02
 カランカラン、と扉のベルが鳴った。おや、またお客さんかな、と星名は立ち上がる。少し待ってはくれないかと困ったようにお願いをされて、どうぞおかまいなく、と笑って見送った。
 星名はお店へ続く扉を通る。開け放たれたままになった隙間から、ふみは少しだけその後ろ姿を視線で追った。いらっしゃいませ、とくぐもった声が耳に届いた。彼の背中越しに、丸眼鏡をかけた中年の男性が立っている。学者のような風貌だ。

「おや、先生」

 見知った相手なのか、星名は親しげだ。顔は見えないけれど、笑みを浮かべているかもしれない。ふみは好奇心を押さえられずに耳をそばだてた。

「やあ、星名くん。元気そうでなによりだよ」
「先生こそ。なにか新しい発見はありましたか?」

 ははっと、男性はどこか皮肉を込めて笑った。

「大したものは発見できておらんよ。出てくるのはせいぜいくるみの化石ぐらいだよ。それより君、頼んでいた例のものは見つかったかね」

 期待を乗せた声音は、好奇心を誘う。ふみはそうっとふたりの様子を覗った。

「ええ、お出ししますね」

 星名は快く頷くと、カウンター下の引き出しのたくさんある棚の前に屈んで、何かを探すように指を滑らせた。やがて縦に長い引き出しで指は止まり、丸い金具に手をかけ開く。
 取り出されたのは、透明な硝子でできた砂時計。
 中には、きらきらと輝く白い砂のようなものが詰められていて、さらさらと流れたとたん、赤い光を放ったような気がした。

「プリオシン海岸の砂で作った砂時計です。イーハトーヴに行くのに骨が折れましたよ。しかし、これを使って何をするんですか?」

 はて、どこかで聞いたような名前だ。海外の有名な海岸だっただろうか。なんだか遠い世界の話をされているような気がして、ふみは、果たして自分が聞いているのは現実の言葉なのだろうか、と思わずにはいられなかった。
 差し出された砂時計を、男性はそうっとひっくり返し、流れ落ちる砂に感嘆の声を上げた。

「懐かしいなあ。別段、何かするというわけでもないよ。ただ無性に懐かしくなって、たまらなくなったんだ」

 本当に感謝するよ、と目を細めて眺めていた男性は、短く礼を述べると、砂時計を柔らかな布に包んで大きな鞄の中にしまった。

「では、お暇するとしよう。私は忙しくてね、これから生徒達の論文を読まなくてはならないのだ」
「またお越しください。お待ちしております」 

 カランカランとベルが鳴る。
 お店の中はしんと寂しい静けさを取り戻した。
 サンルームに戻ってきた星名さんは、ふみの顔を見てどこか悪戯めいたような、まるでこっそり見ていたことに気がついているように、薄く唇を開けた。

「あのお客さんは古生物学者でね。研究や発掘が押し詰まると、逃げるようにここにやってくるんだ。僕は古生物学はてんでわからないが、太古の生き物の話はなかなか面白いよ」

 そして話を切り替えるように、星名は机に置かれたままにしていた天体スコープを袋に入れ、真面目な顔をした。

「この天体スコープはしばらく預かりますね。直せるか調べてみないといけない。さあ、今日はもう遅い」

 窓から見える庭は、いつの間にか夕暮れの色に染まり始めている。
 ふみは慌てて立ち上がり、制服の裾をぱっとはたいた。いそいそと鞄を肩にかける少女を、星名はどこか楽しそうに見つめている。何故そんなふうにするのだろう。首を傾げると、いや失礼、と目を逸らされる。

「ふみさんが僕の知っている子と似ていてね」

 謎は深まるばかりだけれど、それ以上話す様子はないとみて、ふみはくるりときびすを返して部屋を出た。
 星名はすっかり暗くなったお店の隅の、色とりどりのステンドグラスで作られた電気スタンドの明かりをつける。ぼうっと流れ星の絵が浮かび上がった。
 扉を開けると、カランカランとベルが鳴る。見上げると、それは銅色の鈴蘭の形をした可愛らしいものだった。

(なんだか、おとぎ話の世界のお店に来たみたいね)

 いまさら、そんなことを考える。
 外はいよいよ日が沈む準備の最中だ。頬をなでる風はひんやりとしていた。ツバメがぴーと高く囀って、青と赤の混ざり合った空を横切った。

「また、一週間後においで」

 振り返る。
 星名は扉が閉まらないように、軽く身体を預けている。黒い瞳が、空を映し出していた。ふみは軽く頭を下げる。挨拶をして帰路に踏み出そうとしたとき、星名が思い出したように呼びとめた。

「綺麗な心象スケッチをみせてくれてありがとう」

 夕暮れの中で、その笑みは妖艶なものへと姿を変える。背筋がざわりと疼いた。

「心象スケッチ?」
「まあ、それは僕の古い友人が作った言葉だけどね。心象風景、といえば君もぴんとくるものがあるのでは?」


 小さい頃から、ふと気がつくと見知らぬ情景が目の前に広がることがあった。
 触れられない陽炎のような景色が、どうやらふみの心の奥底にある心象が形を得て現れたものらしいとわかったのは、それが自分にしか見えないと気付いたからだ。
 けれど星名の言葉は、あの不可思議な世界を見たということにほかならない。ふみは、押し黙ったまま星名の様子を伺った。驚くでもなく気味悪がるでもなく、それがごく普通であるかのような落ち着いた表情だ。
 あの、と言いかけたふみを星名は手をあげて止める。

「もう帰りなさい。もうじき夜になる」

 なにか見知らぬ力に押されるように、ふみは駆け出していた。
 体がふわりと軽くなったように、風が背中をおしているように、坂を駆け下りる。街灯がチカチカと灯り始めた大通りに出たとたん、足は止まり、目の前をすれ違う車の音が現実へと引き戻してくれる。早くなった鼓動を落ち着かせるように手を胸に当てた。
――また、一週間後においで。
 その言葉は頭の中を何度も反芻した。

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