燕と花あやめ
 前編 
 俥は夏の湿った風を割って走ってゆく。
 梅雨入りから幾日か、その日は珍しく晴天だった。雨が降った次の日の空色というのは、清々しいほどに澄み渡り、白野の街を囲む遠い山々の緑をも鮮明に映し出していた。
 視線の先で燕が高く空へと舞いあがり、六都子りつこは日傘の下から、先に続く道を見た。
 両端を白塗りの壁や整えられた生垣が囲み、道は真っ直ぐ延々と伸びている。立派な屋敷が並んだこの一角は、江戸の御世には白野藩に仕えた武士達の屋敷町だった。年号が明治へと変わり、廃藩をもって彼らの多くは屋敷を手放し、今や地元の名士たちの住まいとなっている。時代の波は多くのものを飲み込みながら移り変わり、昭和へと年号を変えて三年が経った。
 遠く見える山の向こうに、太陽の光を含んだ白い雲が上がっていた。車夫には急がなくてもいいので、と伝えているので、それほど早く走っているわけではないが、その首筋には玉のような汗が浮かび上がっていた。
「平次さん、大丈夫ですか?」
 少し心配になって声をかける。
 若い車夫は振り返り、にかっと笑ってみせた。
「ご心配をどうも、野々宮のお嬢さん。これくらいの暑さでへばっていちゃあこの仕事は務まりませんで」
 なるほど、と頷いて、六都子は再び顔を上げた。
 六都子の目的地は、能見伯爵家の本邸だった。
 能見家は代々白野藩主を務めた大名家である。多くの大名華族が東京へと住いを移した中で、能見家の先々代当主は天皇陛下より賜った特例で、白野に戻ることを許された華族だった。地元の農業事業に力を入れ、地方発展の功績を上げていた。
 白野の街の人々から「花菖蒲屋敷」と呼ばれる本邸は、藩が栄えた江戸の頃からの見事な花菖蒲園があることで有名だった。伝統的な武家屋敷もあるが、先代の洋風趣味によって建てられた立派な洋館は殊更見事だった。年に一度公開される菖蒲園は街の人々に愛され、能見家はそうして永く栄華を誇っているのだ。
 そんなところへ所縁のない六都子が向かっているのは、兄の一春いちはるの言付けによるものだ。代々より野々宮家は不思議な相談を請け負ってきた一族である。当主の一春もその例に漏れず、街の人々の相談役であった。
 そんな兄のもとを能見家から知らせがあったのは、三日前のこと。
 偶然通りがかった六都子を一春が指名したのはほんの気まぐれか、それとも何か意図があってのものか。終始穏やかな表情を崩さぬ兄の考えていることを推測することは、あまりにも難しい。「直接屋敷に来てもらいたい」とのことだったので、今日、六都子は午前中に授業を終えると女学校を出たその足で、能見家へと向かっているわけである。
 俥が緩やかに速度を落とし、正面に大きな門が姿を現わした。洋風の鉄格子の立派な門を通り過ぎ、敷き詰められた小石の道を通って車寄せの前へと辿り着いた。噂に勝る、フレンチ・ルネッサンス様式の瀟洒な屋敷。外壁は白亜で、アーチ型の上げ下げ窓が均等に並んでいる。緩やかな勾配の屋根は鮮やかな浅黄色で、その天辺の塔飾りは能見家の家紋――『八つ鷹の羽車』だった。
 玄関にはひとりの女性が、六都子が降りるのを待っていた。
「六都子様でございますね? この屋敷の女中頭を務める、乙鳥おとでございます」
 彼女が礼をするのに合わせて、六都子は会釈をして挨拶を返した。紫黒色の江戸小紋の着物に黒髪を一つにまとめ、美しく背筋を伸ばしたその姿。女中頭にしてはとても若い印象の婦人は、にこやかに六都子を向けた。
 乙鳥に案内され広い廊下を歩いていくと、サンルームへと出た。大理石が床に敷かれ、白い壁に光を反射した明るい部屋だ。
「しばらくお待ちください」
 と言われ、椅子の一つに座ることにした。広く切り取られた窓の向こうには庭が広がっていて、花期を迎えた色とりどりの花菖蒲が、晴天の下で咲き誇っていた。桟橋が掛けられており、庭の真ん中には東屋があった。溜息が出るほどに美しい花菖蒲園だ。
 乙鳥は大きな木箱をもって、戻ってきた。卓子をはさみ向かい合わせに座ると、彼女は庭へと目を向けた。
「応接室でなくてごめんなさい。花菖蒲が花盛りの頃は、サンルームからの眺めが一番美しいものですから」
 音もなく別の女中がやってきて、六都子と乙鳥の前へとティーカップと焼き菓子を置く。陶磁製のカップには青色の花菖蒲が描かれていて、可愛らしい。二人で紅茶を楽しんでから、婦人は話を切り出した。
「実は、六都子様にお願いしたいことがあるのです」
 真剣な眼差しで乙鳥は切り出す。
 膝の上で組み合わされた手で卓子に置かれた箱を引き寄せた。箱は漆塗りで、二対の花菖蒲の蒔絵が施された見事なものだ。その縦に長い蓋をそっと開ける。六都子はその動作を見つめた。
 中にあったのは、一体の日本人形だった。
 吹輪と呼ばれる日本髪を結い、銀の櫛や花簪を挿している。紅い振袖には辻が花と言われる柄が染め抜かれていて目を惹いた。生地は友禅だ。指先や髪までが細やかに作られており、なにより憂いを含んだような人形の表情が美しかった。
「先代伯爵夫人であられました、曄子あきこ様の衣裳人形でございます」
 水面にぽつりと落ちる水滴のような静けさで、乙鳥は語った。
 その人形は、伯爵夫人が能見家に輿入れをしたときに、花嫁道具として持ってきたものだという。花嫁道具に衣裳人形を誂えるのは、持ち主に起こる災いを人形が肩代わりさせるためだ。そのため、人形の多くは藤娘や舞妓、町娘といった美しい娘として作られる。身分のある持ち主であれば、武家の娘となる。能見伯爵夫人はさらに高貴な身分であったので、この人形は姫君だ。
「曄子様は病でお早くにお亡くなりになられました。先代は部屋をそのままにしておくようにと言って、この人形はずっと曄子様の部屋に飾られておりました。ですが、先代がお亡くなりになり、当主となられた千遙ちはる様が屋敷を引き継ぐにあたり、曄子様の部屋のものを処分するようにと申されたのです」
 乙鳥は瞼を伏せて、少し押し黙る。
そして覚悟を決めたように、六都子の瞳を覗き込んだ。
「全て燃やすように、と」
 その言葉に六都子は目を見開いた。
 物は時を得て、人の思いを受け、時折自我を持つに至ることがある。
 処分をするのであれば骨董屋に引き渡すなりすればいいものを、燃やしてしまえとは酷なことを考えるものだ。母のものならば尚更、思い出があるだろうに。
 けれど、それは六都子が聞いていい領分ではないように思えた。何かしらの事情があったのだろうと、乙鳥の複雑な表情からは読み取ることができたからだ。
 六都子は、話の続きを促すように問いかけた。
「……それでは、焼いてしまわれたのですか?」
「はい、梅雨に入る前に」
「ですが、人形はこうしてここにあるのですよね」
 乙鳥は小さく嘆息した。
「人形だけではございません。曄子様の長持ちに仕舞われていた嫁入り道具は全て焼けなかったのです」
 能見の家に入ってから誂えた着物や洋服、生活用品にいたるまでのものは全て灰になった。けれど、緋色の長持ちは、灰の中から焼ける前の姿のまま出てきたのだ。使用人たちはそのことを大いに恐れた。
「千遙様に知られるわけにはいきませんでした。お忙しい身ですから、このようなことでお手を煩わせたくなかったのです。ですから、蔵の奥へと仕舞うことにしたのです」
「けれど、この人形はどうしてだか曄子様のお部屋に現れると?」
 視線を乙鳥へと向けると、驚いたように息を止めた。
「……さすが野々宮家の方ですね」
 それは呟くような小さな声音だった。
 目の前に置かれた人形は六都子の目をとらえて離さない。まるで何かを語りかけてくるように黒い瞳を揺らしている。
「女性の持ち物には思念が宿りやすいのです。その長持ちの中にあった物はきっと、曄子様が大事にしていた物だったのでしょう」
 六都子が人形の頭を軽く指先で撫ぜると、その赤い口元が綻んだように見えた。
「けれど、このお人形は少し違うようです」
 六都子は小首をかしげ、思案するように眉を寄せた。
 一度、この人形と話をしなければならないだろうと考えていると、玄関のほうがなにやら騒がしくなった。はっと青ざめた顔で乙鳥は廊下へと顔を向けた。困惑した表情をしている。
 声をかけようとして、けれど、それは別の声に遮られた。
「こんなところに居られたのですか、乙鳥さん」
 低く冷たい声の主は、気難しそうな顔をしていた。二十五歳の四番目の兄とそう齢の変わらぬだろう、目元の涼やかな青年だった。上等な三つ揃えのスーツに身を包んでいる。
 彼は六都子を品定めするかのように横目で見た。つり目がちの黒い瞳の奥は猜疑心に満ちているようだった。
「まあ、千遙様、お早い帰りですこと」
「その娘は誰です?」
 落ち着き払った乙鳥には視線の一つもくれない。初対面にもかかわらず不遜な表情のこの青年が、現伯爵の能見千遙そのひとだった。六都子はその態度に物申したい気持ちであったが、ぐっと堪え笑顔を作って立ち上がった。
「お初にお目にかかります。野々宮六都子でございます」
 台本を読み上げるような自己紹介をする。
 彼は、ふん、とさも面白くもなさそうに鼻で笑って、口を開きかける。けれど、その視線が卓子の上のものへと移ったとき、彼の形相は怒りとも悲しみとも取れないものになった。
「乙鳥さん、それは燃やすようにと言ったはずです」
 震えあがるほどの、冷ややかな声だった。
 人形の表情が微かに憂いを帯びたようであった。
 このままでは、この美しい人形は無理やりにでも破棄されるのだろう。彼はこの人形のことを恨んでいる。いや、その冷然とした瞳はもっと別のもの──いや、誰かを映しているようだった。
 凍るような沈黙を破って、六都子は可愛らしい令嬢のふりをして声を上げた。
「まあ、もうこんな時間。乙鳥さん、お人形は野々宮家で少し預からせていただきましょう。良いですわね?」
 言いながら漆喰の蓋を人形に被せ、赤い紐をしっかりと箱に巻きつけてから胸に抱え込んだ。それでは御機嫌よう、とにこやかに挨拶をしようとすれば、「待ちたまえ」と若き能見公爵が手を伸ばしてきた。思わず一歩後退する。
すると、二人の間を遮る影があった。
 何処からともなく現れた鳥の姿を模した影は、部屋の中を旋回すると、しゅんと風を起こして六都子と公爵の間を通り抜けた。
「……っ!」
 と苦痛の声を上げて公爵は手を反射的に引っ込めた。かまいたちにさらされた指先が切れ、血が伝う。
「まあ、大変! これを使ってください。早く消毒したほうがいいですわ。では、ごきげんよう伯爵様」
 不思議な存在に助け舟を出されたなら、それに乗るほかないだろう。六都子は制服のポケットからレースのハンケチをさっと取出して手渡すと、サンルームを後にした。
 瀟洒なシャンデリアが飾られた玄関ホールから足早に外へ出た。後ろから追いかける足音が聞こえ、振り返ると、乙鳥が心配げな顔をして駆け寄ってきた。車夫の手を借りて車に乗りこんだ六都子は、そんな彼女を見下ろす形となる。
「当主が失礼なことを……申し訳ありません、六都子様」
「気にしておりませんから、気に病まないでください」
 彼女を安心させようと、にこりと笑みを浮かべる。彼女が風呂敷を一枚差し出したので、受取り、人形の箱を手早く包んだ。
「お人形の件、少しだけお時間をください」
「はい、よろしくお願いいたします」
 またご連絡いたします、と言い残し、六都子は能見家の屋敷を後にした。
 門を出てようやく一息つく。そうして思い出したように、ポケットから万年筆を取り出した。若草色をした優しい手触りの、三番目の兄が誂えてくれた大事なものだ。それをしっかり右手で掴んで腕を真上へと伸ばす。
 すると、黒い鳥の影が木々の間から素早く飛び出し、瞬く間に万年筆へと吸い込まれていった。手元を覗けば、万年筆の持ち手に羽を広げた燕が一匹。ずっとここにいましたよと言わんばかりのすまし顔をしているものだから、少し可笑しい。先ほどは助けてくれたのだから、今回はこの小さな〈あわいもの〉が出てきたことは大目に見ることにしよう。
 抱えた人形の箱に目を落とし、そっと撫でる。
「大丈夫よ」
 そう、小さく呟いた。


 これは誰かの夢の中なのだろうか。
 宙に浮いたように体が軽くなるのを感じながら、六都子はその現象に身を任せた。瞼を開けると、目の前に小さな子供の掌があった。感覚を確かめるように開いては閉じる。この体は意識を共有している人間のものだと、まだぼんやりとする頭で考えた。
 視線を上げると、庭と障子に挟まれた長い廊下が続いている。その廊下に並ぶ障子の一つが開き、女性の細い腕が伸ばされる。まるで自ら光を放っているような、ぞっとするほどに白い手が、おいでおいでと手招きをしている。
──母上!
 少年の声が頭の中で響いたかと思うと、弾むような足取りで招かれるほうへと駆け寄った。
 障子の向こうは床間のある六畳の和室だった。その真ん中で、目を瞠るほどに美しい着物を着た女性が正座をしている。
 ふと、六都子はその着物の柄をどこかで見たような気がした。けれど、思い出す前に少年の意識が思考を遮った。少年がちょこんと正座をする。女性を見上げると、そこには慈悲深い笑みを浮かべた美しい顔があった。絹のように滑らかな肌に、薄くつけた口紅。結われた黒髪に指した簪は、頭を少し動かせば涼やかな音を奏でる。それは、まるで御伽噺の中の姫君のようだった。
──母上、お体は辛くありませんか?
 少年の声は心配げだ。
──ええ、今日は加減が良いのです。淋しい思いをさせてしまっていますね。
──いいえ。時々、こうして母上が会ってくださるだけで僕は嬉しいです。
 女性の顔がふと曇った。
──また、家の者に心ないことを言われたのですか?
 少年はふるふると頭を横に振った。女性はどこか切なげな様子だったが、少年が何も言うまいとしているのを悟ってか、それ以上は何も言わなかった。六都子には二人の会話が何のことであるか図り知ることはできないが、恐らく複雑な事情が糸のように絡まっているのだろう。それだけはわかった。
 それから、少年は女性と貝合わせやカルタ取りをして遊んだ。和やかなその情景は、少年にとってはかけがえのない時間のようであった。少年が「母上」と呼ぶ女性は、少年の話に耳を傾けては微笑を浮かべる。その眼差しは愛するものを慈しんでいるようだった。
──本邸の花菖蒲が咲き始めました。
 やがて、少年がぽつりと言葉を零した。
──まあ、綺麗なのでしょうね。
──僕は母上と一緒に見とうございます。
 女性の指先が小さく痙攣した。困ったように目を細めて、口を噤む。
 少年の眉間にぐっと力がこもる。
──母上は、やはり僕のことがお嫌いなのですか?
 その声音は涙をこらえるように微かに震えていた。
 女性ははっとしたように一瞬目を見開き、流れるような所作で少年に手を伸ばした。指先が少年の頬に触れた。驚くほどに冷たい。その指先が少年の目元を拭うような仕草をした。「困った子ですね」と笑う姿はどこか苦しげで。
──約束しましょう。
──約束?
──いつかこの体が治ったら、きっと、花菖蒲を一緒に見に行きましょう。
 けれど、と女性は言葉を続けた。
──貴方は決してわたくしと会っていることを、誰かに言ってはなりませんよ?
 少年は背筋を伸ばし、女性の瞳を覗き込んだ。黒曜石のような色が、少年の姿を映し出す。それはある人の面影と重なり、六都子はこれが誰の夢であるのかを悟った。
──約束します、母上。
 うなずいた少年に、女性は右手の小指を伸ばした。
──母も約束しましょう。
 少年の小さな小指に己の小指を絡め軽く振りながら、歌を歌う。約束が違えぬようにと思いを込めた哀しげな歌声は、部屋の中へと吸い込まれていった。


 目が覚めると、夜の帳がまだ辺りを覆っていた。
 体を起こし、部屋の中へと視線を巡らせる。机の上に置かれた曄子夫人の衣裳人形が、静寂の中で淡い光を纏っていた。
「貴女ね、私に夢をみせたのは」
 六都子は静かに問いかけた。
 光は膨張し、それは瞬く間に人の形をとった。辻が花の柄を染め抜いた紅い振袖と丁寧に結われた日本髪が、人形の様相と何一つ違わない。そして、夢に出てきたあの女性とも同じだった。
「このような形で現れることをお許しください。野々宮家のお嬢様にお願いがあるのです」
 しゃりんと簪の音が鳴った。ゆっくりと手を突いて、わずかに頭を下げる所作は洗練されている。
「あの少年と交わした約束のことね」
「そうでございます」
 六都子はそっと瞳を伏せ、考えを巡らせた。物は作り手や持ち主によって命を吹き込まれることがある。それは人々の中では九十九神として知られるわけだが、彼女は果たして、約束を守りたい思いが形を成したものであるのか、それとも──。
「貴女はいったいどんな〈あわいもの〉なの?」
 六都子の言葉に、彼女は淋しげな表情を浮かべた。
「わたくしは、曄子様が捨てた想いの一つでございます」
 能見伯爵家の前当主に嫁いだ悲しき姫君。
 人形は静に語り出した。
 侯爵家の娘であった曄子夫人は、能見伯爵家に望まれ大切にされた花嫁だったが、彼女の心中は複雑だった。能見家に入る前、曄子には想い合った許婚がおり、ゆえに彼と結婚するものだとずっと信じていたのだ。けれど、青年の家は多額の負債を抱え没落したのである。能見伯爵家の前当主はその悲恋と想いを知りながらも、曄子の家門との繋がりのために政略結婚を持ちかけたのだった。
 しかし、彼は思いもしなかっただろう。曄子夫人が己の大切な「想い」を人形に封じたことなど。
 彼女は誰にも愛情を注げぬ女性となった。夫に笑みを見せることもなく、生まれたわが子も抱くことなく、ただ冷たい人形のように振る舞い、ときには衝動に駆られ己を傷つけようとする。彼女は日をおうごとに病気がちになり、息子が七つになる頃には床から起き上がることもできなくなってしまった。
「わたくしは、ただ見ていることしかできませんでした。けれど坊ちゃんが可哀想で、一度だけ、泣いているその前に姿を現しました。わたくしは曄子様を模した人形ですから、彼はわたくしを母と思い込んで泣き腫らした目で縋ってきたのです」
 人形はただ、母の温もりも愛も知らぬ少年に笑って欲しかったのだろう。けれど慕われてしまえば、離れがたくなってしまう。彼女は偽りの関係だと知っていても、少年に会うことをやめることができなかったのだろう。それが、人形に封じられた「想い」だ。
 けれど曄子夫人が亡くなってしまったことで、大切な約束は果たされることなく、人形はいつしか少年の心の奥深くに閉じ込めてしまった悲しい思い出となったのだろう。
「わたくしは、坊ちゃんに酷なことをしてしまいました」
 その瞳から、小さな涙粒が静かに流れた。
 六都子は少し困ったように眉を寄せ、小さく息をついた。
「少し曲者な若殿様だから、どこまで手伝えるのかはわからないけれど……何とかしてみましょう」
 不機嫌に眉を寄せた千遙の顔を思い浮かべる。いったい何があって、あんなに剣呑な気配を出すに至ったのだろう。進んで関わることは控えたいけれど、六都子は〈あわいもの〉からの頼み事には弱いのだ。
「ありがとうございます」
 人形の幻影は声を震わせる。
ほろほろと流れる涙は、宵闇に消えていった。
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