あれは水晶の中で閃く炎であり、星だ。星の集まりは銀河となり、銀河の集まりは宇宙となる。無限に広がる宇宙には、地球で昔から語り継がれる星座の物語がある。
低く唸りをあげながら走る電車の揺れに身を任せながら、
その向こうから、一筋の尾が現れ、眩しいほどの光が窓いっぱいに広がる。ハレー彗星だ。
「県庁前、県庁前です」
無機質な車内放送が流れて、がたんと電車が緩やかに減速していく。
とたん、大きな力に吸い込まれるように車窓の太陽系は遠く離れ、電車がプラットホームに滑りこむとともに、何事もなかったように日常が姿を取り戻した。
ふみはゆっくりと立ち上がり、制服の裾を直すと、無機質な音をさせながら開いた扉をまたいだ。蛍光灯に照らし出されたプラットホーム。何だか夢を見ていたような心地だ。小さく伸びをして、次の目的地へと走り出した緑の車両を見送った。
改札口を抜けて地上に出ると、光を含み青く晴れ渡った空が出迎えてくれる。
四月を過ぎ、陽気も随分と穏やかになった。清楚で気品のある紺色ワンピースの制服はお気に入りだけれど、こんな初夏のような昼下がりには野暮ったく見えることだろう。
気を取り直し、ポケットの中から小さな紙切れを取り出す。二つ折りのなんの変哲もないメモ用紙。開けば、達筆な字で北野四丁目と番地、その下には「満天堂」と書かれている。親切なことに「浅黄色の屋根の洋館哉」と走り書きがあった。
ふみは鞄を抱えなおして、地下鉄の入り口の影から足を踏み出した。立ち並ぶ建物の向こうには青々と葉を躍らせる山がそびえている。見慣れた神戸の街の景色だった。
大通りを渡り、石ブロックの歩道を歩いて数分ほど。旧校舎を使った工房や洒落たお店を何件か通り過ぎ、白と深い緑の美しいシュウエケ邸を進み、小さな路地に入り込む。蔦植物が全てを覆いつくし、元々どんな壁だったのかもわからない錆びれた建物を過ぎると、いよいよ閑静な住宅街が広がる。
もう一度、あの小さなメモに目を通した。
「このあたりだと思うのだけれど」
ふみは独り言ちて、あたりをくるりと見渡す。近くの電柱に表記された番地は、書かれた数字と同じものだ。つつじの花がこぼれんばかりに咲き競う真白い塀に沿って、注意しながら歩を進める。
うなじをつうと汗が伝う。視線の隅を小さな黒い影が飛び去った。道の先の塀にとまったのは、一羽のツバメ。ぴちぴちぴちとせわしなく囀っている。
あ、と思わず呟いた。背の高いポプラの木の向こうに、浅黄色の屋根が見えたのだ。踵を鳴らし、大またに歩みを速めた。
屋根の姿がはっきり見える場所に出ると、そこにはこじんまりとした小さな二階建ての洋館が建っていた。白い漆喰が、太陽の光の粒を柔らかく反射してぼんやりと浮き上がる。
正面の扉の硝子に、『MANTENDOU』と白く美しい書体でお店の名前が書かれていた。隣には浅黄色の枠に縁取られた大きな窓が一つ。窓辺には、いつか本の古写真で見たアンティークの天球儀と星座早見盤が飾られていた。
オープンと書かれたプレートを確かめて、綺麗な花の細工のされたドアハンドルを前に押す。カランカランと扉のベルが鳴った。
外から差し込む光が店内をうっすらと照らし出していた。カウンターには誰もいない。どこからか、古めかしいからくりの音が耳に届いた。
「こんにちわ……」
ふみは少し遠慮ぎみに声をかけた。
けれど返事はない。
どうしたものか、と考え、入り口でぼんやり立っているわけにもいかず、奥へと進んだ。
綺麗に整頓された店内。壁の一つには本がたくさん詰められた高い棚があって、その向かいの壁には蝶やトンボや不思議な色合いの甲虫といった昆虫の標本や、ヨタカと小さく隅に書かれた羽の標本、そして植物を押し花にして飾った美しい額が飾られている。
「わあ、お祖父ちゃんの話した通り」
アンティーク風の机には、天球儀に、古めかしい望遠鏡、十二星座を時間のひとつひとつ振り分け黄道を再現した懐中時計、夜空を閉じ込めた美しい細工のブローチ、硝子細工の竜胆の花束……
見たこともない不思議なものたち。そのほとんどが宇宙に関連したものらしいとすぐに気付いた。
満天堂は天文と名前のつくものならなんでも取り揃えているという、少し変わった骨董店なのだ。
しかし、肝心の店長はどこにいるのだろう。
「あのっ、すみません。誰かいらっしゃいますか?」
ふみは大きな声を出すのが苦手だ。おまけに、いささか緊張しいである。祖父にお使いを頼まれていなければ、きっとひとりで来る事はなかっただろう。
(困ったなあ……)
小さくため息をついたと同時に、かたんと何かが落ちる音が聞こえた。思わず背筋を伸ばして、息を潜める。カウンターの向こうには薄く開かれた扉があって、微かに光が零れだしていた。
失礼かと思ったけれど、ふみは気になって、小さく軋む板張りの床を奥の扉へと向かった。
一瞬。
あたりがすうっと水彩絵の具の質感に似た淡い青に染められてゆく。まただ、とぼんやり考えた。透明な水の膜を張ったように、視界がゆらゆらと揺らめき切りそろえた髪がふわりと浮き上がる。
口から吐き出される息は、七色の泡となって零れ落ちた。不思議なことに呼吸が苦しくない。
泳ぐように辿り着いた扉の向こうには、庭に面した六角形のサンルームがあった。
色とりどりの魚が目の前を優雅に通り過ぎて、サンルームに入ってゆく。シフォンのレースのような長い尾びれが、揺り椅子で眠る青年の頬をくすぐった。
驚いたことに、青年はくすぐったそうに身じろぎしたではないか。ふみは息を凝らし、じっとその様子を見つめた。瞳がゆるりと開かれる。
「おや?」
間の抜けたような、なんとも穏やかな呟きだった。
「僕はいつのまにか、誰かの心象スケッチに招待でもされたのだろうか」
チェロの調べのようなその声は、すうと耳に心地良く響く。青年は目が醒めたばかりの、どこかぼんやりとした調子で手を伸ばし、目の前をひらひらと泳ぐ魚に軽く触れた。
とたん、水の膜はシャボン玉の弾けるようにすうと消えてしまった。
青年は眠たげに目を擦り、ようやくして、ふみを見止めた。足元に落ちていた本を拾い(あの何かが落ちたような音はそれだったらしい)、問いかけた。
「おや、お客さんでしたか」
「あ……ごめんなさい。声をかけたんですが」
「そうでしたか」
青年は気にした風でもなく頷いて、揺り椅子から立ち上がった。顔にかかった艶やかな前髪を横に撫でつける。ひょろりと背の高い、十六歳になったばかりのふみと十は歳が離れているであろう青年だった。
「どうやら、困らせてしまったようだね」
すまなさそうに、はにかむ。
「それで、お嬢さんはどのようなご用件で?」
青年の謎めいた雰囲気に呑まれていたふみは、瞬きを二回ほど。そしてようやく自分に問いかけているのだと理解して、慌てて言葉を紡いだ。
「そ、祖父のお使いできました」
「祖父?」
「
ああ、と青年は笑った。
「じゃあ、君は小鳥羽さんのお孫さんだね」
「はい、小鳥羽ふみといいます」
緊張が少しほぐれ、ふみは肩の力を緩めた。
青年は真ん中に置かれたテーブルに座るようすすめると、サンルームから繋がるもう一つの扉の奥へと姿を消してしまった。ふみは言われた通りに椅子に座り、鞄と一緒に持ってきていた紙袋から、小さな黒い箱を取り出して机に置いた。祖父から預かったものだ。
頭上でかちっと音がしたので、驚いて見上げる。どうして気付かなかったのか不思議なほど。ローマ字の文章や十二星座記号が描かれた水色の天井には、糸で吊るされた金色のボールが不規則に並び、浮いていた。どうやら、それぞれが宛がわれた金色の丸い線の上をゆっくり動く仕掛けらしかった。
「アイジンガー・プラネタリウムのレプリカだよ」
銀のお盆を手に戻ってきた青年は、熱心に天井を見上げるふみに説明した。ふみは慌てて視線を下ろした。目の前に、そっとティーカップが置かれる。
落ち着きのある香りはアールグレイだ。
「ありがとうございます」
小さく笑うと、どういたしまして、と穏やかに返される。青年は向かいの席に座りながら、そう言えば名前を言っていなかったね、と思い出したように呟いた。
「僕の名前は長くて、間違えられやすいんだ。だから、まわりからは星名と呼ばれている」
君もそう呼んでくれたらいいよ、とティーカップを手に取り、丁寧な所作で紅茶を飲む。
ふみもティーカップを手に取りながら、改めて青年の様子をこっそり伺った。
整えられた烏羽色の髪と同じ色の瞳、真っ白なシャツと黒いベスト、ループタイ、シャツの袖から伸びる長い手。浮世離れしたような、そんな印象を受ける。祖父が、いささか変わり者だが驚かないように、とふみに言い含めていたことを思い出した。
それで、と星名はティーカップを置く。
「それが小鳥羽さんからの預かり物だね?」
深い色の瞳をふみに向けた。
ふみは頷き、両掌にようやく収まる黒い箱を星名に渡す。彼はポケットから白い手袋を取り出し手にはめ、失礼、と一言伺ってゆっくりと箱を開けた。
「見事なものだね、さすがは小鳥羽さんだ」
中から現れたのは小さな黒い円盤だった。星名はそれを窓の方へと向け、角度を変えたりしながら、うんうんと頷いている。
「それは何ですか?」
黒い箱について何も聞かされていなかったふみは、ずっとその正体が気になっていたのだ。
「これはプラネタリウムの投影機に使われる恒星原版だよ。原版には無数の小さな穴が開けられていて、簡単に言えば、これを組み込んで光を当てると星が映し出される仕掛けなんだ」
ほらご覧、と星名さんは恒星原版をふみにも見える位置で光にかざす。黒い円盤だと思っていたその中心で、無数の光が一つの宇宙を作り出していた。
「わあ、綺麗」
思わず、感嘆の声が漏れる。
それは確かに、小さな宇宙だった。白鳥座のデネブ、琴座のベガ、鷲座のアルタイル――夏の大三角。その真ん中を、光の粒でできた天の川が流れていた。
手に収まるほどの小さな夜空のレプリカ。星名は少女の楽しそうな様子に、満足げに笑みを浮かべた。
「この恒星原版は黒曜石でできていてね。だから、加工に少しコツがいるんだ。小鳥羽さんに直接お礼が言えないのが残念だよ」
ふみは申し訳ないように、そっと眉尻を下げた。
「実は、祖父が足を痛めてしまって。歩くのが辛いみたいなんです」
一週間前、祖父は階段を踏み外して足を捻挫したのだ。なんてことはないと、強がっては見せるものの、支えなしでは歩くのもままならない。
満天堂にも、本当ならば祖父が訪れるはずだった。
「そうか……小鳥羽さんもそんな歳になってしまったんだね。お大事に、と伝えてください」
彼のことだからすぐに良くなると思いますが、と星名さんは小さく肩を竦めてみせた。
不思議な話し方をするひとだ。
けれど、不愉快になるようなニュアンスではない。チェロの調べのような穏やかな声は、ずっと聞いていたいような、そんな心地にさせられる。星名は、今まで見てきた大人達とどこか違う雰囲気を持っている気がするのだ。
「君はもう一つなにか持ってきているね」
星名が真っ直ぐふみを見つめる。どこか楽しげな様子に、どきりとした。このひとは、千里を見渡す瞳でも持っているのかしら。
深い瞳の奥には吸い込まれそうな夜闇。ふと、瞳の中に燐光が見えたような気がした。
ふみはふわふわとした奇妙な気持ちで、紙袋の底に忍び込ませていた肌触り良いビロードの袋を取り出した。満月の夜の色をした、美しい布だ。
少し迷うようにその袋を胸に抱え、けれど、ふみはすぐに心を決めて姿勢を正した。
落とさないよう慎重に、差し伸べられた星名の掌に袋をゆっくりと乗せた。引き込まれるように、細くしなやかな星名の片手に収まる。
「開けても?」
「……はい」
ふみが頷くのを見届けて、星名は袋を閉じている紐を解いた。
中から出てきたのは、林檎一つぶんほどの大きさと重さの、冷たくすべすべとした黒い多面体の箱。アルキメデスの立体を模ったもので、正方形と六角形を組み合わせた複雑な形をしている。
手の中で回すと、光に反射して波のような幾何学模様が浮かび上がった。
その多面体の一面に丸い覗き穴がある。透明なレンズが填め込まれていて、外から光が入らないようにカバーがされている。望遠鏡の覗き穴を思わせる造りだ。
星名はその覗き穴の目をあてがった。
「おや?」と片眉が驚いたように上がる。
「なにも見えないね。もしかして、壊れてしまっているのかい?」
片方は覗いたままにして、星名は閉じていたもう片方の目を少女に向けた。
ふみは力なく頷いた。唇をぎゅうと噛みしめ、手を祈るように膝の上で組んだ。
「それは、友人が大事にしていた小さな天体スコープなんです。覗き穴を覗くと中で満天の星を見ることができるんですが……」
ふみは苦しげに眉を寄せた。
「ずっと前から黒い空間がポッカリ開いたように、なにも見えなくなってしまっているんです」
「うーん、不思議なからくりが使われたものであるのは、なんとなくわかるのだけれど」
天体スコープをビロードの布の上に置くと、星名はもう一度うーんと唸った。顎に手をあててなにやら考え事をする。
その様子に、あの、とふみは言葉を紡いだ。
「祖父から、満天堂さんはものを修理するお仕事もされていると聞きました」
「ああ、僕はもともと時計屋だったからね。趣味が昂じて今は骨董店をしているわけだけれど」
ものを直すのは得意だよ、と星名は頷いてみせる。
「なるほど、君はこれを直してほしいわけだね」
「はい、お願いできるでしょうか?」
いつか天体スコープを直すときのために、こつこつとお金は溜めておいた。けれど、どこに修理を頼めばいいのか分からずじまいに、月日は過ぎ、そして祖父からこのお店のことを聞いた。お使いを頼まれたのは、幸運な出来事だ。
「いいですよ。なんとかしてみましょう」
「あ、ありがとうございます!」
嬉しさに勢い良く椅子から身を乗り出したふみに、星名はくすくすと柔らかく笑う。少女ははっと我に返り、恥ずかしさで赤く染まった耳を思わず押さえた。