月宵の宴
 前編 
 弓道場に秋の香りをはらんだそよ風が吹き込む。
 その風の吹く方向を目を閉じ感覚で定める。跪坐の姿勢で矢を番え、立ち上がった。立ち位置を定めて弦を親指にかけ、正面で構えてから、その先にある白と黒の的に視点を合わせた。丁寧に打起こしから引分けの動作を行いながら、精神を鎮めていく。弓を引きおさめ、会、一瞬風が止むその合間を見極めて矢を放った。
 カーンと弦音が響き、その余韻も感じさせぬうちにパンと弓が当たる音がした。
 二射目も同じように精神を研ぎ澄ませ、矢を放つ。残心に訪れる洗練とした空気が五月いつきには心地良かった。
「野々宮、もう帰るのか?」
 弓を片付けていると、同級生が話しかけてきた。
「ああ、左京さんから使いを頼まれているから」
 手を動かしながら答えると、ほう、と頭上で感嘆の声が上がる。
「お前が下宿している『猫星堂ねこぼしどう』の主だったか」
「……そうだ。家賃をいれないかわりに店を手伝うことが約束だから、おざなりにはできない」
 学生服の黒の上着を羽織り、肩に弓と弓矢を入れた袋をかける。蜻蛉の柄が入った紺色の生地を使って妹が作ってくれたものだ。
 道場に向かって一礼をし、挨拶の声をかける。重なって返された労いの声を背中に受け、五月は弓道場を後にした。


 京都帝国大の弓道場から南へと歩いていくと、鴨川に出る。秋の光を受けてきらきらと水面が黄金色に揺れていた。京で秋を迎えるのはこれが二年目だが、故郷の白野の街は似ているようで違う景色だ。赤とんぼが目の前をすうっと横切り、真上へと急上昇する。その姿を横目に、五月は鴨川沿いを進み三条橋を渡る。
 真っ直ぐな路を突き進み、しばらくして路地を曲がる。二人が並んで通れる通れるほどのその小路は、寺町通のすぐ近くにあって、不思議と閑静な空気に包まれていた。軒を並べるのは古本屋や骨董屋などである。そのひとつに、五月が世話になっている骨董屋「猫星堂びょうせいどう」がぽつりと建っていた。けれど、この店の名前を正しく覚えている客は少ない。大抵は「ねこぼしどう」と呼ばれてしまい、主の左京も訂正をしないものだからすっかりその名前が定着している。
 京都の町屋らしく総二階の造りは縦に長く、いわゆる鰻の寝床のようである。一階の入り口には硝子戸が嵌められていて、外から店の中が見えるようになっている。入り口の真横にはモダンな色硝子細工の洋灯篭が飾られ、一階に突き出た小屋根には、鍾馗しょうきさんと呼ばれる厄除けの神の瓦人形が通りに睨みを利かせている。
 五月は慣れた足取りで硝子戸を開け、中に入った。月日の重みを感じられるような懐かしい匂いが体を包み込む。静かな店内には様々な骨董品が丁寧に並べられていた。呆れるほどに生活能力のない左京は、けれど店のことに関しては細やかな仕事をするのだから不思議だ。
 視線を巡らし帳場に誰もいないことを確かめてから、五月はその隣にある階段の傍にたって黒く切りとられた二階の空間へと声をかけた。
「左京さん、ただいま戻りました」
 すると、爪で床を打つ軽い足音が近付いてきた。
 二階の暗がりから出てきたのは店の飼い猫の万葉である。子猫の頃、万葉集の上を陣取って寝ているところを左京が見つけたことから名づけられたのだと聞いている。茶トラの人懐こいお嬢さんだ。
「ただいま、万葉」
 手を伸ばし小さな頭に触れる。軽くなでてやれば、体を丸め気持ち良さそうに目を細めた。


「おう、帰ってきたか」
 頭上の声に顔を上げると、二階から覗きこむ顔があった。肩にかかる長さの黒髪を後ろで一つに結び、白シャツに鼠色のズボンを履いた気取らない格好だ。今日は一日、店にいたらしい。
「二階で何をしてるんです?」
「まあ、ちょっと捜し物だ。待ってろ、すぐ降りるから」
 折り曲げた体躯を伸ばし、また闇の中へと消えてしまう。かさかさという音を聞きながら、少し高くなっている帳場の横に座り、膝に乗ってきた万葉の顎のあたりを撫でながら言われたとおり待つことにする。
 しばらくして、左京は少し埃っぽい匂いを携えて降りてきた。その手に何かの包みが抱えている。帳場の文机に置かれたそれは、立派な木箱だった。ひょろりと背の高い左京を見上げれば、
「さる高貴なお方からの急な頼まれものでね」
 とどこか悪戯っぽく口端を吊り上げる。五月は黙って頷いた。
 五月は細いながらも精悍な顔立ちをした寡黙な青年だ。口数が少ない彼にとって、左京のように話題に尽きない人といることが新鮮であり、不思議と心地良い。
 向野左京は故郷にいる兄と帝大時代の同期生だったという。そこから続く縁で、五月は居候として迎えてもらっている。この猫星堂は左京の祖父が細々と営んできた店だという。厳しい人だったようで、この店を受け継ぐことを了承してもらうまで大変だったのだ、と左京が話してくれたことがある。なにぶん、少し変わった客層もやってくる店なのだ。


 万葉の耳がぴくりと動いた。立ち上がり、入り口をじっと見入る。
「お、来たか」
 左京さんがそう呟いたとたん、清涼とした鈴の音が外から聞こえてきた。
 近付くにつれ頭の中で響く音色は段々と大きくなり、そして、ぴたりと止む。滑らかに開いた硝子戸の向こうから、影が一つ現れた。
「御免ください」
 紋付の着物に袴を履いた狐だった。
 顔を黄金の毛並みが覆っていて、三角の耳がある。目を細め、濡れた鼻先がひくりと動いた。その長く切り裂かれたような口から犬歯を覗かせ、
「小薄様のお使いで参りました」
 と穏やかな京都言葉で告げた。
「お待ちしておりました。どうぞお上がりください」
 左京はそんな不思議な容姿のお客に、にこやかに応対をする。
 そう、猫星堂でこれくらいのことで驚いていてはいけない。ここは京都。神様もあやかしも、人と同じように生活をする街なのだから。
 客間に通されたお使い狐にお茶を出し、五月は部屋の隅に正座をして控えた。
 左京が先ほど二階から持ってきた木箱を開け、しゃんと背筋を伸ばして座る狐へと差し出した。動物らしい手を器用に動かし、狐は中に収められていたものを取り出した。
 鞠のような形をした銀製の吊香炉だった。秋七草の透かし彫りの精密さに、思わず魅入ってしまうような一品だ。紫紺色の組紐を三つの吊るし穴に通し、吊るせるようになっている。三つの紐が合わさるところには小さな丸い透かし彫りの飾りがついていて、香炉の下から垂れるように、これも紫紺色の組紐が結ばれている。
「さすが猫星堂さん。見事な吊香炉や」
「気に入っていただけたようでよかったです。突然だったから、驚きましたがね」
 苦笑を浮かべた左京に、すみませんでしたねぇ、と狐は髭を少し下げた。
「うちの新しい使い狐が、誤って小薄様の陶器の香炉を壊してしまいましてねぇ」
「それは災難でしたね」
「いいえ、小薄様はお優しい方ですし、咎めることはしないでしょう。ただ、その香炉は中秋の名月にあわせて使われるもの。きっと残念がるに違いありませんから、こうして、新たなものを準備しようと思い立ったのです」
 小薄様は使いの狐たちに慕われる賢君であるのだろうと、狐の軟らかな語り口から察することができた。
 ふと視線を感じて顔を上げれば、狐の薄く開かれた瞳が五月を見つめていた。
「先ほどから考えていたんやけど、君、誰かと似ているような気が……」
 ふーむと長い息を吐きながら狐は首を傾げた。
「ああ、それはきっと野々宮家の者だからですよ」
 左京もこちらを振り返りながら言う。
 四つの目にじっと見られるのはなんだか居心地が悪くて、思わず背筋を伸ばしてしまう。
「野々宮家……ああ、一春いちはるさんの弟さんか!」
 狐が思い出したようにぽんと手を打った。
「たしかに、みどりの眼がそっくりやぁ」
「えと……」と五月は少し戸惑ったように呟いた。彼の瞳は緑に薄茶の混ざった不思議な色をしているのだ。
「一春は帝大生の頃、京都のあやかし達の中で少し有名だったのさ」
 助け舟を出すように、左京は言った。
 兄は京都にいた頃の話を弟妹に話すことは稀だったが、野々宮家は代々不思議なものと関わりの深い家柄だ。相談事を請け負うこともある。世話焼きの兄のことだから、きっとこの街でもいろんな精霊やあやかしとの出会いがあったのだろう。
「あんじょうやりなさい」
 狐は細い目をさらに細めて笑った。
 そして吊香炉をしまった木箱を抱えると、鈴がまた鳴った。
「では、また会いましょう」と言葉が頭の中で響き、見れば、狐が今まで座っていた場所にはもう誰もいなかった。これを、狐に化けられる、というのだろうか。遠くで狐の鳴く声が聞こえた。
「これはまた、術の大盤振る舞いをしてくれたな」
 左京は立ち上がると、狐の座っていた場所からなにやら摘み上げた。
 五月へと差し出されたそれは、緑の瑞々しい葛の葉だった。


「そうだ、左京さん、俺に使いを頼みたいと言ってましたよね?」
 お茶の椀を片付けながら訪ねると、そうだったな、と左京は呟いた。
 狐の吊香炉は急な依頼だったと言っていたから、恐らく五月が朝に学校へ行ってから忙しくしていたのだろう。五月の言葉でようやく思い出した様子だった。
 少し待ってろ、と左京は店へと向かい、間もなく戻ってきた。風呂敷に包まれた両手で抱えられるほどの包みを持っている。問いかけるように見つめると、
「茶道具箱だ。これを南禅寺の近くにある、香久月という旧家に届けてきてほしい」
 と左京は一つ折にした紙を手渡しながら告げた。
 紙を受け取り、開くと、住所と簡易な地図が書かれていた。
 制服から黒の着物と縞の袴姿に着替え、風呂敷と出かけに左京から渡された弓の入った袋を抱え、丸太町の停留場へと向かった。
 弓は猫星堂からの祝いの品だと左京は言った。そして出かけていく五月の背中に向かって、「くれぐれも道中に気をつけるように」と意味深長な助言をした。どうやらこれから伺う香久月家は何かしらの曰くがあるようであったが、そのことをあえて言わないところが、兄の友人というべきか。
 緑色のラインの入ったワンマンの市電に乗り、やがて蹴上線へと乗り換える。市電に揺られながら、随分と日暮れが早くなってきたな、と考える。山が近いこの辺りは、景色はすっかり秋の色へ変わっているようだった。空が茜色に塗られる時間が迫っていた。帰る頃にはもう夜なのだろうと考えた。


 南禅寺近くの停留場で降り、地図を頼りに歩いていく。京都に来て六ヶ月経つ。猫星堂の店の手伝いで京都の町をあちこち歩くこともあるが、何せ大きな街なのだ。南禅寺に来たのも初夏の頃で、左京の仕事の帰りに寄った一度きりだ。曲がる道を間違えないように慎重に自分のいる場所を確かめながら歩を進めた。
 南禅寺の近くとは言っていたが、正確にはその外れにあるようだった。
 哲学の道に入り紅葉した桜並木の下を少し進んで行くと、道の先で小さな人影が疎水の流れを眺めているのが眼に留まった。
 思わず立ち止まる。
 少女だった。齢の頃は十四ほどだろうか。肩上で切り揃えられたおかっぱ頭に、モダンな柄の着物を着ている。数歩離れていてもわかる、まるで日本人形のような整った顔立ち。透き通った陶器のような肌のせいか、その姿は指の先まで作り物めいていた。
 その手には花かごが提げられており、印象的な色の花が顔を覗かせていた。
――桔梗だ。
 切り揃えられた前髪の下の丸い瞳が、五月へと向けられる。深い闇色をした眼だ。
「君は……」
 けれど、五月は少女の向こうの気配にさっと口を噤んだ。
 赤い炎が燃えている。それは禍々しい渦を上げでこちらへゆっくりと近付いてきた。不浄な空気が辺りを包み込み、五月は思わず手で鼻を覆った。
 あれは通り悪魔だ。邪気が形をとったようなもので、人の前に現れ、その心の隙をついて取り付き乱心させる。気を静めることでやり過ごすことができるが、見合ってしまうと厄介だ。左京の忠告が当たったということか。
 花かごが地面に落ちる音で、五月は少女が凍りついたように動かないことに気づいた。その双眸は炎をとらえている。炎の中から不適に笑う顔が見えた。五月は少女に駆け寄ると、後ろから素早くその目を塞いだ。
「見てはなりません。しばらく、眼をお閉じになっていてください」
 少女の耳元で呟き、手に持っていた風呂敷を傍に下ろした。少女の身体はこわばったが、すぐにゆっくりと頷いた。
 弓の袋の紐を解き、中から弓を取り出した。弦はもう張れている。両手で顔を覆う少女を隠すように、その前に立った。ゆっくりとした歩みで近付いてきていた通り悪魔は、一瞬怯んだように止まった。その隙を見逃さず、五月は弓を引く体勢に入る。気を右手の指先へと集中させる。
――お前、邪魔をしよるか。
 頭の中でしわがれた声が響き、通り悪魔がひゅうっと飛び掛ってきた。瞬時に焦点を合わせ、五月は弦を放した。高らかに弦を打つ音が響き、白い光の線が赤い炎の真ん中に穴を空けたとたん、ぎゃあっと悲鳴のような声を上げて通り悪魔が痛みに悶えた。
 五月は再び弓を構える。
「去れ。でなければ、次の射で消すこともできるが」
 炎の中の顔が憎憎しげに五月を見返したが、ゆらゆらと景色に溶け込んで消えていった。
 弓を下ろし、少女を振り返る。その体が目の前でぐらりと傾いた。慌てて細い肩を抱え込み、地面に頭を打たないように支えた。張り詰めていた糸が切れたように少女は気絶したのだ。どうすればいいのだろう、と考えていると、「茜さま」という声とともに何処からともなく一人の女性が現れた。
 紫苑色の無地の小袖を着た、屏風絵から抜け出たような古風な人だった。ひどく心配した表情で少女の額に手を触れ、五月を見上げた。
「……あなたは猫星堂の方ですね」
 五月はその言葉に目を見開いたが、女性が横に置かれた風呂敷を指差したので納得した。風呂敷には猫星堂の屋号紋が染め抜かれているのだ。
 女性は軽々と少女を抱え上げると、振り返って「どうぞ、おいでください」と言って歩き出した。


 使いの途中なのに、という考えはすぐに杞憂に終わった。
 女性が吸い込まれるように入った屋敷の門には「香久月」と書かれた札が置かれていた。旧家と言われるだけあって、立派な屋敷だった。長く続く白壁の塀と屋根つきの門、滑らかな石畳の小庭を横切って入った玄関は六畳ほどの広さで、その隅には秋の花が飾られていた。
 五月に待つように言い置いて、女性は少女を抱えたまま屋敷の奥へと消えた。そのすぐに後に、羽織に着流し姿の男が現れ、客間へと案内される。硝子で隔てられた廊下の向こうに青々とした竹林が広がっていた。背の高い竹が光をさえぎるのか、屋敷はほんの少し暗い。
 男は「夜光」と名乗った。着物から覗く手は目を瞠るほど白く、整った顔もまるで彫刻のように作り物めいていた。彼は茶箱の道具を一つ一つ検める。どれも一品と謳われるような道具で、それぞれに月や兎、秋の七草があしらわれている。季節柄、月見の宴のためのものだろうかと推察した。
 男は丁寧に茶道具を箱の中に仕舞うと、
「猫星堂さんに、どれも良い品をおおきにとお伝えください」
 畳みに軽く手を突いて、軽く頭を下げた。
 五月もそれに倣って頭を下げる。先ほどの出来事がまるで夢のような静けさが辺りを包み込んでいた。竹林の間から聞こえてくる鳥の囀りだけが、心地良く耳に届く。
「実はこれも、祝いの品として預かってきました」
 五月は隣においていた弓袋を手に取り、申し訳なさそうに眉を寄せた。
「……すみません。ここに来る前に使わせていただきました」
 すると夜光は、かまいません、と小さく笑って弓袋を受け取った。
「あの方は、そのことを知っていて貴方に渡したんでしょうから」
「あの方……」
「左京さんですよ」
 答えたのは別の声だった。
 視線を巡らせると、開かれた障子の向こうに先ほどの女性が正座をしていた。
「真白でございます。先ほどは助けいただきありがとうございました」
 軽く叩頭した彼女に、五月は問いかける。
「彼女は大丈夫ですか?」
「はい、瘴気に当てられて今は眠っておられますが」
 そう言ったものの、真白の顔は浮かない様子だ。
 ふと五月は思い当たって、顔を手で覆った。彼らあまりにも人間離れしている。五月はこのような感覚を幾度なく感じ、そして、その勘が外れたことはない。そう、この違和感は――。
 失礼を言うようで申し訳ないのですが、と前置きをして、目の前に座る二人を見比べた。
「あなた方はいった何者なのですか?」
 すると、彼らはちょっと目を見開いて互いに視線を送った。どこか困ったような様子で夜光が肩を竦めたのを合図にして、真白がそっと唇を動かした。
「これも何かのご縁でしょう」
 真白は背筋を伸ばし、姿勢を正した。
「五月どのは『竹取物語』をご存知でございますか?」
 その問いかけに、五月は黙って頷いた。
 竹取物語は平安時代に書かれた作者不明の物語だ。光り輝く竹の中から生まれた三寸ほどの子供を翁が見つけ、やがて成長してなよ竹のかぐや姫と言う美しい娘となった。五人の求婚者たちへの難題、帝との手紙のやり取り――やがて月から迎えが来て、かぐや姫は月へと帰っていく。元々は月の住人だった彼女は罪を犯したことで地球にきたというが、その罪は謎に包まれている。
「では、もしそれが事実起こったことで、この香久月家がかぐや姫の末裔だとしたら?」
「そうなのですか?」
 すると、夜光はそっとため息をついて言葉を引き継いだ。
「もちろん物語そのものが事実というわけではないですが……かぐや姫は実在しています。千年以上前、姫は人間の娘として月の国からこの京へ降り立ったのです。ある罪を犯したために」
 夜光の隣で、真白はそっと瞼を伏せる。その背後で、暮れはじめてもなお鮮やかな緑の竹が身をしならせている。風が少し出てきたのか、葉の擦れる音が部屋の中に流れ込んでくる。
「私たちはがくや姫のお供として遣わされた、守り兎でございます。物語の中では翁と媼になりますね」
 本性は兎であるが、人間界に暮らすのではその姿はあまりにも不便なので、人の姿形を真似ているのだと夜光は言った。一千年も前のことと言うならば、彼らはいったい何歳だろうと五月は考えるも、人ならざる者にその疑問は愚問に等しい。
「月の人々はこの世界を穢れた場所だといって忌み嫌っています。何故なのかわかりますか?」
 問いかけられ、五月は考えるように眉を寄せる。
 まったく見当はつかないが、竹取物語でも同じような台詞が出ていたように思う。かぐや姫を迎えに来た月の国の人々は口々にこの世界を「穢き所」と呼んでいた。夜光の言う通りなのだろう。ふと、視線を上げると守り兎たちはそっと目を細めて五月を見つめていた。
「物思う心は災いの元だといって、月の国の人々は恐れているのです」
「物思う心……感情?」
 五月の答えに頷いたのは真白だった。
「月の国の人々は感情というものがありません。感情あるところには諍いが耐えないと、ならばそれを持たなければよいと王が定めたのです……けれど、かぐや姫は感情をお持ちになりました」
「……それがかぐや姫の罪、ですか?」
「ええ、今ではお伽噺として伝わるくらいの、ずっと昔の話ですが」
 答えた夜光は、ふっと小さく笑った。
「不思議な人ですね。驚かれない」
 五月はまっすぐに二人を見つめて、
「まあ、見聞きしたものだけが全てではないので」
 二番目の兄の言葉だ。
 あちらの世界とこちらの世界の境界線に住まう彼は、幼い五月にそう語ったことがある。何よりも野々宮家の者であれば、不思議のものと関わることは性だ。五月は幼い頃から特に獣のあやかしと縁があった。
「なるほど」
 くすっ、と夜光が笑う。そして、真白へと目配せをした。
 彼女はその意図を汲んだように、ゆっくりと頷き、改めて五月のみどりの瞳を覗き込んだ。真剣な眼差しは、覚悟をその内に宿しているようだった。
「五月どの、お願いがございます」
 二人が頭を垂れる。紡がれた言葉は空気を振るわせた。
「私たちの姫――茜さまをお守りいただけませぬか」
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