異国の地について多くを学んだ。
 けれど、いくらなんでも居候している学生の身分でそれは図々しいだろう。そう思い断ると、大伯父は「じゃあ、私の代わりにこの家を管理するという名目でどうだね?」と最後は半ば強引に静を説き伏せたのだった。「君のその誠実なところが、私は気に入っている」と言って。
 それから数年、しばらく大叔父の支援を受けていた静も、仕事が軌道に乗ると家の一切の維持費を賄えるまでに成長した。ロンドンを音楽の活動拠点にしている静にとって、ハムステッドの家は第二の家だ。半地下と屋根裏のある四階建ての小さな屋敷は、一人暮らしにはいささか広いくらいだが、ワンフロアを防音のミュージックルームに改装してからは演奏の練習も基本ここで行っている。
 薄曇りの空をしばらく眺め、大きく伸びをしてから、静はキッチンへ向かいコーヒーを大きなマグカップに入れた。皿を一枚出して、それらを広々としたガラス製のダイニングテーブルへと運んだ。紙袋から総菜パンを皿へと移し、椅子に座ってようやく、静は届いていた郵便物へと手を伸ばした。
 一通は公共料金の請求書で、もう一通は薄桃色の封筒だ。
 裏返し差出人に目を止めたとたん、静は柔らかな微笑を浮かべた。
 日本にいる詩子からの手紙だった。
 大正から現代へと時を超えてきた詩子にとって、利便性の高いコミュニケーションルーツである電子メールもSNSも未知で不慣れなものだった。当たり前だ。瞬く間に世界が変わったのだから。彼女を必要以上に戸惑わせることをしたくなくて、けれど離れても連絡を取り合いたいという気持ちから、手紙の交換を申し出たのは静だった。
 そうして手紙のやり取りを始めて、早半年を過ぎようとしている。日本で詩子と過ごすことができたのはたった二週間弱。けれどその思い出は色あせることなく、祖母が言った「春の麗らかな日差し」のような想いは膨らんでいくばかりだ。
 手紙のやり取りを始めて気づいたのは、手紙を書く全ての手順がこんなにも心躍るものであることだ。愛おしいひとからの手紙を待つ時間は、悪いものではなかった。
 ダイニングの隅にあるコンソールテーブルの引き出しからはさみを取り出し、手紙の端から慎重に開封した。中には桜の絵柄が薄く散りばめられた便せんが二枚と、写真が一枚同封されていた。
 写真の中では詩子と祖母が蹴上インクラインの桜並木の下でにこやかに笑っていた。髪を肩にかかるところで切りそろえ、クリーム色の着物に椿の花が散った帯を締めた立ち姿は凛として美しい。初めて彼女を見たときから、その印象はずっと変わらない。
 便箋を開けると、ふわりと上品な香りが鼻を突いた。どこか懐かしく、落ち着いた気持ちにさせられる香りだな、と思いながら、柔らかく流れるような文字を目で追った。手紙は決まって季節の挨拶から始まった。

『拝啓 日本では桜の季節が訪れましたが、倫敦の春は如何でしょうか。
 静さんがお元気に過ごしていることを願うばかりです。
 疎水沿いの桜があまりにも見事だったので、ハナさんと一緒に花見のお散歩に出かけました。同封した写真はその時のものです。不思議なことに、桜を美しさも、そしてそれを愛でる気持ちも昔となんら変わらないのです。そんな一瞬を写真はこんなにも色鮮やかに写し取るのですから、素敵ですね。??』

 それから、高校卒業程度認定試験に向けての勉強の進み具合や、日常の驚き、祖母のこと、猫の小鞠の小さな悪戯について綴った手紙は始終丁寧だった。
そういえば、初めて貰った手紙はあまりにも古めかしい言葉遣いだったので、その時は読むのに苦労したことを思い出す。普段は感じない些細な時代の違いを知ることは、苦労を伴うが、詩子を知る上では大切なことだった。

『演奏者のお仕事は多忙と聞いておりますので、静さんの体調だけが気がかりです。どうかお身体を労わって、日々のご健勝を遠くからですが、心より願っております。』

 詩子の手紙の文末は、必ず静の体調を気遣う言葉で締めくくられる。
 その最後の文章を指先で軽く撫でた。自然と口角が上がるのを隠すように、顔を手紙にうずめて目を閉じた。
「……逢いたいな」
 密やかに零れ落ちた言葉は、深く心の中に染みこむ前に、別の声に断ち切られた。
「アイタイナって?」
 背中越しに聞こえた声に、静ははっと顔を上げて振り返った。
 キッチンの入り口に一人の男が片眉を器用に上げて立っている。薄手のチェスターコートを羽織った細身のスーツ姿の男は静より年上で、確か今年で三十三歳になると言っていたか。明るい栗毛を几帳面に整え、ヘーゼルの瞳はどちらかといえば神経質そうな印象をひとに与える。
 イーサン・フォード。静が音楽仕事の管理や交渉を委託している敏腕エージェントだ。
「フォード、ひとの家を訪問するときはベルを押すものだ」
 静が眉を顰めると、フォードは軽く肩を竦めた。
「押したさ。でも、いつまで経っても出ないのはお前だ」
 彼は憎まれ口を叩きながら、右手に持った鍵を上げて揺らした。静は大きくため息をつく。チェロの練習に集中すると周りの雑音を遮断してしまうので、そんなときのためにエージェントにはこの家の合鍵を預けている。それもフォードがあまりにも連絡がつきにくいことに異議申し立てをした故の妥協案だった。
 常日頃から合鍵を使われることが多いわけだが、その勝手知ったる様子が少し気に食わないのは、手紙の余韻に浸ろうとしたところを邪魔されたからに違いない。
 不機嫌な静を気にも留めずに近づいてきたフォードは、テーブルの上に置かれた封筒と写真に視線を動かしてニヤリと笑った。
「ふぅん、なるほど。ウタコ嬢からのラブレターか」
 可愛らしい女の子じゃないか、とちらりと写真を見て言う。
 静はさっと写真を取り上げ、手紙と一緒に封筒に戻してコンソールテーブルの引き出しへと閉まった。
フォードはまるで珍しいものをみるような表情で、そんな静の行動を観察している。背中に感じるその視線に、静は「なんだよ?」と口をへの字に曲げて眉を寄せて振り返った。テーブルの椅子の一つに腰かけて頬杖を突きながら、どこか面白そうに「別に」と彼は呟いた。
 再び大きくため息をつきながら静はキッチンへ向かい、コーヒーを淹れ、砂糖入れと一緒にフォードの前に置いた。礼を述べながら角砂糖を四つコーヒーに落とし込んでかき混ぜるフォードを待ってから、静は口を開いた。
「こんな朝早くからどうしたんだ?」
 告げられていたミーティングの時間には随分と早い到着だな、と壁掛け時計に視線を移す。
 ああ、とカップを置いて彼はスマートフォンを取り出し、着信履歴の画面を見せてきた。そこには『Shizuka Mido』の名前と『missed call』――不在着信が四件並んでいた。続いて「すまないが、急ぎの仕事が入ったので九時頃に伺う」と書かれたメール画面を開いた。
「お前、またスマホを確認しなかっただろう?」
「あっ」
 静はそこでようやくスマートフォンの存在を思い出したように声を上げた。昨夜から寝室の隅に置いたカバンの中に入れっぱなしにしたままのはずだ。
 フォードはやれやれと言うように首を左右に振って嘆息した。
「しっかりしてくれよ」
「……悪かった」
 静は少しばつが悪そうに視線を逸らす。「もう慣れた」と短く答えて、フォードは黒いビジネスバッグからA4サイズの茶封筒を取り出した。この男の良いところは、いつまでもひとつの事象に囚われないところだと静は思う。公私の切り替えが上手いのだ。ひとによってはその態度は冷たく映るかもしれないが、静はとってその距離の取り方が好ましかった。
 茶封筒を静に差し出し、スケジュール管理の手帳とタブレットを取り出しながら、フォードは説明を始めた。
「今年のプロムスで客演予定の交響楽団の公演プログラムと楽譜、子供向けのワークショップでの講師依頼だ」
 プロムス――『プロムナード・コンサート』は、ロンドンで夏に行われる音楽祭である。八週にかけて様々な音楽イベントが組まれ、主にロイヤル・アルバート・ホールでコンサートが執り行われる世界最大にして伝統あるクラシック音楽の祭典である。かの有名な放送局が運営するので、この時期になるとラジオやテレビでも気軽にクラシックを楽しむことができる。何よりも有名なのが最終夜――『ラスト・ナイト・オブ・ザ・プロムス』だろう。一言で表すにはあまりにも弾けた一夜で、一般にイメージされるお堅いクラシックなど払拭しまうほどに自由度の高いコンサートなのだ。何せイギリス国旗を模した服や帽子など『素敵に着飾った』聴衆が旗を振り、クラッカーを鳴らし、プロの演奏家たちはそんな観客席を一流の演奏で盛り上げる。トムソンの《ルール・ブリタニア》にエルガーの行進曲《威風堂々》第1番――イギリス愛溢れる名曲も演奏される。大学時代に友人たちに誘われ、数時間並んで取ったチケットを手に初めて観に行ったときは、外国人である静さえもどこか感極まる気持ちにさせられた。
 それが今では静が奏者として参加する側になっているのだから、成長したものだ。
 交響楽団のコンサートではエドワード・エルガーのチェロ協奏曲を弾く予定だ。祖父が好んで聴いたエルガーのチェロ協奏曲は静にとっても思い出深い曲だ。それを日本人としてプロムスで弾くことができるのは、音楽家としてのキャリアの中では貴重な経験になるだろう。楽譜を軽くめくりながら、頭の中で音を再生する。
「それと『ワン・ナイト・カルテット』の企画書……またやるのか?」
 顔を上げ、とんとんと一束の紙を指先で叩いたフォードを見上げた。
 静はそこに書かれた文字を読み上げ、にこりと笑う。
「もちろん。これは僕たちの年に一度の楽しみだから」
 日本にいた頃、コンクールで顔を合わせるチェリストたちは静を遠目に見るだけで、仲良くなるなどという雰囲気はそこにはなかった。『カフェ・ムジカ』に集う音楽家たちにとっても、静は孫か子どもか弟のような存在だった。ロンドンの音楽大学に入学して初めて、静は音楽仲間と呼べる友人たちができたのだ。
 そんな大学時代の友人たちと組んだのが『ワン・ナイト・カルテット』だ。
 弦楽四重奏??二挺のヴァイオリンと、一挺ずつのヴィオラとチェロで構成された室内楽のひとつ。始まりは大学での講義の一環だったが、年に一度のミニライブを始め、それぞれが少しずつ音楽界でキャリアを積み重ねた一昨年、満を持してプロムスで演奏することになったのだ。一夜だけ結成されるカルテットは話題性があるらしい。小ホールでの公演だが、友人たちと再び音楽を奏でられることが嬉しかった。演奏するのはクラシック音楽をアレンジし、現代のポップミュージックをミックスした曲目である。リーダー兼ヴィオラ担当のアレックスが編曲するのだが、毎回面白いものにしてくるのだ。
「ミドーは本当に音楽が好きなんだな」
 フォードはどこか呆れた声音で、けれど面白そうな眼差しで静を見つめていた。
「昨年は一時どうなるか冷や冷やしたが、もう心配なさそうで良かった」
 昨年、静は初めて自分の音楽性が崩れた。耳に入る自分の音がノイズ交じりになり、思うような音が奏でられずに自分自身を追い詰めてしまったのだ。もちろん、プロのプライドから不調など微塵もないように演じたため、周りに気付かれることはなかった。が、目の前のエージェントは目ざとく気づいたのだ。
 散々心配をかけたのだろうと思うと、いささか申し訳ない。静は軽く苦笑した。
「まあ……なんとかね」
「ウタコ嬢のおかげだな?」
「はっ?」
 不意に詩子の名前を出され、どきりとする。
 窓の外へと顔を向けながらも、フォートの視線は静の瞳を捉えている。
「まったく。おばあ様が倒れたから日本に行かせたのに、ガールフレンドを作って帰ってくるんだからな」
 隅に置けない男だ、とフォードは言う。
 けれど、静は肩を軽く竦めて、窓の向こうの雲の隙間から差し込み始めた光に目を細めた。
「残念ながら、ガールフレンドじゃないよ」
「なんだ、告白してないのか?」
 意外そうに、フォードは片眉を上げた。
「……いや、した……はずなんだけど」
 静は歯切れ悪く呟く。
 詩子がこの時代にいることを選んだあの十三夜の月の晩。静ははっきりとではないが、彼女への好意を伝えたつもりだった。今でも温かな涙とその柔らかな指先の感覚を思い出すことができる。
けれど、
「いろいろとバタバタして、彼女の想いを聞きそびれた」
「はぁ? それは聞きそびれたんじゃなくて、土壇場で聞くのが怖くなって聞けなかっただけじゃないのか?」
 呆れたように首を振るエージェントを、静はむっと睨んだが、痛くも痒くもないらしい。既婚者はどうして独り身にお節介風を吹かしたくなるのだろう。面白くない。
「ラブレターなんて古典的なことまでしてるんだから、手紙に書いたらいいだろうに」
「それはそれで、違う気がする」
 まったくわからないね、とフォードは再び頬杖をついた。
「まあ、でも、ミドーの奏でる音色を変えるくらいに素敵な女の子なんだろう? あんまり先延ばしにしていると、気づいたたら大切なものがうんと遠く離れてしまって、後悔するはめになるぞ」
 このエージェントはふと核心をついてくることがある。静は俯いて「そうだな」と小さくぼやいた。
 タブレットをタップしながら、フォードはニヤリと笑った。
「そんな悩める青年に朗報だ」
「……何?」
 静は身を乗り出し、フォードの手元にあるタブレットの画面を覗き込んだ。それは八月のカレンダーだった。几帳面な彼らしい時間単位の細やかなスケジューリングが組まれているが、最後の週だけ空欄が続いていた。コンサートなどの仕事のスケジュールは早く決まる。静のスケジュールは年末まで大方埋まっていた。
「ラッキーなことに、八月末から九月初めの十日間は久しぶりの連休にできそうだ」
「……へえ」
 首を傾げる静に、フォードは「お前のワーカーホリックは重症だな」と少しやきもきした様子だ。さらに首を傾けると、今度は大きくため息をつかれた。
「せっかくの連休、日本に行ってきたらどうだと言ってるんだ。そこでウタコ嬢から返事を聞けばいいだろう?」
 気軽に逢えないならなおさらだ、とフォードは言葉を重ねる。
「ああ、そうか」
 今までは考えもしなかったが、これからは詩子に逢いに日本に定期的に帰国してもいいわけだ。イギリスに活動拠点を移してからというものヨーロッパでの仕事が増え、用事がなければ日本に帰ることはすっかり減っていた。長らく疎遠にしてしまっていたから、祖母も喜ぶに違いない。
「日本の企業からCMのオファーも来ていることだし、これからは日本での活動も増やしていけそうだ」
 滑らかに液晶のスケジュールを操作しながら、フォードは「俺もいよいよ日本語の勉強をしなきゃいかんな」と呟いている。なるほど、日本での仕事が増えれば詩子と逢える機会がさらに増える。それは静にとっては悪いことではない。
「よろしく頼みますよ、偉大なるエージェント様」
 冗談めかして言った静へ視線だけを動かし、フォードは無言でニヤリと笑った。
 その時、マナーモードにしていた彼のスマートフォンがテーブルの上で唸った。フォードは表示された名前を見て小さく唸った。スマートフォンを手に立ち上がり、廊下へと出ていく。かすかに聞こえてくる声から、他のエージェントのトラブルのようだと推測できた。ため息をつきながら戻ってきた彼の表情には疲労の色が滲んでいた。深く息を吐き出し、静を見やる。
「ミドー悪いが……」
「いいよ、急ぎの要件だろう? 打ち合わせはまたの機会でかまわないから」
「恩に着る」
 渋い顔でフォードは荷物をまとめ、靴を履きながら、玄関まで見送りに出た静を振り返った。
「お前のことだから休日もチェロの練習するんだろうが、くれぐれも行き過ぎないようにな」
 釘を刺されて、静は思わず苦笑を漏らした。
 扉の鍵をかけながら、そういえば朝食が途中だったことを思い出す。懐かしい味の総菜パンを淹れなおしたコーヒーで流し込み、すっかり暗譜したエルガーのチェロ協奏曲の楽譜と再び取り出した詩子の手紙を片手に、ミュージックルームへと続く階段を上がった。

* * *

 視界の隅に煌めいた光に、ふと弦を弾く弓を止めて顔を上げる。
 カーテンを開けたままにした窓の向こうに、白々と淡く月光が降り注いでいた。
「……あ、またやってしもうたな」
 静は独り言ちた。
 グランドピアノの上に置かれた時計は、もうすぐ午前零時を表示しようとしている。遅い夕飯を挟んでからかれこれ三時間、チェロの演奏に没頭していたようだ。どこからか小言が聞こえてきそうだ、と思いながら背中を伸ばして立ち上がる。
 窓際に立つと、薄い雲の隙間から満月が顔を覗かせ空に架かっていた。
 月のある夜にはドビュッシーの《月の光》が頭の中を流れる。あるいはドヴォルザークの《月に寄せる歌》??どちらも、寂し気で艶やかなかメロディーだ。そういえば、詩子に初めて弾いてみせたのは《ムーン・リバー》だった。あの時、穏やかに流れる川のように優しい調べを彼女に捧げたのは、きっとすでに恋に落ちていたからなのだろう。
 不意にスマートフォンの着信音が耳に届き、どきりとする。
 譜面台の傍に置かれたそれは、ちかちかと電子的な光を放っている。祖母からの着信だった。
「はい、静です」
 画面をスライドさせて電話にでる。
「ハッピーバースデー、静さん」
 聞こえてきた祖母の声に、一瞬息を止める。電話越しに忍び笑いが聞こえた。
「あら、あなた、自分の誕生日を忘れたの?」
「……ああ、いえ、ちょっとびっくりして」
 時計は午前零時を過ぎ、日付は変わっていた。確かに静の誕生日である。けれど、こんなに早く祝いの電話を貰うとは思っていなかったのだ。そんな静の考えを読んだように、祖母は少女のように笑い、
「イギリスは真夜中だけど、こちらはもう朝の八時ですよ」
「時差のことを忘れていました。それにしても、僕が起きてるってよくわかりましたね」
「あなたは時々タイミング良く夜更かししますからね」
 なるほど、祖母の勘というやつか。
「誕生日のことも忘れているのではないかと思ったのだけど、案の定ね」
「あー……残念ながら正解です」
 誕生日はおろか、大学を卒業してから年齢を数えることも時々忘れる有様なのだ。静は窓際に背を持たれかけて、苦笑を浮かべた。そのかすかな息遣いが伝わったのか、祖母は再び小さく笑った。
「貴方にとって素敵な一年になりますように。くれぐれも身体を大事にね」
「ありがとうございます。……ハナさんはお元気ですか?」
 祖母が倒れて半年ほど。その後は体調を崩すこともなく過ごしているようだが、祖母は隠し事が上手なのだ。
「ええ、おかげさまでね。詩子さんもいますから」
「詩子さんは元気にしてます?」
 すると、少しお待ちなさい、と祖母の声は受話器から遠のいた。
 続いて聞こえたのは息を飲むような息遣いと、「あ、の」と戸惑ったような声。小さく鈴の鳴るようなその声を聞き間違えることなどあるはずがない。
「……静さん?」
 忍びやかに、ゆっくりと尋ねる声に愛おしさが込み上げる。
「久しぶりですね、詩子さん。お元気ですか?」
 きっと鏡を見たら口角が上がっているに違いない。そっと瞳を閉じて、電話越しに耳に全神経を注いだ。
「はい、あの、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「堪忍です、わたし、誕生日はあまり馴染みがなくて。その、気の利いたことが言えんくて」
 彼女と話す時、いつも新しいこと発見がある。彼女の知っていること、知らないこと、得意なこと、苦手なこと??大正時代にはないものが溢れた現代で、詩子は戸惑いながらも吸収しようと頑張っているのだ。
「かまいませんよ。僕は詩子さんの声を聞けただけで、今とても幸せですから」
 素直な気持ちがぽろりと零れる。電話越しに、息を飲む気配がする。しばしの沈黙。
 そうして、囁くような小さな声で、
「……わたしもです」
 詩子が言う。
 彼女は今どんな顔をしているのだろうか。見ることのできないもどかしさに、思い切ってビデオ通話のボタンを押したくなったが、そんなことをしたらきっと詩子はとまどってしまうのだろう。それに、声だけのやり取りは心地よくもある。
「そうだ、手紙をありがとうございます。今日届きました」
「そ、そうですか。もう読んでくれはったんですか?」
「ええ、またお返事を書きますね」
 はい、とどこか弾むような声が返ってくる。
 それから少しだけ世間話をして、静を気遣うように「そちらはもう真夜中でしたよね?」と詩子は訊ねた。
「そろそろ寝んと、身体にわるいですから」
「……まだ、話したいんですが」
 困ったように呟いた静に、けれど詩子ははっきりと返す。
「あきませんよ。ちゃんと寝てください」
 少し呆れたような声が可愛らしく思えて、思わずくすっと笑う。
「わかりました」
 電話の向こうでも忍びやかな笑い声が返される。「ええ子です」と彼女は囁いた。
「おやすみなさい、静さん」
 子守歌のように、その声は静の心の奥を満たした。
「おやすみなさい、詩子さん」
 指は名残惜しさからか、ゆっくりとさまようように通話を切った。
 深く息をついて、窓の外へと目を向ける。満月の銀色の光が、寝静まったロンドンの街に降り注いでいる。
 京都では朝の穏やかな春の光が降り注いでいるのだろうか。疎水沿いの古い洋館が今はただ懐かしい。耳元をくすぐる彼女の声音が、静の募る気持ちを落ち着かせるようだった。
「逢いたいな」
 その呟きを、天上の月だけが聞いていた。