02
 運命の巡りあわせとは不思議なものだ。
 正午を少し過ぎた頃に帰ってきた兄さんは、手早く本やら勉強道具やらを揃え高堂家のご令嬢を待った。人にものを教えるのが始めてであるからか、いささか表情が硬い。何度か懐中時計を取り出しては、時間を確認する姿が可笑しかった。
 約束の時間通りに篤坂の屋敷を訪れた高堂家のお嬢さんの顔を一目見た兄さんは、扉の前で静止した。その様子を不審に思って遠目に扉の隙間をそっと覗きこんだ僕も、思わず目を瞠った。
 ご令嬢は、やはり花見の席で出会ったあの少女だった。着物に濃紺の袴、そして皮のブーツを履いた女学生の姿。青いリボンで三つ編みにした髪を纏めている。花見の席とは随分と違う出で立ちだが、その眼差しや顔立ちは何一つ変わらない。
 少女も兄さんのことを思い出したのか、息を飲んだようだった。

「貴女が高堂子爵ご令嬢の日万里ひまりさんですね。お待ちしておりました」

 篤坂朗と申します、と兄さんは微笑を浮かべ、屋敷の中へと招き入れた。
 客間へ案内すると、彼女は戸惑ったように入り口で立ち止まり、兄さんを見上げる。どうかしましたか、と尋ねた兄にしばらく沈黙していた少女は、意を決したように小さな唇を開いた。

「あの、うちのこと覚えてないのですやろか?」

 兄さんは予想外の言葉に目を見開き、考えるように視線を彷徨わせた。
 少女は兄の厄介な記憶喪失のことを聞かされていないようだった。眉を寄せる兄の姿に、彼女の瞳が失意に揺れたのがわかった。けれど、これ以上は後ろに控えている侍女の耳に挟んでしまってはいけないと考えたのか、「いえ、うちの勘違いみたいです」と小さく頭を振った。

「篤坂様、お父様からのご無理をお聞きくださりありがとうございます。要領の良い生徒やないかもしれませんが、よろしゅうお願いします」
「……そんなに畏まらないでください」

 兄さんは少女が体裁を繕ったことに気付いたようだったが、それ以上追求することはしなかった。
 客間の隅にあるテーブルへとエスコートし、兄は自然な所作で椅子を引いた。少女が不思議そうに佇んでいるので、どうなることだろう、と僕はそわそわとその様子を観察する。日本の多くの家がまだそうであるように、高堂家も日本形式の生活を送っているのだろう。外国の礼儀作法に触れる機会は、これが初めてなのかもしれない。
 兄さんは椅子に手を添えたまま説明する。

「英語を学び、これから欧米諸国と関わるようになられるのでしたら、理解しておくと良いかも知れませんね。外国にはレディー・ファーストという概念があるのです」
「……れでぃ、ふぁーすと?」

 おうむ返しに首を傾げる少女に、兄さんは優しく頷いてみせる。

「欧米諸国には紳士が淑女を丁重に扱う文化があるのですよ。例えば、今なら貴女が座りやすいように椅子を引くといった感じです」

 どうぞ、と再び座るのを促してようやく、少女は恐る恐る椅子に座った。侍女に対しても兄さんはそつなく紳士道を発揮し、一人を間に挟んでご令嬢と向かい合う形で腰掛けた。
 少女は少し緊張がとけたのか、部屋の中へと視線を巡らせた。西洋風の様式や家具を珍しげに見ていた眼差しが一瞬止まり、窓辺に体を預けていた僕へと注がれた。表情は変わることはなかったが、瞳には不思議そうな色が浮び、視線はすぐに外された。

「今日は初めてですから、挨拶で使える言葉とアルファベットを学びましょう」

 兄さんは大きなトイ・ブック――英国人の子どもにアルファベッドを教えるための挿絵の入った本だ――を開いた。まっすぐ背筋を伸ばした少女の唇は真一文字に引き結ばれている。まるで死地に赴く覚悟を決めた兵士のような気迫だ。
 その姿に耐えかねて、小さく吹き出す兄さん。顔を逸らし笑いを堪えようとしているが、震える肩を誤魔化すことはできない。少女は唖然と兄さんを見つめた。

「日万里さん、貴女はよっぽど英語が苦手なのですね」

 どうにか笑いを飲み込み、今度は真面目な目つきで少女を見遣る。
 彼女はしぶしぶといったように小さく頷いた。

「女学校でも学んでますけど、アルファベットの羅列はわけがわからんし先生には発音が汚いと言われとります。正直、好きになれへん……あ、なれませんわ」

 素の自分が出てしまったことを恥じてか、言葉遣いに気をつけるよう言われているのか、どちらかは分からないが彼女は『言葉』そのものに劣等感があるようだった。取り繕うようにお嬢様言葉を発したが、顔色は浮かない。

「では、まずは貴女に英語を好きになって頂くことが目標ですね」
「できるんでしょうか……」

 兄さんは柔らかな微笑を浮かべ、春の日差しに似た優しげな声で続けた。

「いつか好きになっていただけたのなら、私はとても嬉しいですが」

 その言葉に、少女は無意識に「はい」と頷いた。いつの間にか兄さんに懐柔されてしまっている。ようやく本当に緊張がほぐれ、少女は初めて小さな、花のほころぶような笑みを浮かべた。
 それから、僕は兄さんたちが勉強する様子を窓辺から眺めた。兄が教え上手なのか、彼女が自分自身で心配するほどの劣等生でなかったのか、たった数時間で少女の発音は耳に心地良いほどに上達した。習っている言葉は初級の中の初級であるが、上々の出来なのだろう。
 集中力が続かなくなる頃合を見計らって、兄さんがレッスンを終える。アフタヌーン・ティーを用意するために立ち上がると、少女に手伝うよう言われた侍女と連れ立って台所へと向かった。静穏とした部屋の中に、少女はひとり残された。
 彼女は立ち上がると窓辺へと歩み寄った。開け放たれた窓からは春の植物が爛漫に咲く庭と、目下にはきらきらと輝く穏やかな海が見える。遠くで船の汽笛が聞こえた。じっとその景色を眺める少女の横顔は美しい曲線をつくり、長い睫が柔らかな影を作り出す。控えめだが、印象に残る美しさだ。
 大きな瞳が前触れもなくこちらへ向けられたので、僕は息を止めた。
 少女の眼は、確かに、僕の姿をとらえている。桜色の唇が薄く開かれ、そっと首を傾げる。

「貴方は誰ですのん?」

 抑揚のない声だった。僕は諦めるように、大きなため息をついた。

「……篤坂史。三年前に死んだ、篤坂朗の弟だ」

 この一瞬を待ち遠しく思いながら、同時に恐れていたのだと思う。

「兄さんが貴女のことを思い出せないのは、僕のせいだよ」

 午後の光が少女の横顔を照らし出す。その瞳の中で揺れた感情は果たして何であったか。
 けれど、僕の予感は確信へと変わったのだ。彼女が僕ら兄弟の止まった時を動かしてくれる。きっと兄さんの道しるべになろうだろう、と。


 三年前に止まった時を取り戻すかのごとく、日々は過ぎてゆく。
 高堂家のお嬢さん――日万里さんは、毎週の英語レッスンの賜物か、みるみるうちに上達していった。侍女は兄さんの性格に安心しきったようで、ある日を境に令嬢を預けると家の使いを済ませるためにそそくさと屋敷を離れるようになり、客間にはふたりの柔らかな声だけが響いた。その声に聞き入りながら窓辺に上半身をあずけ、庭を眺めることが僕の常となった。

 庭の桜は盛りを過ぎ、いつの間にか藤が薄紫の小さな花を咲かせている。穏やかで温かな風は、季節が夏へ向かっていることを告げていた。
 レッスンの後は、ふたりでアフタヌーン・ティーをいただく。この頃には日万里さんも西欧の作法に慣れ、兄さんとの会話を楽しむようになっていた。飾らない彼女は、怜悧で生真面目なところを除けば、同じ年頃の少女たちと変わらない。公家であることを誇りに思うあまり外国嫌いを貫く母から厳しい躾を受け、十五歳にしてようやく憧れの女学校に通えるようになったこと。母親が英語を習うに際して、講師が日本人であることを条件出し、父が困り果てたことを話してくれた。なるほど、年頃の娘を二十代半ばとはいえ若い男である兄に託したのはそのような理由があったのか、と僕は心の内で納得した。

 日万里さんの何気ない会話に、兄さんは静かに耳を傾けた。彼女はまくし立てるでもなく、ぽつりぽつりと言葉を噛みしめながら話をするので、慎ましやかな声音は耳朶に心地良く響いた。

「うちも篤坂様のように手記をしたためようかしら」
「良いかもしれませんね。読み返すといろいろな発見があります。練習がてら英語で書いてみてはどうでしょう?」
「それは、気ぃの遠くなりそうな作業になりそうですね」

 冗談めいた兄さんの口調に、日万里さんはくすくすと笑う。
 日万里さんが兄さんの困った事情――寝てしまうと記憶を失くしてしまうことを知ったとき、とても驚いた顔をしていた。当たり前の反応だ。何せ会うたびに「はじめまして」となるのだから。けれど手記のことを聞き、海難事故のことを知ると、すんなり事情を受け入れて今では普通に接してくれている。

「でも、私にとっての手記は貴女のいうものとは少し意味合いが違うかもしれない」

 兄さんは物憂げな様子だ。

「それは篤坂様が記憶を失くしてしまうからですか?」
「そうですね……私にとって手記は私の記憶そのものです。昨日の出来事も、今日しなければならないことも全て手記に綴られている。他人の記憶をたどっているような気分にはなるけれど、それが私のたった一つの手がかりだから」

 兄さんは哀しげな笑みを浮かべ、こちらへと視線を動かした。僕は気付かないふりをして窓の外を眺めている。兄さんは記憶を取り戻したいと、願っているのだろうか。時を動かしたいと。
 では、とぽつりと日万里さんは呟く。

「うちのことは何と綴ってくださってはるんでしょう?」

「えっ?」と兄さんは素っ頓狂な声を上げた。己の言葉の意味を改めて考えたらしい令嬢は「あっ」と小さく呟き顔を真っ赤に染めて俯いた。手に持っていたカップを慌ててソーサーに戻す。

「堪忍です、忘れたってください」

 しかし、一度声に出された言葉がなかったことになるはずもなく。兄は悪戯を思いついた子供の表情をして、そうだなあ、と呟いた。

「教えて差し上げてもいいですよ?」
「……え?」

 日万里さんは顔を上げる。僕もふたりへと顔を向けた、兄さんが手記の内容を話すのは珍しいので、好奇心が顔を除かせたのだ。兄さんはたっぷりと間を取って、詩を諳んじるようにすらすらと言葉を紡いだ。

「可憐な花のようにお淑やかで、その瞳は星の輝く夜空のように美しく、ふと笑うと……」
「ひゃっ、や、やめてください!」

 日万里さんは顔を真っ赤にして兄さんの言葉を遮った。

「……うちをからかわんとってください」

 確かに、あんな告白じみた言葉をつらつらと並べられては冗談かと思ってしまうだろう。しかも恥ずかしげもなく言われれば余計だ。けれど、兄さんは不思議そうに首を傾げた。

「私は何ひとつ嘘を言ったつもりはないのですが」
「そやかて、あんな……あんな……」

 日万里さんは顔を薔薇の花のような赤色に染めたまま、慌てて立ち上がる。泣くことをこらえるように、眉を寄せて兄さんを見下ろした。

「うち、もう帰ります」

 今日はおおきに、と兄さんの見送りも待たずに彼女は踵を返した。僕らは唖然とその背中を見送った。追いかけるのかと思ったが、兄さんはもう一度椅子に座ると、天井を仰いで指先で眉間を押さえた。

「馬鹿なことをしたな」

 怒らせるつもりはなかったんだ、と兄さんは独り言ちる。僕は兄さんの向かいに座り、呆れたように肩を竦めた。

「いたいけな乙女をからかうからだよ」
「私はからかってもいないし、彼女はもう立派なレディ――だよ」

 兄さんの口調には苛立ちが滲んでいた。こんな様子の兄を見たのは初めてだ。何かに怒り、同時に悲しんでいるようなないまぜの気持ちに兄さんは唇を噛みしめている。手で覆われた瞳の色を伺い知ることはできない。泣いて、いるのだろうか。
 兄さんはしばらくして、かすれた声で呟いた。

「彼女のことは、出逢ってから一度も忘れずにいるんだ」
「……それって、日万里さんに関する記憶を失くしていないってこと?」

 僕は思わず目を見開き、身を乗り出した。彼は弱々しく頷いた。なんで教えてくれなかったのだ、という言葉は辛うじて飲み込んだ。兄さんは何気ない顔を繕いながら、ずっと思い悩んでいたというのだろうか。その兆しをみせることなく、ひとりで。

「史、私は怖いよ。いつか彼女の記憶もなくなってしまうのではないかって……眠ることさえ怖いんだ」

 兄さんが恐れるその感情を、僕は経験したことがない。けれど、名前は知っている。

「兄さんは日万里さんに恋をしているんだね」

 その肩が小さく震える。彼はからくり人形のようにゆっくりと首を縦に振った。

「いつから?」
「花見の席で出逢ったときから。これは一目惚れというのだろうね」
「知らなかったな」
「そりゃあそうさ。私は誰にも言っていないからね」

 こんな情けなさそうな兄さんの姿も見ものだな、と僕はぼんやり考えた。兄さんの今にも雨の降り出しそうなどんよりとした様子とは間逆に、僕の心は高揚していた。ずっと、この時を待っていたような気さえする。これでようやく、僕は兄さんに還すことができるのだから。

「兄さんは過去の記憶を取り戻したいと願っているんだよね」

 兄さんは視線をこちらへと巡らせる。その瞳が戸惑うように揺らいでいた。

「史?」
「やっと願いが叶いそうだ」

 微笑みを浮かべる。
 その一瞬、僕の体は、夜空に浮かぶ月のように淡く光を帯びたのだった。

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