足下に小さな白いハンカチが落ちていて、先へと動かした視線が、ひとりの女子生徒を捉えた。
彼女の落し物らしい。ふみは教科書を落とさないようにぎゅっと抱え、ハンカチを拾うと、少女の後を追いながら「すみません」と声をかけた。
振り返った少女の姿を見止めて、はっとふみは息を飲んだ。女学園の中で知らぬ生徒はいない。高等部三年生のかおる子先輩だった。
茶色の愛らしい瞳が、不審げな色を滲ませた。ふみは慌てて、白いハンカチを差し出した。
「先輩、落とされましたよ」
「あら、ありがとう」
ハンカチを受け取り、かおる子はふわりと笑う。ふみは言葉にならないというように、頭を横に振った。少女が廊下を曲がるのを見届けて、自分も教室へと向かった。
今日は、あの日からちょうど一週間。勉強道具を鞄に仕舞い込み、チャイムがなるのを待って教室を出た。
背中でひそひそと囁く声が聞こえる。「ねえ、知ってる? 小鳥羽さんのお父さん、海外へ逃げたきり帰ってこないんやって」「どうして?」「なんでも、警察に追われてるんだとか」「こわーい」聞きたくない言葉は容赦なく思考に絡みつく。否が応にも、クラスメイト達の厭らしい表情が目に浮かんだ。
あんな噂はまったくのでたらめだ。彼女達もそのことを知っているはずなのに。
足早に校門を出て、ようやく小さく息をついた。ごきげんよう、と気取ったふうに言葉を交わす生徒達の間を縫って駅へと向かった。
満天堂に着いたとき、扉の前に同じ女学園の制服を着た人影を見つけてどきりとした。どうして、と踵を返そうと思ったけれど、すぐに誰であるかに気付いて動きを止めた。
かおる子はどこか寂しげな表情でお店を見つめていた。制服のワンピースが風に軽く翻り、りんごの甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐった。その瞳がゆっくりとこちらへと向けられた。
とたん、驚いたように見開かれる。
「あら、あなたは小鳥羽さん?」
声を駆けられては、知らぬ振りも出来ない。名前を覚えられていることを不思議に思ったけれど、ふみは「ごきげんよう」と眉尻を下げて、困ったように伝統の挨拶をした。
「ごきげんよう。もしかして、あなたも満天堂さんになにかご用?」
小鳥を思わせるような可憐な顔立ちだけれど、声は凛として響き渡るハープの調べだ。その音色で紡がれる言葉は洗練された雰囲気を作り出す。
ふみが何かを言おうとする前に、お店の扉が開いた。出ててきたのは一匹の、煤を体いっぱいに被ってしまったような灰色の猫だ。猫は金色の瞳をちらりと上げると、にゃあとひと鳴き、向かいの家の茂みへと姿を消した。
「おやおや、可愛らしいお嬢さんがた、揃ってどこかへお出掛けですか?」
のんびりとしたチェロのような声音のあるじは、何故か感心した表情でふたりの少女を見ていた。お入りになられますか、と星名さんは扉を大きく開けて、お店の中へと手を向けて笑う。
ふみとかおる子はお互いに肩を竦めて、言われるがままにお店へと足を踏み入れた。案内されたのは、あの柔らかな水色が優しげに出迎えるサンルーム。
少女達が座ったのを確かめると、星名さんは奥へと消えてしまった。
「やっぱり素敵なプラネタリウムね」
かおる子は天井を見上げて、そっと息を吐き出した。耳を澄ませば、小さくカタカタとゼンマイの動く音が聞こえてくる。
「二百年以上も前、オランダに住んでいたアイゼ・アイジンガーが七年かけて造った太陽系の模型なのよね」
その昔、ある明け方のことだ。東の空に彗星、金星、火星、木星、そして月が一度に見える珍しい現象が起こったのだそうだ。天文学の知識がないひとたちは、世界が終わるのだ、と恐れおののいたのだと言う。アイジンガーはそれを重く見て、人々に正しい知識を教えるためにこの機械仕掛けの模型を造ったのだ。
あまりにも正確なその造りは、彼の情熱的な思いに形を与えたものなのかもしれない。
「きっと星が好きで好きでしかたがなかったのね」
「そうですね」
それほど時間がかからずに、星名さんが銀のお盆に氷の入った硝子のコップを二つと、瓶に入った透明な液体を持ってきた。瓶のラベルには「チューリップサイダー」と書かれてる。
「チューリップのシロップとサイダーを合わせて作ったものだよ。ふたりとも歩き疲れただろう」
コップになみなみと注がれたサイダーは、ぱちぱちと小さく泡を立ててはじけた。どうぞ、と笑みを浮かべ、星名はふたりの感想を心待ちにしているようだった。
少女達は未知の味に恐る恐る唇をつけた。
「わあ、美味しい」
ふみとかおる子はお互いに顔を合わせた。星名は、それはよかった、と朗らかに目を細めた。
「さて、かおる子さん。これが君が僕に頼んでいたものだよ」
サイダーが半分になったコップの氷がからんと音を立てる。
かおる子の前には長方形の木箱が置かれた。蓋には、撫子の花をくわえたカササギをモチーフにした細かな彫刻が施されていた。見るひとを魅了する美しいオルゴールだ。
かおる子は首からかけていた金色のネックレスをそうっと外した。小さなアンティークの鍵だった。持ち手には、アンタレスの石。真っ赤なルビーの輝き。
その鍵をオルゴールの小さな穴に差し込んで、くるくると回す。かおる子は震える指先で、オルゴールの蓋を開けた。
星を弾くような可愛らしいメロディーが流れた。そして、浮き上がったのは、楽しげに笛を奏でる顔のそっくりな少年達だ。彼らはメロディーに合わせて首を動かしたり、腕や足を動かしたり、とても楽しげだ。
「チュンセとポウセ、双子の星よ」
かおる子の声は震えていた。その柔らかな頬をころころと涙が一筋流れては、また一筋。
ふみは慌てて、ハンカチを差し出した。けれど、ありがとう、と囁いたかおる子は受け取らずに指の平で涙を軽やかに拭う。
オルゴールのメロディーが部屋を満たしていく。
かおる子が小さく口ずさんだ。
ツィンクル、ツィンクル
リトル、スター
きらきら星の歌は楽しげで、けれどどこか哀しげで。星名は目を閉じ、メロディーを聴いている。
窓の外では柔らかな日差しを浴びて、緑が鮮やかに踊る。柔らかく、切ない、昼下がりだった。
「ありがとう、星名さん」
メロディーの残響も消えた頃、かおる子はそうっとオルゴールの蓋を閉じた。
いいえ、と星名さんは答える。
「本当に良かったのですか」
ふみには、ふたりが何について話しているのか想像もできない。コップを手に取り、サイダーを飲む。爽やかな花の香料が鼻腔を満たした。
「いいのです。思い出にしたほうがいいのです」
その言葉に、ふみは息苦しくなった。そんな様子に気付いてか、かおる子は淋しげな笑みを作った。
「わたし、好きなひとにフラれてしまったの。しかもそのひとは、勝手に死んでしまうんだもの」
意地悪なひとだったのよ、わたしをひとり置いて行ってしまうのだから。柔らかく紡がれるかおる子の言葉は、愛情の裏返しだ。
「せめて、彼と一緒に歌ったこの歌を思い出でにって考えたの」
こんなわたしは愚か者かしら、と尋ねる弱々しい声に、いいえ、とふみは言葉を重ねた。
「わたしも大切なひとをずっと前に亡くしました。でも、忘れられない。淋しいです」
「もしかして、その大切なひとはあの天体スコープの持ち主の?」
星名は思い当たったように、呟いた。
ふみは小さく頷く。三年前、灯篭流しの晩のことだった。星祭りの熱気をはらんだ空気が肌に絡みつく、浮ついた夜。少し離れた河川敷で、灯篭が流れていく様子を観察していると、あたりに潮の満ちるようなどよめきが広がった。大人達の怒号が耳に届く。
子どもが河に落ちたらしい。その声に、ふみはお腹の底が冷えるような感覚がした。嫌な予感がして、
河へ向かうと、水辺に青白い顔の友人がぐったりと横たえられていた。救急車の音が近付く。
草むらに投げ出された白い手をぎゅうと握り閉めていた。けれど友人は目覚めることも、手を握り返すことも出来ずに、そのまま帰らぬひととなったのだ。
「わたし……」
ふみは昔のことを語りながら、あることに気がついて口元に手を当てた。じっと彼女の話に耳を傾けていたふたりは、軽く瞬きをする。
「わたし、友人の名前を思い出せないんです」
大切な友人であるはずなのに、思い出は鮮明なのに、名前を思い出そうとするとずきっと頭が疼く。
かおる子はそっとふみの両肩に手を添えて「大丈夫よ」と耳元で囁いた。ふみ目頭の熱くなるのを感じて、ぐっと唇を引き結んだ。星名は考え事をするように難しい顔でふたりを見つめていた。
「なるほど、だから」
長く息をつく。少女達は次に続く言葉を待っている。
「ふみさんが僕に預けた天体スコープ。解体して確認したんだ。けれどなにもおかしな箇所は見つからなかった。いや……」
星名さんは言葉を選ぶように視線を巡回させた。
「星がそっくり
ふみは驚いたように目を見開く。けれど、ふと思い当たることがあって、そうですか、と小さく頷いた。やはり、直すことはできないのだろうか。
「でも今の話を聞いて、ひとつの糸口が見つかったよ。それには、ふみさんに力が必要なわけだけど」
どうする、と星名さんは首を傾げてみせる。ふみは決めかねたように、かおる子に視線を投げかけた。
かおる子はふみの両手に、柔らかな手を重ねた。
「一番のさいわいに至るためには、苦しみも悲しみもみんな神様のおぼしめし」
わたしの大事なひとが、いつも言い聞かせていたの。だから、きっと悪いようにはならないと、かおる子の声のない言葉が瞳を介して伝わる。
ふみは揺らぐ視線をぎゅうと引き締めた。
「わかりました」
逃げていてはしかたがないのだ。心の中で燻る気持ちから逃げてばかりでは、きっとあの星空は戻ってきてはくれない。
「では、また改めておいで」
雨が降り始めたようだから、と星名は窓へと視線を移す。瞬く間に灰色に包まれた庭に、ざあっと雨音の奏でが耳に届いた。
少女達は傘を並べて、喋るでもなく雨の中を歩いた。傘から落ちる雫を数えていると、「見て」とかおる子が驚いたように天を指した。
空を大きな灰色のクジラが泳いでいた。低く穏やかな歌を奏でながら、数十頭の大きな群れが空を覆いつくしている。これが雨雲を成し、吹き上げられる潮水が雨となって降り注いでいるのだ。
その雨がきらきらと輝く粒へと姿を変える。ダイヤモンドとサファイアの涙の雫だ。足元には季節外れの竜胆の花々が、街を覆いつくすように咲いている。その花弁に宝石があたると、りん、りんと鈴の音が響く。
「素敵な風景ね」
かおる子はまるでなんでもないように、微笑んでいる。あなたの心象スケッチとても素敵よ、かおる子は繰り返して呟いた。
ふみは少し照れたように、ありがとうございます、と笑った。かおる子には見えるのだ。そのことが少し嬉しい。
「そうだわ、あなたに渡したいものがあるの」
ふと、思い出したようにかおる子は鞄の中から一冊の本を取り出した。古書風の、本革ををあしらった美しい装丁だ。表紙には金で銀河を走る汽車と、英語のタイトルが描かれている。
『THE NIGHT OF MILKY WAY TRAIN』
懐かしい文字の並び。
「きっと、小鳥羽さんを助けてくれるわ」
本を開く。ある一ページに孔雀の羽のしおりが、導くように挟まれていた。
――おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。
その一節に、不思議な切なさが込み上げる。
雲が一部晴れて、空に七色の虹がかかる。少女達は虹へと歩みを進めるように、緩やかな坂を下った。