03
 日万里さんが篤坂家の屋敷を訪れたのは、翌日のことだった。
 兄は不在だったが、思いつめたような顔をした彼女を気遣った通いの老女中が、客間へと案内したのだった。僕は客間の入り口から顔を覗かせて、「日万里さん」と声をかけた。彼女は驚いて顔を上げ、僕を見つけると、「おじゃましてます」小さく頭を下げた。表情が硬いのは、昨日のできごとを頭の中で反芻しているからだろうか。

「どうしたの、突然」

 尋ねると、日万里さんは困ったように眉を寄せた。

「堪忍です。いてもたってもいられんくて、気ぃついたらここに着いてしもうてて……」

 不思議な縁もあるものだ。僕は部屋へと足を踏み入れ、日万里さんの前に座った。
 彼女は僕の姿を見て、小さく息を飲んだ。

「史さん、その姿……どないしたんですか?」
「もうすぐタイム・リミットみたいでね」
「たいむ、りみっと?」
「僕の時間は永遠じゃないということだ」

 手は透け、輪郭は光を受けてぼんやりと白く発光している。まるで幽霊だ。実際はそれに近い存在、といったほうが正しいか。兄さん以外に誰にも見えず、気付いてもらえない。それがこの三年間の僕だった。
 けれど、日万里さんが現れたことで事情は一変した。彼女は僕を視ることができ、そして話すことができる。それは、兄さんか彼女に心を開いていことに他ならない。

「日万里さん、少し庭を散歩しませんか?」

 藤棚がとても綺麗ですよ、と僕は微笑みかける。日万里さんは静かに頷いた。
 連れだって歩きながら、日万里さんに僕らの過去を語り聞かせた。外交官だった父が家族とともに十六年間英国で暮らしていたたこと、七つ歳の離れた兄さんと僕が通っていた全寮制のカレッジのこと、やがて両親が流行り病で亡くなり僕らは日本に帰らざるをえなくなったこと――そして。

「僕は三年前、日本に帰るために乗った蒸気船と一緒に沈んで溺れ死んだんだ。十五歳になったばかりで、そう、兄さんは立て続けに家族を失った」

 庭の隅に植えられた藤は見事な色を称え咲き誇っていた。やわらかく甘い香りが辺りに広がる。藤棚の下に立った日万里さんは顔をほころばせ、その美しさに見とれていた。けれど、僕の言葉に視線をこちらへと戻した。哀しげな表情の端に、その内に秘めた優しさが顔を覗かせる。
 僕はそっと微笑み、言葉を繋いだ。

「兄さんは強くないから、家族を失った悲しみに飲まれたんだ。抜け殻みたいになってね……だから自分の記憶と引き換えに、僕を作り出した」
「史さんは幽霊やないんですね」

 答える代わりに、僕は彼女の瞳の奥を覗き込んだ。

「日万里さん、僕の願いをひとつ聞いてくれないかな」

 兄さんは『弟』という幻想を作るために、大切なものを自ら手放したのだ。あれから三年経ったが、兄さんの時はずっと止まったまま。彼は記憶を何度も失い、終わりの来ない『はじまり』を繰り返している。あんなに好きだった手記を書くことが、単なる生きるための手段となってしまった。

「君と出逢ったことで、兄さんは変わろうとしてるみたいなんだ」
「うちは、そんな、大層なことはしてません」

 日万里さんは表情を曇らせた。昨日のことを思い返したようだ。屋敷を訪れたのも、謝罪をするため、と僕は予想していた。あながち間違ってはいないだろう。気高さをまとったその奥には、優しく無垢な少女が隠れてる。兄さんはきっと、そんなところに惹かれたのだ。

「日万里さんは兄さんが好き?」
「えっ……そんな、好きなんてけったいな感情はうちにはようわからんし……素敵なおひとやなとは思いますけど」

 みるみるうちに顔を赤く染めていく彼女に、僕はくすくすと笑った。

「今は、それで充分だよ」

 日万里さんへと手を差し伸べる。彼女は躊躇うように腕を伸ばした。震える指先が僕に触れたとたん、虹色の火花が散り、彼女が小さく声を上げる。その瞳に涙が溜まっていくのが見えた。
 とたん、僕は体が軽くなっていくのを感じた。頭がぼうとして、宙に浮いているような感覚だった。指先から光の粒子がふわりと舞い上がり、日万里さんの手の中へと集まっていく。彼女は戸惑いの色を浮かべたまま、動くことができないでいた。

「史さん、うちはどないしたらいいんですか?」

 かすれた声だった。彼女は僕の身勝手な願いを叶えようとしているのだ、とぼんやりとした頭で考える。

「その手記を、兄さんに渡してほしい」

 喉から声を発している感覚は最早なかった。薄れてゆく己の姿を哀しいとは思わない。日万里さんの手の中に形作られてゆく星空色をした古い手記を確認して、安堵すら覚える。これが僕の役目だったのだから。
 堪えることのできなかった涙が少女の頬を静かに伝う。兄さんの大事なひとに渡せてよかったと心から感じた。

「ありがとう」

 声にならぬ声は風に乗って彼女の耳に届いただろうか。
 僕はそっと瞳を閉じる。
 まなうらに、あの夜に兄と見た星の海を見たような気がした――。




 その日、私は予感のようなものを感じていた。
 彼女から星空色の手記を渡された時、それは確信へと変わった。
 海水に濡れた紙の端は崩れ微かに海の匂いがする。躊躇いながら頁をめくると、頭の中をキネマトグラフのように映像が流れて込んできた。それは、私が手放した記憶たちだった。
 流れ込んでくる記憶の波を受け止めながら、とめどなく溢れ出る涙を押さえることができなかった。
 最後に流れた記憶は、弟が無邪気に笑う姿とあの星月夜の風景。

 私の記憶が還ってきたこの日を、忘れることはないだろう。


 ――一九〇五年五月某日 最後の手記に寄せて

Back | Home | Send message