01
 先生の恋焦がれた季節が訪れようとしている。
 ふとそんなことを考えながら、桜の古木の下に立っていた。此処ならば会えると私は知っていた。
 指先をくすぐる風はまだ冷たいのに、息を吸い込めば微かな花の匂いを感じることができた。庭の桜の硬く結ばれた蕾は、数日後の目覚めの時を静かに待っている。その幾重に別れた太い枝の一つに、霞がかった人影が、遠くの空を見つめるように目を細めて座っていた。
 その視線がすうとこちらへと向けられた。
 記憶の中と変わらない穏やかな表情で、先生は語りかけるように私と目を合わせ、枝の一つを指し示す。
「あっ」と私は小さく声を上げた。

 桜の花が一輪咲いている。

 それはよくよく探さなければ見つけられぬほど、小さく慎ましく咲いていたので、彼の人が示さなければきっと気づくことはなかっただろう。薄紅色の柔らかな小花を見つめながら、私は自身の内側で温かな気持ちが広がるのを感じた。
 そうして暫く眺めていると、いつの間にか先生の姿が消えてしまっていることに気付く。確かにいるはずなのに、視覚から消えれば何も残さない空気のような曖昧な存在。嗚呼、少しずつ見えなくなってきている、と私は心の中で呟いた。宿主を見失った桜はどこか寂しげだ。
 静かな庭に、ピアノの音色が流れてくる。
 妻が子供に聞かせてあげているのだろう。やさしげな旋律だ。
 早く満開になれば良い、と思う。この場所で数年と季節を繰り返し、いつの間にか私はあの頃の先生と同じ歳となった。妻を持ち、子に恵まれ、慎ましくも幸せな生活をおくっている。近ごろ戦争や不景気と剣呑になってきた情勢などまるで遠い話のように、この場所は穏やかだ。
 ピアノの調律が変わった。聞き覚えのある曲だ。
 桜の隣に鎮座する小さな祠の前に屈み込み、この桜の神様に恋をした彼の男に、語りかける。

 先生、貴方は今も幸せなのでしょうか。
 近ごろ私は昔のことを思い出すことが多いのです。
 貴方と出会った時のこと、語りあった夜のこと、貴方が愛した薄紅の娘のこと。

 忘れないようにと幾度も思い出し、そうして考えるのです。はたして先生の恋は悲恋と呼ばれてしまうのだろうか、と。けれど一つ確かなのは、私たちが桜の元で過ごしたあの美しい日々の記憶なのだ、と――。


 大正六年春、太陽の光が柔らかな一日だった。花の咲き始める季節、どこからともなく届く微かな甘い香りと小鳥の囀り。私は幾枚もの薄紅の花びらが、疎水をゆるやかに流れる様子を眺めながら歩いていた。
 その日、第三高等学校の寄宿舎の級友から花見に行こうと誘われたのだが、あまり乗り気になれずに体のいい理由をつけて断ってしまった。しかし自室に篭っているのが勿体無いほどの日和だったので、皆が吉田山の花見に出払ったのを見届けてから、こうして散歩としゃれ込んだ。私はどうも人が集まって何かをやろうというのが苦手であった。人が集まるところには気まぐれに「あわいもの」も集まるからだ。

 物心のついた頃から、それは私の目だけに見えていた。
 ふわふわと浮く半透明の者もいれば、人間とさして変わらぬ姿の者もいた。はたまた見たこともないような獣姿の者もいた。彼ら異形の者は、神仏、妖怪、精霊、幽霊……と俗に呼ばれる者たちであった。そして、私は彼らを一纏めに「あわいもの」と呼んだ。
 気味悪がれることを知ってからは、それらについて他言しなくなった。自分には何の影響も及ぼさないようだとわかってから以降、いないものとして扱うことにした。しかし、見えるものを見ないようにするのはとても骨が折れる。
 今も掌ほどの大きさの桜色の天女たちが空を舞いながら、薄紅の花びらを飛ばして遊んでいる。私は誰もいないのをいい事に、その様子をぼんやりと眺めていた。あれは春の子供たちだ。春の訪れと共に産まれ、春が去ればいなくなってしまう儚い存在。
 ふと、彼女らが遊ぶ桜の花びらがどこからやってくるのか気になった。
 辺りを見回す。水路を下った少し先に、一軒の家の塀から水路に覆いかぶさるように、重々しい枝を垂れる桜の木があった。
それは枝を隠してしまうほどに花が咲き乱れる、見事な江戸彼岸だ。
 桜に近付いていくと、太い枝の一つに座る美しい娘の姿を見つけた。
 風に吹かれて舞い上がる花びらを、娘は愛おしそうに見つめていた。その姿は淡く光を放ち、桜の花と同じ色の髪と瞳をしていたので、私はすぐに娘が異形の者であるとわかった。薄紅色の振袖から覗く雪のように白い細腕を伸ばし、花びらを掴もうとひらひらと手を泳がせている。

「君には彼女が見えるのですか?」

 あまりにも熱心に桜を見上げていたので、人の気配に気付かなかった。
 私は驚いて声の主を探した。桜を隔てた向かい側に、穏やかな表情をした男が立っていた。すらりと背が高く、どこか浮世離れした雰囲気を纏っている。
大して冷えるわけでもないのに、黒い手袋をしているのが印象的であった。
 訝しげにする私に気付いてか、「ああ、驚かせてしまったようだね」と男は困ったように笑った。

「突然声をかけてすまない。君があまりにも熱心にこの桜を見ていたから気になってしまって」

 美しい桜でしょう、と男は枝の一つへと手を伸ばし花にそっと触れる。
 私は一連の動作を目で追いながら、そうですね、と呟いた。
頭の隅で男が最初に発した言葉が反芻する。どう尋ねようかと考えるも、男の纏う不思議な雰囲気にのまれてしまったらしく、声にならずに口をつぐんだ。

「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」

 男の唇が歌を紡ぐ。
 さぁ、と花嵐が吹きぬけた。
 視界を遮る花びらたちに思わず目を細める。
風が止んだ頃には、男は花の雨に紛れるようにどこかへ消えてしまっていた。
 私は唖然とした心持ちで、男のいた場所を見ていた。あの男もあわいものの類だったのだろうか。不思議な体験を何度もしてきたので驚くことはなかったが、男の、どこか遠くを見つめるような瞳が記憶に焼きついて離れない。
 桜を見上げると、あの美しい娘も消えてしまっている。昼下がりの暖かな静けさだけが、そこにはあった。私は言葉に出来ない奇妙な気持ちを抱えたまま、寄宿舎への帰路に立った。


 自室の隅でゲーテの「若きウェルテルの悩み」を手に読書に耽っていた。
 外では寮歌の「逍遥の歌」を学生たちが大声で歌っている。時折誰かがわざと音程を外すので、いささか聞き苦しくもあるが、既に耳馴染みになったので今や日常の一部となっていた。その日の講義は既に終わったので、皆思い思いに時間を楽しんでいるのだ。
 近頃、世間はヨーロッパ諸国で起こっている大戦のことで持ちきりのようであるが、ここは外の出来事など関係ないかのごとく自由だった。ふと本から顔を上げ、 遠くに見える吉田山へと視線を動かす。青々と若葉が茂る合間に桜色が混じっているのを見て、数日前に出会った黒い手袋の男のことを思い出した。

「柊太郎、見たまえ!」

 ぼんやり考え事をしていると、同室の級友が弾んだ声で部屋に戻ってきた。
 どうした、と尋ねながら彼の方を向くと、その手に一本の枝が握られているのが目に入った。

「……それは桜の花か?」
「ああ、あまりに見事だったので手折ってきた」

 級友はどこか楽しそうにしながら、物置の襖を開けて何やらごそごそと探し出す。私は桜の枝を引き寄せて、呆れた目で見つめた。
 手折られた桜の枝の寿命は短い。そして級友は知らず知らずのうちにあわいものを一匹攫ってきているではないか。
 花にしがみついた春の子供が怯えたように体を震わせていたので、私は小さく「すまないね」と呟いて手を差し伸べた。小さなあわいものは目前の若者が味方とわかったのか、そろりと掌に座る。そのまま窓の外へと向けると、あわいものは瞬く間に風に乗って飛び上がる。その姿は春の色に混じり、瞬く間に見えなくなってしまった。
 同時に、背後で物音をさせていた級友が満足げに「あった、あった」と取り出してきたのは花器だった。

「まったく、桜折る馬鹿が本当にいるとはな」

 級友が窓辺に桜を飾るのを目で追いながら、少し非難めいて呟く。彼は困ったように小さく笑って、俺はまったく馬鹿だ、と言った。
 この男は妙に憎めないところがある。常日頃から学業成績は思わしくないのに、彼には人を引き寄せる不思議な人徳が備わっていた。現に私はつくづく彼と同室であることに感謝していた。バンカラ気取りの野蛮な者たちと違って、物静かな彼の性格は有難い。

「この部屋も少しは華やかになった気がしないかい?」

 美しい花を与えてくださった神様に感謝しなければ、そう言って級友は静かに花器の桜に手を合わせた。数日すれば枯れるだろう一瞬の命に、薄花色の娘の姿が重なる。
 あの場所に行かなければ、とずっと考えていた。
 もしかしたらあの男に会うことが出来るかもしれない。

『君には彼女が見えるのですか?』

そう尋ねた男の言葉が、気になってしかたなかった。



 次の日、講義を終えて早々私はあの場所へと向かった。
 未だ爛漫と咲き誇る桜に安堵のため息をつく。水路へと吸い込まれるように垂れている枝先から、ひらりと花びらが落ちては緩やかに流れる水に攫われていく。全貌は塀に遮られてわからないが、その堂々とした姿からきっと立派な木なのだろうと改めて思った。
 あのとき男が立っていた場所には、木漏れ日が風に揺れて降り注いでいる。
 私はふと思いつき、辺りを見回した。人の影一つないことを確認してから、良し、と一人頷き、頑丈そうな桜の枝に手をかける。枝は突然の重みに更に枝垂れたが、折れはしないだろう。この歳で木登りすることになるとは思いもしなかった。
 私は塀から顔を覗かせた。その向こうには掃除の行き届いた小さな日本庭園があった。なんだ、誰もいないのか、と落胆とも安堵ともいえぬため息を吐き出す。

 よくよく見れば屋敷の一角は洋風になっている。おそらく増築したのだろう、和洋折衷の家は昨今の流行だ。
 その洋間の大きな窓が開かれていた。桜の枝が間近に迫っているので、風が吹けば花びらの雨を降らせるのだろう。部屋の中には黒く艶めくピアノが置かれていた。
 何故だか、その慎ましやかな楽器に惹かれた。この家の住人はピアノを奏でるのだろうか――考えを巡らせていると、ふと、傍に異質な気配を感じた。
 驚いて顔を向ければ、あの薄紅の娘が首を傾げ私の顔を覗きこんでいた。目を見開く私に、何か語りかけようとするように唇を動かす。

「おや、君、そんなところで何をしてるんだい?」

 重なるように、庭から聞き覚えのある声がかかった。突然のことに手を滑らせた私は声を上げる暇もなく、仰向けに倒れていくのを感じた。目の端にあの男の顔が霞めたとたん、私はしたたかに頭を打っていくつもの星を見た気がした。



「どこぞの花泥棒かと思えば、随分間の抜けた泥棒のようで驚いたよ」

 くすくすと笑う声は、呆れているというよりも単純に面白がっているようであった。
 私は丁寧に磨かれた縁側に座り、冷水で濡らした手ぬぐいで頭を冷やしながら、恥ずかしさと情けなさで今にも逃げ出したい思いだった。
 運良くあの男と再び廻り合えたわけだが、なんと彼こそが桜の咲く家の主であった。

「……申し訳ありません」

 まともに相手の顔を見ること出来ずに、私はうつむいた。
 幸いだったのは、男がとても親切な貴人だったことか。彼は不法侵入といっても過言ではない私の行為を非難するどころか、なんと、手厚く家に招き「打った頭を冷やしなさい」と水と手ぬぐいを差し出したのである。申し訳なさと羞恥に打ちひしがれそうだ。顔の熱がなかなか引かない。

「そんなに畏まらなくてもいい。君とは一度会っているだろう?」

 男は私を覚えているようだった。
 私の横に置かれていた学生帽を手に取り、「まさか三高の学生だったとはね」と微笑む。あの時私は外出用の袷に袴といういでたちだったのだ。きっと三高生であるのに何故あんな子供じみたことをしていたのか、と内心呆れられているのかもしれない。
 けれど、その端正な顔は穏やかな表情を崩さない。鼻筋の通った横顔、涼しげな目元、長く艶やかな黒髪を襟元で結び、一見、風流人を思わせるその姿。白いシャツに包まれた胸板はとても薄く、どこか中性的であった。
私はやおら自分の髪に触れてみた。ぼさぼさ髪はそろそろ散発を必要としていて、幼い頃から日を浴びすぎたのか色素が抜けて茶色である。

「僕の顔に何かついているかい?」

 どうやらじっと見つめてしまったらしい。困ったように笑う男から目を逸らし、いいえ、と誤魔化すように庭へと視線を向けた。
 庭は綺麗に整えられ、その隅に根を張る桜の木と調和している。桜の全貌は立派な古木であった。枝先はさほど高くはないものの、所々緑の苔に覆われた幹は太く威厳のある面持ちだ。
 桜の花が影を落とす場所には古い祠があって、赤い小さな鳥居が古木を守るようにして立てられていた。その真上で、枝の一つに腰をかけてこちらを見つめている娘は間違いなくこの桜の主であった。

「やはり、君には視えているんだね」

 私の視線の先を辿り、男は確信したように呟いた。

「貴方にも視えるのですか?」
「ある頃から彼女が視えるようになった。残念ながら言葉を交わすことはできないけどね」
「では、ほかの不思議なものも?」

 私は少し身を乗り出して尋ねた。
 けれど、男はすまなさそうに首を左右に振った。

「僕が視えるのは彼女だけなんだ。不思議なことにね」

 その言葉に、少し残念な気分になって肩を落とした。同じようにあわいものを見ることのできるひとがいるのではないか、と少し期待していたのだ。
 微かな風に乗った一枚の花びらが、ひらりと私の元へ舞い込んできた。触れると柔らかな感触が指先に伝わる。
男は語るようにゆっくりと唇を開いた。

「僕は代々この桜を守る花守の家系の生まれでね」
「花守、ですか」
「この場所は元々神社の一部だったらしいが、大きな火事が起こって、その焼けた跡地にこの家が立てられたのだという。するとその家の者に桜に住む娘を視ることのできる人間が産まれるようになった。桜は神が降りると言われる神木、だから見える者たちはここを離れず花守として一生を全うするようになったと聞いている」

 桜の娘の着物が風に微かに揺れ、長い髪も花びらと遊ぶようにふわりと舞い上がる。その穏やかな瞳が自分の視線と合わさり、語りかける。
 ――かつてこの土地を守る神様がいた、と。社を追われ力を失いやがてこの桜に憑依したのだ、と。

「神様とて、独りは悲しいのだろうね」

 男は少し目を細め、桜を見上げた。私は少しだけ、この貴人が何を思っているのか知りたくなった。出会って間もない赤の他人であるのも関わらず、桜と共に生きる男が一体何者であるのか。彼を待ち受けるものは何であるか。

「僕はこの桜の最後の花守だよ」

 男の瞳はどこか此処ではない場所を映しているようだった。


 それから私は時間があればその家を訪れるようになった。男の「また来ると良い、歓迎するよ」という言葉に甘え、そして自分が惹かれる訳を知りたいがために、講義を終えると足早に学校を出て疎水沿いの道を通った。
 男は花舘はなたて葉一と名乗った。若葉が青々と光る初夏に生まれたから、そう名づけられたのだそうだ。私には風流な響きと感じられたが、「あまりにも安直な名前だ」と彼はどこか自嘲するように笑った。
 歳は三十後半を少し過ぎた頃だが、見目が若いので二十後半でも通るように思われた。彼は若い頃に東京で音楽を学び、同じ学校で講師をしていたらしい。それで家にピアノが置かれているのかと納得した。

「先生はどうして京都へ戻ってきたのですか?」

 私は彼の博学的な雰囲気にいつの間にか親しみを込めて「先生」と呼ぶようになった。私にとって、それはごくごく自然なことだったのである。
 初めこそは苦笑いを浮かべてやめるようにやんわりと言っていた先生も、私が呼び続けるうちに訂正することを諦めたようだった。
 私たちは縁側に座って茶を飲みながら、新緑が目立つようになった桜の木を眺めていた。そろそろ皐月に差しかかろうとしていた。それまで柔らかに降り注いでいた日差しは、段々と肌を刺すような眩しさをはらむようになっていた。夏が近いのだ。

「そうだなぁ……僕の場合、逃げてきたというのが正しいのかもしれない」
「逃げてきた?」
「東京の空気が合わなくてね」

 けれどそれだけの理由で帰るのはあまりにも面目が立たないと、ずるずると東京で過ごしていた時、故郷から父の訃報が届いた。
これで帰れると、先生は当時思ったそうだ。

「僕はつくづく親不孝だよ」

 先生は苦笑を浮かべて、庭を見た。

「それからしばらくこっちの尋常小学校で音楽講師をしていたんだけど、訳あって三年前に辞めてしまった。今は悠々と隠居暮らしさ」

 今はこの暮らしが気に入っているのだと言う。
 私は、もしかしたらそれは彼の言う「花守」に関係しているのだろうかと考えた。青葉と薄紅の花が混ざり合う桜の木には、今日も薄紅の神様が鎮座している。彼女は塀の向こうのせせらぎを聞いているのか、こちらに背を向けて足をぶらつかせていた。桜の根元を囲むように朽ちた花びらの海ができていた。

「花守とは一体何をするのですか?」

 私はふと気なって尋ねる。

「言葉のままだよ。この桜と共にあること……神様を守る番人だ」

 先生は下駄を足に引っ掛け庭に下りる。ゆるやかに歩を進める姿は役者のように優雅だ。
 彼は桜の下で立ち止まり、近くの枝に黒い手袋に包まれた手を伸ばし、咲き遅れた花を一輪摘む。
 先生は、桜が散るのを見ると悲しくなる、と呟いた。

「この桜から離れると、まるで自分の一部が欠落したような焦燥感に駆られる。音楽を学ぶために東京を出た時はどうしてこんなにも悲しいのかわからずに戸惑ったよ」

 花びらの海の上に立つ先生は、そのまま知らない場所へ沈んでしまいそうに思われた。そ彼の雪のように白い肌が死人のそれと重なったように見え、私は声を上げそうになった。縫い取られたように男から目を放すことができない。
 先生は微笑を浮かべて私と視線を合わせる。

「僕はこの桜の一部なんだ」

 だから離れることが出来ないのだ、悲しいのだ、と。
 それはまるで遠くはなれた恋人を想う者ではないか。
 薄紅の娘はいつのまにか先生の近くの枝に座って彼を見つめていた。その視線は優しく暖かく、白く光る細腕を伸ばす仕草はどこまでも繊細だ。伸ばした手をつかもうと、先生も腕を伸ばす。二人の指先は決して触れることはない。
黒に包まれた手がぱたりと力なく下ろされた。
 その瞬間、二人の住む世界と悲しい運命を知った。ああ、なんと美しいのだろうか、と不謹慎にも思った。それは薄い膜を隔てて別の世界を見ているような心持であった。


 八百万の神が宿る国、特に京の都は土地柄ゆえに神様が多く住まう。古来より日本人は自然への尊敬と畏怖を込め、森羅万象には精霊――神様が宿ると考え崇拝してきた。人が何かを信仰すればひとたびそれらは神聖なものとなり、やがて神が宿る。しかし古き天津神とは違い、人の信仰によって生まれた神は人から忘れられれば力を失い、やがては消えてゆくのだという。
 あの桜の木に宿る娘もいつか消えてしまうのだろうか。もし消えるときがきたとして、先生は一体どうするのだろう。

 京都の夏は肌に絡みつくようにじめじめとしていて、時折吹く風も熱気をはらんでいるためにちっとも涼むことができない。木陰に入っても、葉の隙間から漏れる昼間の光はじりじりと襟首を容赦なく焼いていく。身体中の汗腺から汗が溢れ出るようだった。
 校舎と寄宿舎の暑さも酷く、熱中症で倒れる者が近頃増え、皆は口々に早く暑中休暇が来ないものか、と文句を垂れてばかりいる。あわいものも暑さには参るのか、近頃とんと見かけない。
 今夏は猛暑になりそうであった。
 私はいつものように疎水の小路を、近所の茶屋で買ったわらび餅を手に先生の宅へと向かっていた。塀を超えて水路へとかかる桜の木は若葉の頃を過ぎ、深い緑は地面に濃淡な影を落としている。風にかさかさと揺れる様子は涼しげだが、暑さそのものを忘れさせるにはいささか物足りない。
 私は表へ回り、玄関の向こうから先生を呼んだ。
 いつもは部屋の奥から物音がするはずだが、その日は違った。
 何度呼んでも先生が現れないのである。
 もしや外出しているのだろうか、と私は少し残念に思った。私が訪れる日は決まって先生が在宅しているので、とても珍しいように感じたが、考えれば私ははっきりと先生の生活を知っているわけではないのだ。
 また後日来ようか。しかし、先生はちょっと出掛けただけですぐに戻ってくるかもしれない。
 途方に暮れて立ち止まっていると、ふと、誰かに呼ばれた気がして辺りを見回した。
 耳元で風のような誰かの声が聞こえる。私は嫌な予感がして、玄関を回って庭へと向かった。桜に目をやれば、木陰の下で薄紅の娘が腕を伸ばし洋室の窓を示している。ピアノの置かれた部屋だ。
 私はその部屋に、足を踏み入れたことがなかった。今にも泣き出しそうな娘の表情に焦燥を覚え、窓を覗き込む。声を上げそうになった。
ピアノのそばに先生が倒れていた。

「先生……!」

 私は靴を脱ぎ捨て、窓を飛び越えた。先生に駆け寄り、ぐったりとして動かないその細い肩を揺らした。

「先生、しっかりしてください!」

 声に反応してか、目を閉じたまま微かに身動ぎしたので、私はほっと息を漏らした。
 何かを掴むように伸ばされた腕の先を辿ると、ピアノの上と板張りの床に数枚の譜面が散らばっている。
 そして先生の手を見て更に違和を感じた。
 覚えている限り、私の前で彼は黒い手袋をはずしたことがない。どうしてかと尋ねても曖昧な返事しか期待できなかったので、そのうち異質な黒い手袋にも慣れてしまった。それが皮を剥かれた果物の如く無防備に、初めて見る肌色がそこにはあった。
 触れてみれば、皮膚は硬く指の関節が不自然に曲がっていることに気付く。枯れ木のような冷たい手は私の知る手の感触とはまったく違っていた。それが、黒い手袋に隠された悲痛な理由だというのか。

 ――先生は病を患っている。

 私は部屋の隅のソファーへと先生を引きずるように運び、寝かせた。台所を借りて水を汲み、浸した手ぬぐいを額に乗せてやった。
 微かな呼吸音が聞こえるのを確かめて、部屋に散らばった譜面を拾ってゆく。音楽のことはまったく理解できないのでその譜面が何の曲であるか私には理解しかねた。けれど、あの手では、きっと思うように弾くことはできないのではないだろうか。
 じっとこちらを心配そうに見つめていた薄紅の娘に、ようやく声をかける。

「薄花さん、先生は大事ないようです」

 先生はかねてより薄紅の神様のことを「薄花」と呼んでいた。神様に名前がないのは不憫だと、色の薄い桜の花のような姿から名づけたのだと言う。儚さと美しさを現す雅な言葉だと思う。
 その言葉を聞いて安心したのか、小さく微笑むと、彼女は陽炎のように消えてしまった。
 薄花は人に触れることができない。そして人も触れてはいけないのだと、先生は私に教えてくれた。それが昔からのしきたりなのだそうだ。触れてしまったのなら、一体どうなってしまうのだろうか。先生はその答えを知っているように思われたが、口にすることはない。私も薄々感づくものがあったので、あえて聞くことはしなかった。ただ、それはとても悲しい運命だと思った。

 先生が目を覚ましたのは、辺りが夕焼け色に染まり出す頃だった。
 あと少しすれば濃い影を落とす山々に太陽が隠れてしまうだろう。夕暮れ時ともなると普段から少し薄暗いこの屋敷は更に闇を孕み、刻々と押し迫ってくるようだった。逢う魔が時があわいものと人間の世界が混じりあう刻限であると信じられるのは、迫る闇に得体の知れぬ不安を抱くからなのだろう。
 先生の傍で窓の外を眺めていると、低く唸る声が耳に届いた。先生は薄目を開け、すうと瞳をこちらへ動かす。しかしどこか夢うつつのように光がない。

「薄花……?」

 掠れた声だった。

「先生、私です」

 私はゆっくりと言葉を返した。先生は少し呼吸を止めて天井をぼうと見上げ、やがて思い出したようにその目に光が宿った。ああ君か、と先生はどこか安堵したような表情を作った。
 そして身体を起こそうとして、けれど力が入らないことに気付いて苦笑を浮かべた。
 私は先生の背中を支えながら上半身を起こすのを手伝う。先生は手袋をしていない手を見やって、微かに眉を寄せた。一瞬、瞳に影が差した。

「……おや、もう夕暮れ時か」

 穏やかな表情に戻り、僕はどれくらい眠っていたのかな、と尋ねる。
 一刻ほど、と答えれば彼は乾いた笑い声を上げた。部屋が薄暗いせいで顔色が驚くほどに白い。

「薄花さんが先生のことを伝えてくれたのです」

 部屋の真ん中で気を失っていたので大層驚いた、と言えば、先生はすまなさそうに眉尻を下げた。

「暑さにでも当たったのだろう……心配をかけてすまないね」
「先生は近頃痩せておいでのようですが、食事はちゃんと摂っていますか?」
「どうだったかな、少し怠慢していたかもしれない」

 私は思わず大きなため息をつく。先生は不思議そうに方眉を上げた。

「おや、怒ったのかい?」
「いいえ、少し呆れてしまったのです」

 まったくだ、と先生はけらけらと笑った。顔は少し血色を取り戻したようだった。
 この部屋で倒れていた先生を見た時、確かに私は悪い予感を覚えたのだ。――嗚呼、このひとは先が長くないのかもしれない、と不謹慎にもそんな考えが頭をよぎった。先生の存在はそれほどに危うく、繊細で、妖しい。
 眠っている間、と先生は呟いた。

「夢を見ていたような気がする。どんな夢だったかは覚えてないけれど、僕はずっとそこにいたいと思ったんだ」

 眠っていた先生の表情は、確かにとても穏やかなものだった。

「でも、誰かの呼ぶ声がした。風のような曖昧な声だ」

 その声のするほうへ歩みを進めるとやがて真白い光に包まれて、気がつけば目を覚ましていたのだと、先生はまるで過去を懐かしむように語る。
 私はその声の主が誰であるか知っている。恐らく先生も承知しているのだろう。

「薄花が僕を連れ戻してくれたのだろうね」

 ぼんやりと紡がれた言葉は、私の耳の奥に余韻のようにいつまでも残り、薄紅の声とも似つかぬ声と重なった。
 先生はいつか、自分は桜の一部なのだと言った。
 私の目の前にいる先生が俗世を生きるために作り出された偽りの姿であるとして、では先生の本心は何処にあるのだろう。本当は此処ではない場所へ行きたがっているのではないだろうか。
 彼が望む場所。それは――。

「僕はいつになったらいけるのだろうね」

 天井に手を伸ばし、硬い指先を見つめ先生は囁く。
 山に沈む太陽の残光が視界の隅で弾け、静かに消えた。

Back | Home | Next