01
 これほど美しい星空に出逢ったのは初めてだ。
 今は英国から祖国へと向かう船旅の最中、海は凪ぎ不思議と静かな晩だ。水平線まで広がる満天の星は宝石のような輝きを放ち、地上を見下ろしている。
 星の海ステラ・マリス。そんな言葉か頭をよぎる。
 広がる美しい海を、弟と見たこの空を、私は決して忘れないだろう。


 ――一九〇二年九月二日 船上にて




 二階にあるサンルームの窓際に置かれた美しい木目の椅子は、兄さんが僕に作った特等席だ。窓の向こうには見慣れた神戸の居留地と深い青色の海が広がり、花の香りを携えた朝が、穏やかな一日の目覚めを告げている。僕は窓辺に寄りかかり、庭に植えられた満開の桜の花をぼんやりと眺めていた。

「おはよう、ふひと

 振り返ると、兄さんがあくびを噛みしめながら部屋へ入ってくるところだった。朝食の乗った銀製のお盆を両手で掲げ、左脇には立派な装丁の手記を抱えている。

「おはよう、兄さん」

 丸テーブルへと向かう姿を視線で追いながら、挨拶を返した。そして、一拍を置いてから、すっかり日課となった質問を投げかけた。

「記憶の調子はどう?」
「よくわからないけれど、これは良くないだろうね」
「……やっぱり忘れているんだね」

 顔をしかめた僕に、彼はなだめるように手を振り、テーブルに置いた手記の表紙を撫でた。

「この手記が私の記憶の代わりだから、問題はないよ」

 微笑を浮かべる兄さん。まったく暢気なものだ、と僕は長いため息をついた。
 兄さんはティーポットから香り高い紅茶をティーカップに注ぎ、時折サンドウィッチを齧りながら手記を読み始めた。ひとつひとつの所作は優雅なもので、どこかミステリアスな雰囲気をまとう。兄さんは今何を思っているのだろう。ふとそんな考えが頭を過ぎった。 
 兄――篤坂あつさかほがらは、己の記憶を保つことができない。

 三年前のことである。英国から日本への航路の途中、ふたりの乗った蒸気船は不幸にも海難事故にあった。船が沈没した悲惨な事故。乗客や乗組員のほとんどが溺れ死んでしまい、奇跡的に生き残ったのはわずか十名だった。目を閉じれば、助けを求める声や傾いてゆく船の感覚、海面に打ち付けられた瞬間の冷たさと息苦しさをありありと思い出すことができる。
 命は助かったが、脳に損傷を受けて健忘症を発症したのだ、と医者は言った。兄さんは、事故以前の記憶をほぼ全て失くしてしまっていた。そして眠ると記憶喪失を起こすようになった。彼の記憶はもっても一日だ。
 くぐもった小さな笑い声に、ふと現実へと引き戻される。兄さんは堪えるように、手のひらを口元に寄せていた。

「どうしたの?」
「いや、時折この手記には笑ってしまうようなことが書かれているものだから」

 頁をめくる指先は懐かしむように優しげで、まるで大切な何かを思い出そうとしているようでもある。

「それは兄さんが書いたんだよ」
「でもこうして読んでいると、まるで知らない誰かが書いたもののように思えてならないんだ。これは確かに私の記憶のはずなのに、不思議な気分だ」

 英国にいた頃から、兄さんは手記を書くことが日課である。きっかけは、病で亡くなった父が彼の誕生日に美しい装丁のノートを贈ったことだった。その日のできごと、心惹かれたこと、出会った人物のこと、小説や舞台の感想――とりとめのないことを記したここ三年の手記は、彼の部屋の机に大切に並べられている。

「おや、今日は来客があるらしい」
「……来客?」

 思わず眉を寄せる。何せ、急な坂の上に建てられた小さな屋敷を訪ねる者は少ない。兄さんは軽く頷き、手記の文字を読み上げるように言葉を続ける。

高堂こうどう子爵のご令嬢に英語の手ほどきをすることになっていたらしい」

 僕に視線をよこし、困ったような表情をした。
 告げられた名前に思考を巡らせる。

「……高堂子爵なら、日曜日に訪れたキャンベル氏の花見の席で会ったのが、初めてだったと思うけど」

 貿易商を営むキャンベル氏は、兄の通訳の才能を高く買っている英国紳士だ。彼が主催する花見の席に招待されたのが数日前。
 そして、高堂一彌いちや子爵は花見の席に出席した数少ない日本人だったと記憶している。黒紋付に袴という礼装を見事に着こなす姿。まっすぐ伸ばされた背筋や引き締まった顔つきとは裏腹に、物腰が柔らかな好人物。高堂家は京の公家華族で、一人娘の入り婿として商いに明るい一彌氏が子爵を受け継いだのだと噂に聞いている。商売の手を広げ神戸に拠点を移して間もない新参者であったが、華族の中でも異色を放つその経歴は、居留地の人々にいたく気に入られたようだった。

「では、花見の席でご令嬢にも会ったのだろうか……」

 兄さんは過去の記憶をたどるために数日前へと手記の頁をめくった。乾いた紙の音を聞きながら、僕は椅子に背中をもたれ天井を見上げる。

「いや、会っていないと思うけど――」

 答えながら、脳裏に浮かび上がったある少女の姿に、そっと眉をひそめた。
 そして手記に意識を集中させている兄の横顔をうかがう。求めていた答えが見つからなかった様子で小さくため息を吐いている。兄さんのどこか憂鬱とした表情は、珍しい。僕は声をかけようと口を開き、けれど、兄さんが手記を閉じて立ち上がったので言葉を続けることは叶わなかった。

「そのお嬢さんは午後に訪問する予定だ。それまでに、外で仕事を済ませてくるよ」

 兄さんは空になった食器をまとめ、ベストから懐中時計を取り出して時間を確かめる。正午には戻ってくるから、とこちらに顔を向けた兄の表情は、いつもと変わらぬ穏やかなものに戻っていた。

「そう……いってらっしゃい」

 僕はひらひらと手を振ってみせる。弟の間の抜けた見送りに苦笑を浮かべながら、兄さんはサンルームを出ていった。階段を下りる足音に耳を傾けたまま、僕は開け放した窓辺に頬杖をついた。やがて、桜の陰からグレイの背広に山高帽を被った兄さんが現れる。屋敷の桜を見上げ微かに笑みを浮かべている。兄さんのお気に入りの花なのだ。
 僕はその姿をぼうと眺めながら、数日前のできごとを思い返す。兄さんの反応からして、サンルームの机に置かれたままの手記には、書かれていなかったのだろう。そもそも、書かれていないなんて、不思議なほど。
 花見の席で出会ったあの乙女のことは忘れようもないのに――。




 その日は眩しいほどの晴天で、キャンベル氏が主催する花見の席に相応しい穏やかな日曜日だった。
 居留遊園の中には神戸倶楽部と呼ばれる、社交場として設けた煉瓦造りの建物がある。広大な庭もあり、花見はそこで執り行われることになっていた。キャンベル氏は桜の木を取り寄せて豪華な席を設けたのだ。
 会場の所々に赤いビロードの布が敷かれた長椅子が置かれ、人々は優雅に桜を愛でていた。軽食に花見団子や酒が振舞われたが、それを楽しんでいるのはフロックコートや長いドレスに身を包んだ紳士淑女たち。さざなみのように聞こえるのは異国の言葉だ。そして燕尾服の召使いが給仕をしてるところが、日本の花見にはない風景だった。

 兄さんは居留地の人々に好かれている。「史も一緒に行くだろう?」と誘う兄さんの笑顔に負け、久しぶりに屋敷を出た僕は、会場について早々紳士たちに取り囲まれた兄を横目に、そそくさとその場を離れた。人が集まる場所では声をかけてこないこと。僕が兄さんに誓わせた約束だった。
 兄さんはしばらくして紳士たちから逃れ、満開に咲き誇る桜の若木を眺めていた。
 周りに誰もいないことを確かめ、僕は兄さんの傍に立った。振り向かずとも誰であるかわかっていたようだ。

「見事なものだね」

 と、兄さんは穏やかな口調で呟いた。

「……花見の席にしては豪華だけどね」

 囁くように答え、僕は庭園を眺めた。光を含んだ木々や空は淡く彩り、風が軽やかに前髪を揺らす。
 ふと、視界の隅に人影を見止めて首を傾げた。

「兄さん、あれ」

 呼びかけ、指し示しめす。兄さんは示された方向を視線でたどり、目を凝らした。
 そして何かに気付いたのか、その人影へと歩を進めた。近付いてみると、うずくまる振袖姿の小さな背中があった。花見の席に招待された淑女のひとりだろうか。

「失礼。ご気分でも悪くなられましたか?」

 英語で話しかけた兄さんの声に反応して、背中がびくりと上下する。素早く振り向いた顔には混乱の色が見えた。相手はこちらを仰いで、震える唇を小さく開いた。

「あ、ア、アイ…ドン…? しもうた、なんて言うんやろ」

 小鳥の囀りのような若い声だった。見る見るうちに顔いっぱいに困った表情が浮かぶ。兄さんはきょとんと片眉を上げ、そして納得したように「ああ」と零した。

「すみません、お嬢さん。日本人の方だったのですね」
「あ……日本語や」

 間の抜けたような顔をした少女に、兄さんは思わず小さく笑う。
 自分の失態に気付いたのか、その頬はみるみるうちに真っ赤になった。兄さんはなおも面白そうな様子で、失敬、と頭を軽く下げ手を差し出す。差し出された手のひらの意味が分からぬ様子の彼女は、じっと指差を見つめて固まっている。
 少女は逡巡したが結局、ひとりで立ち上がった。見知らぬ男性に警戒しているようだ。そのことを察した兄さんは何気ない様子で距離をとり、言葉を選ぶようにゆっくりと声を発した。

「何か困っているのではないかと思い、声をかけたんですよ」

 小さく感じた少女の背中は、立っても覆されることはなかった。
 背丈は兄の肩ほどで、着物から覗く手首は華奢だ。軽く結った艶やかな黒髪に真珠のかんざしを差しており、青藍色の着物には色とりどりの花や蝶が金糸で縁取られていた。人形のように整った顔。黒目がちの瞳は、強い意志を宿している。

「それは、おおきに。鼻緒が切れてしまって困ってましたのや」

 都訛りの言葉はたおやかなようで力強くもある。少女は右足をゆっくりと前へ押しやると、突っかけられた草履が所在なさげにゆらゆら浮かんだ。これでは歩こうにも厳しい。厄介なことになったな、と考える僕の傍で、兄さんは何の躊躇いもなく片膝立ちをした。

「少しその草履をお借りしますよ。片足立ちでは疲れるでしょうから、私の膝に足を乗せておくといい」

 すぐ終わりますから、と兄さんは彼女に触れないようにしながら下駄を脱がせた。
 少女は戸惑いの声を上げたが、ポケットからハンカチーフを出す兄が何をするのか理解して「おおきに」と小さく呟いた。それでも片足立ちを選んだのは、恥ずかしさが勝ったからなのだろう。
 兄さんはハンカチーフを鼻緒の穴に通し結び目の長さを調節しながら、手早く下駄に応急処置を施していく。細かな作業が得意なのだ。ひらひらと舞いこむ桜の花びらがふたりを包み込み、まるで絵画の世界に迷い込んだかのような錯覚を起こす。

「……できました。どうぞ、履いてみてください」

 兄さんはそっと小さな草履を少女の足元に置いた。彼女はほっとした様子で下駄に指先を通そうと足を伸ばし――その一瞬、体がぐらりと傾いた。
 少女が小さく悲鳴を上げたのが先か、兄さんが手を差し出したのが先か。均衡を崩し倒れこむかと思われた体は兄さんの胸の中にすっぽりと収まり、偶然とはいえ、少女を抱き寄せるような形になる。
 何が起こったのか判断できずに少女はしばし唖然としていたが、すぐに慌てた様子で後ずさりをした。

「ほんまに、えらい失礼な姿を見せてしまいまして、堪忍です。うち、いや、わたくし、その、家人を待たせてるので、これで」

 紅の差した頬を隠すように深くお辞儀をしてから、少女は足早に離れてゆく。すれ違う一瞬、彼女はこちらへと視線を合わせた。

 ――驚いた。

 少女は、確かに、僕を視たのだ。
 海から吹く風が桜の花びらを舞い上げる。少女のまっすぐな視線が、脳裏に浮かび上がっては沈んでゆく。これは何かの前兆なのだろうか。
 そしてふと覗き見た兄の表情に、目を見開いた。兄さんは先ほど少女に触れた手を見つめている。唇が微かな笑みを作り出し、目元には柔らかな色が浮かんでいた。それはまるで慈しむように――光を含んで淡く浮かび上がる桜を背にしたその姿に、思わず目を細める。
 僕は不思議な予感を覚え、胸の辺りを押さえた。

 止まっていた時間が、再び時を刻む音が聞こえたような気がした。

Back | Home | Next