02
 先生がピアノの前に座る姿を見たのは、その時が始めてだった。
 神無月を迎えると、木々は赤や黄色に染まり、辺りはすっかり晩秋へと姿を変える。吹く風は少し乾いていて、耳元で哀しげな音を届けた。きっと瞬きする間に冬がやってくるのだろう。
 講義を終え、その日も私は先生の宅を訪れた。
 夏に倒れた時から体調を崩すことが多くなった先生。動くと骨や筋肉の節々が疼くのか、ピアノ部屋の真上にある寝室のベッドでぼんやりと外を眺める日が続くようになった。

「僕はきっと先が長くないのだろう」

 と、先生は決まってそう言った。
 何かを悟ったような、静かな声音だった。私は「そんなことはありません、養生してください」と返し、先生を励ますためにとりとめもない話を聞かせるのが常となった。
 話している時の先生は楽しそうであったが、ふとした瞬間にぱたりと無表情になると、それがまるで死人の形相のように思われて私をぎょっとさせた。先生の周りを死神がうろついているのではないかと、辺りを見回しもした。しかし、その家にいるのは美しい薄紅の神様だけなのだ。
 その日、珍しく縁側に座る先生を見つけた。

「やあ、今日は見事な秋晴れだね」

 先生は穏やかな笑みを浮かべている。今日はとても気分が良いのだと言う。
 私は先生の隣に座り、彼が手に持っている紙の束を見止めて首を傾げた。

「それは譜面ですか?」
「そうだよ。久しぶりに弾きたくなってね、君が来るのを待っていた」

 聴かせたことがなかったからね、と譜面を指先で弾く先生はどこか嬉しそうであった。
 花守に選ばれる者の多くは、音楽を嗜む者たちなのだという。音楽は桜の神様が愛するものだからだ。先生も時折、薄花様のためにピアノを弾く。
手の自由が利かなくなる以前は毎日何時間もピアノと向かい合っていたのだけれど、と先生は懐かしそうに語った。

「実は私も前々から先生のピアノを聴いてみたかったのです」

 それは私の本心だった。先生は、君は優しい青年だよ、と笑った。
 窓から桜の見える部屋はしんと静まり返っていた。先生は譜面台に譜面を立て、ピアノの蓋を上げる。白と黒が交互に並ぶ鍵盤は綺麗に磨かれており、楽器と触れ合ったことのない私にとっては目新しい。先生が鍵盤の一つを弾くとぴんと高い音が出た。そして流れるように指を鍵盤に添えて短い沈黙、ゆっくりと音楽を奏で始めた。
 私はソファーに座り、小さな演奏会を見守った。先生の背中はどこか孤独だ。音のひとつひとつを感じるように伏せられた瞼には、一体どんな風景が映っているのだろう。美しい旋律は、懐かしい気持ちを呼び起こさせる。
 頭の中を通り過ぎるのは、季節はずれに咲く桜の木――。

 ふと、柔らかな陽だまりの気配を感じた。
 いつの間にか私の隣に一人の娘が座り、先生を見つめている。
 長い睫の奥の瞳は、薄い色をしていて綺麗だ。遠くから眺めてばかりいた薄紅の娘は、手の届く距離では一層美しく清らかだった。私は、薄花さん、と声をかけようとして、けれどそのまま先生の奏でる旋律に耳を傾けることにした。彼女は白い手を耳に寄せ音楽に聞き入っている。

 不思議な時間だった。
 この一瞬を切り取ってしまえたのなら、どんなに美しい絵画になったことだろう。
 手の不自由を忘れさせるように、滑らかに動かされる指先。先生の奏でる旋律がゆったりと心を満たす。私はこの一時を忘れぬようにと耳を澄まし、先生が鍵盤から指を離すまでの動作を目に焼き付けようとした。
美しい背中だった。幻想的な世界に入り込んでしまったような、異質で恍惚とした静寂が私たちを包みこんでいた。

「……君は、初めて出会った時に僕が言ったことを覚えているかい?」

 先生はピアノと向かい合ったまま、ふいに尋ねる。
 私はあの春の一日の記憶を辿った。忘れることの出来ない美しい桜の景色の中に、先生が微笑を浮かべて立っている。花に触れた指先、その向こうに薄花が穏やかな瞳で先生を見つめている。あの時、人間と人間ならざる者が相交わる姿を始めて見たのだ。

「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」

 私はあの時の言葉一つ一つを思い出し、呟く。
 すると薄花は悲しげに表情で瞼を伏せ、ふわりと浮かび上がると、桜へ吸い込まれるように姿を消した。茶色の葉を揺らす桜の木は春の美しさと違い、寂れた秋の景色の一部となってひっそりと佇んでいる。「美しくない私など見ないで」と囁くような哀愁がそこにはあった。

「僕は薄花を悲しませてばかりだ」

 先生は力なく笑って、私の隣に座った。

「あれは西行法師の歌でしたよね」
「そう、僕が一番好きな歌だ。君はその意味を知っているかね?」

 私は静かにうなずく。先生は膝の上に頬杖を付いて庭を見やった。

「月の夜、満開の桜の下で死ねるのならそれはさぞ美しい風景なのだろうね」
「先生は、……それが先生の願いなんですか?」

 私は隣の男の顔を見るのが恐ろしくなって、窓の外へと視線を逸らせた。きっと穏やかな表情をしているのだろう。そんな先生を見るのが辛かった。
 先生は何も答えない。
 そのことに少し安堵している私は、果たしてどんな答えを期待していたのだろう。
 庭に佇む桜の古木から枯れた葉が秋風に乗り、ひらひらと社のくすんだ赤い屋根へと落ちる。春の桜色の海は、秋には深い橙色の海となる。

「この季節はどこか物悲しい気分にさせられる」

 先生はすうと空気を吸い込む。私も真似るようにゆっくりと息を吸い込んだ。つんと冷たい空気が肺一杯に満たされる。それは冬の魁だ。
 冬は苦手だ、と先生は言った。

「秋も寂しいが、冬は一人残されてしまうから」

 心を裂かれるほどに悲しく辛いのだ、と。
 先生は幾度も冬を向かえ、そうした心持ちで過ごしてきたのだろうか。
 そうしてこの広い屋敷で一人、春の訪れを待つのだろうか。

「案外、冬などあっという間ですよ」
「……そうだね」

 努めて明るく言った私に小さく笑い返す先生は、初めて出会った時と変わらず儚げだ。

「先生、また聴かせてくださいませんか?」

 秋晴れの空はどこまでも高く澄んでいる。

「ああ、きっと春になったら」

 先生は空を見上げ、眩しそうに目を細めた。


 寒中休暇に入り、私は実家のある吉野へと久方ぶりに里帰りした。
 立花家は歴史こそあるもののそう大きくない神社の神主である。長い階段を上がった先には、向き合った阿吽の狛犬たちが待ち構える。普通の人間の目にはただの石像であるはずだが、私にはまったく違って見えた。
 大きな狛犬たちは、私を見止めると、大きくあくびをして出迎えてくれた。

 帰郷する前日、私は先生の元を訪れていた。
 床に臥せった先生は、どこか心ここにあらずのようであった。
 重たい雲の下、冬ざれの庭には、深い緑の低木と裸の枝を天に伸ばした桜の古木、その傍に立つ物静かな祠――暗色ばかり冷たい景色が広がっている。
 薄花がどこにも見当たらないことを不思議に思って尋ねると、先生は祠へと視線を動かし「冬の間はあの中で眠るんだ」と言った。神様の住まう場所には命が溢れるものだが、眠れば全てが瑞々しさを失ってしまう。家中が物悲しい雰囲気に包まれてしまっているのは、その影響なのだろう。
 いつか、先生があまり冬は好まないと言った理由が、わかったような気がした。
 先生の身体はここにあるが、その心は冬の訪れと共に眠ってしまっているのではないだろうか。

「必ず、手紙を書きます」

 と言い残し、私は帰路に立った。離れている間少しでも先生を繋ぎ止めることが出来れば、と考えた末に出た言葉だった。先生は「待っているよ」と弱々しくも嬉しそうに微笑んだ。その言葉に私は少しだけ胸を撫で下ろすことができた。
 火鉢の灰が赤く弾ける音が響く。私は自室で文机に向かい、真白な便箋にとんとんとペン先を小刻みに打ちつけながら、どうしたものかと悩んでいた。
 早速、先生に手紙を書こうと思ったのは良いものの、特記するほどの出来事がないことに気がついたのだ。
 のどかな山の社で起こることと言えば他愛のないことばかりで、実は自分の生活がありきたりで面白味に欠けているのではないかと思えてきてしまう。終いには、自分は一体何をしたいのだろう、とまだ見えぬ未来のことまで考えてしまい、暗々と抜け道のない憂虞が脳を廻っていく。
 私はペンを机に投げ出し、頭を掻き乱しながら後ろへと仰向けに倒れこんだ。天井板の木目をぼうと数えながら、部屋の隅で何やらこそこそと動き回っている小さなあわいものたちの音ともつかない囁きに耳を傾けた。
 先生は今頃何をしているのだろう。
 春が早く訪れることを願いながら、あの家で一人眠っているのだろうか。それとも誰ともなくピアノを奏でているのだろうか。
 先生のことを考える時、いつも幻想的な考えばかりが頭を過ぎる。
 それは彼が放つ不思議な雰囲気ゆえ、それとも今まで関わらないようにしてきたもう一つの世界のせいなのか。あの場所は二つの世界の境界で息づいている。きっと魅せられしまったら最後、抜け出せなくなるあやしき場所に、私は踏み込んでしまったのだろう。
 襖がすっと開く音がした。

「おまえ、まだそんな格好をしているのか」

 呆れたような声に、考え事はすっと断ち切られる。
 視線だけ動かすと、襖の向こうにいたのは兄だった。呆れた顔をしている。先刻まで私は社の仕事を手伝っていた。それから自室に戻ったが、着替えが億劫になり、今も白い着物と浅黄色の袴の神官服を着ているのだ。
 私は身体を起こし姿勢を正した。

「何かありましたか、兄さん?」
「まったく……兄弟なのだからそんなに畏まらなくても良いだろう」
「仮にも社の宮司なので」

 すると、何故かため息をつかれた。

「氏子の方から団子を貰ったから、おまえと一緒に食いながら久しぶりに話でもしようかと思ったんだが……」

 そう言って、兄は手に持った皿を見せた。
 艶々と砂糖醤油のかかった、美味しそうなみたらし団子が盛られていた。おまえの好物だっただろう? と兄はにやりと笑う。私は手早く茶を作ろうとお湯を沸かすために火鉢に薬缶を置いた。兄は何故か可笑しそうにその様子眺めながら、火鉢の向かいを陣取って胡坐をかいた。

「今日も寒いな、また雪が降るのではないか?」

 昨日雪が降ったばかりだというのに、それが溶けぬうちにまた降ろうとしている曇り空にため息が出る。
 湧かした湯で茶を淹れ、湯飲みのひとつを兄へと渡した。今まで外にいたらしいく、その指先は赤くなっていた。暖を取るように彼は湯飲みを両手で包み込む。
 兄がこの神社の宮司となったのは、父がなくなった三年前のことである。
 それまで彼は東京の大学を出て有名な会社に勤めていた。帝国大卒の社交的な長男が、約束された将来を諦め神職につくと知った親族は、みんな一様に惜しんだ。当の兄は暢気なことに、あっさりと東京を棄てて故郷の神社を受け継いだのだが。
 私と兄は十以上も歳が離れている。容姿もそれほど似ていない。きりっと釣りあがった目元に威厳を湛えた兄の眼差しが、子供の頃の私は怖くて仕方がなかった。ぴーぴー泣く私を目つきの鋭いまま慰めようとするものだから、ますます声を上げて泣いてしまったものだ。

「手紙を書いていたのか?」

 団子をひとつ口に含みながら、兄は文机の上の便箋に視線を止めた。
 季節の挨拶でペンが止まっている手紙。
 私は困ったように眉を寄せ、指先で湯飲みをくるくると回しながら言葉を紡いだ。

「実は何を書けばいいのかわからなくて」
「ほお、まさか恋文」
「いいえ! 知人宛ての手紙です!」

 弟の反応が面白かったのか、兄は声を上げて笑った。からかわれたらしい。
 私は耳に熱が集まるのを感じて、誤魔化すように口いっぱいに団子を含んだ。甘くて素朴な味わいが広がる。

「……うまい」
「遠くに行くと故郷の食べ物のありがたみがわかるものだ」

 と、兄は言った。浮き草気質の薄情な私と違って、兄が故郷を大事に思っているのだ。団子を黙って味わっていると、ふと兄は思い出したように呟いた。

「おまえはまだ、視ることができるのか?」

 何を、とは言わなかった、言わずともわかっていた。
 目の前にはいつの間にか現れたあわいものが一匹、せっせと団子をくすねようとしている。面を付けたあわいものは私の視線に気付くと、恥ずかしそうに体を捩じらせて何処かへ消えてしまう。その様子を目で追いながら「ええ」と私は答えた。
 社の子として生まれた因果か、何故このような力をもってしまったのか詳しくはわからない。先祖より受け継がれたものであるかも曖昧だ。物心がついた頃から視えていた。そんな私の不気味な体質を、家族だけは受け入れてくれた。
 この力を嫌だと思ったことはない。
 自分の一部として付き合うことができたのは、兄さんたちのおかげなのだろう。ただ昔から時々、何のために視えるのだろうか、と思うことはある。

「実はこの手紙の相手とは、そのことで出会ったのです」

 珍しく自分から話をする弟を、兄は静かに見つめている。
 話してみようか、と思った。

「私は先生と呼んでいるのですが……先生の家には一本の桜の木があって、ある日その木に宿った薄紅の神様を視ていたのです。その時声をかけてくださったのが先生でした。彼は桜の花守をしていると言って、私が視えることに興味を持ったみたいです。それから交流を持つようになりました」

 私は今までの出来事を先生の人柄とともに話した。しかし、記憶を整理して話してみると存外、先生は謎の多い人であることに改めて気がつく。同時に様々な疑問が浮かんでは消えてを繰り返し、少し戸惑った。
 声は段々と小さくなっていき、言葉に自信をなくした私はやがて押し黙ってしまった。おや、と兄は私の顔が曇ったのに気付いて首を傾げる。

「今更、どうして先生は学生の私なんかに好意にしてくれるのか不思議に思いまして」

 すると兄は肩を落とした弟の口に団子を無理やり押し込んできた。突然のことによく噛みもせずに飲み込んだものだから息が苦しくなった。胸につかえた団子を慌てて茶で押し流す。げほげほと咳き込む私を他所に、兄は腕を組んでじっとこちらを見つめている。
 これはあくまで自分の解釈だが、と真面目な口調で兄は続けた。

「その先生もおまえと同じように、自分と同じものが視える人間を探していたのではないか? 同じものが視えるということは、多かれ少なかれ感情を共有できるということだ」

 考えたこともなかった。
 感情の共有とはあまりにも曖昧で不確かで――果たして私と先生はそれに当てはまるのだろうか。けれどひとつだけ、今まで共に見てきた景色だけは同じだと思う。
 偶然の一致と運命の廻り合わせがなければ、出会うことはなかった相手。

「少なくともその先生はおまえを信頼しているのだろう」

 私はその言葉に目を瞠った。
 昔、父に何度も言われてきた言葉を思い出す。
 その力を持って生まれたのには必ず理由がある。いつかそれを知る時がくるまで決して己を恨んではならない。その目はたくさんのことを見届けるためにあるのだから、と。無骨で大きな手で幼い我が子の頭を撫でながら、木漏れ日の下で父は何度も繰り返した。
 ふと、先生と薄花の姿が脳裏を過ぎった。

 ――見届ける。

 それはきっと二人の運命のことを示しているのかもしれない。私に出来るのだろうか。その先に待つものに目を逸らさず、ただ受け止め、この瞳に焼き付けることができるのだろうか。

「おまえの話を聞いて思い出したのだが……こんな物語を読んだことがある」

 兄の穏やかで静かな声が、ゆっくりと部屋を満たす。
 それは美しい花の神様に恋をした哀れな男の物語だった。
 私は黙って聞き入った。物語の世界であるはずなのに、それは先生の姿と美しい神様は薄花の姿と重なっていく。不思議な感覚だった。

「……男はきっと花の神様を心から愛していたのだろう。気付くのが遅かったが、しかし、男は自分自身の結末を選んだ。決して不幸ではなかったと俺は思うよ」

 語り終え、少しの間の後に、兄はぽつりと言った。
 先生はこの恋物語を聞いてどんな感情を抱くのだろう。
 部屋の障子窓を微かに開ける。いつのまにか雪が降り出していた。古い雪の上へと、化粧直しのように空から落ちてゆく。雪は冬に散る冷たい花びらだ。
 窓の隙間から入り込んだ風が襟首をくすぐり、思わず身をふるわせた。身体が冷えぬうちに外と中とを遮断し、風に微かに散らばった便箋を手に取り思考する。

「兄さんありがとう。書きたいことが少しだけ纏まったよ」

 そうだ、この物語を手紙にしたためよう。
 私はペンを取り、再び文机と向き合う。ペン先の走る音が部屋を満たしていった。


 これは、桜の木になったある男の恋物語である。
 ある春の頃、山へと入った男は一本の桜の下で不思議な娘と出逢った。
 もし、と娘は花の咲くような声で男に語りかけた。艶やかな黒髪を風に晒し、上等の着物を着た娘は薄い絹の打掛で顔を隠していたが、その出で立ちからして大層美しいのだろうと思われた。
 男は一目で娘に惹かれた。男は己の仕事を忘れ、つかの間の娘との不思議な逢瀬を楽しんだ。娘は男の話を大層楽しそうにして聞いていたので、普段は無口な男は喜んだ。なんと心に優しい娘だ、と。
 二人は、再びこの桜の木の下で逢おう、と約束を交わして別れた。

 来る日も来る日も男と桜の娘は逢瀬を重ねる。
 娘が己の素性を一切話さないことを疑問にこそ思ったが、二人で過ごし時間は今まで感じた事のないほど穏やかなものだったので、男はそれだけで十分だった。
 山へとしきりに入る男の姿を見て、界隈の人間は「あやかしに誑かされたのだ」と口々に噂した。始めこそ男は気にしていなかったが、村の人たちに言われるうちに段々と心が揺らぐ。男は一度も約束を違えなかった娘のことを信じていたが、素性を頑なに話そうとしないことに小さな不満を募らせていたのも事実だった。
 娘の名を聞くとよろしかろう、とある老婆は言った。名があれば人の子、名がなければ妖しき者である、と。
 男は次の逢瀬を迎えると、言われたとおり娘に名を尋ねた。
 桜の下に立つ娘は驚いたように、けれどすぐに悲しげな表情になって首を横に振った。
 名前はありませぬ、と娘は震える声で言った。
 娘は花を咲かせる神様であり、独りでいることに耐え切れずに男に声をかけたのだ。本当はすぐに己の正体を明かすつもりだったが、男と過ごす時間は楽しくかけがえのないものとなった。言い出すことができなかった。娘は黒い瞳からほろほろと花びらの涙を流す。
 その時、男は己の所業を後悔した。
 正体を知られてしまってはもう逢うことは出来ぬ。神様と人間は元より交わらぬもの。男は娘を引き止めようとしたが、たちまち娘の身体は嵐のように舞い散る薄紅の花びらに紛れ、気付けばその姿はどこにも見当たらなかった。

 男は心を病んだ。
 花の神様を愛していたのだと、けれどそれに気付く頃には春の季節は過ぎてしまい、それでも男は何度もあの桜の木に通った。いくつもの季節を過ぎ、幾年もの時が経ち、男は老いてく己の身を恐れながらも春が来るのを待った。春が来ればあの花の娘に再び出逢えるのではないかと、諦めきれないその姿にやがて人々は気が触れたのだと噂し、男は独りになっていった。
 そして、神様があれほど恐れていた孤独の正体を知った。背後から迫ってくる狂おしいほどの静寂、言葉さえ忘れてしまいそうな、記憶さえも喰われてしまいそうな――独りはなんと悲しく恐ろしいのだろうか。
 その孤独の中で男ははたと気付く。
 嗚呼、かの娘の愛した花になればいいのではないか。そうすれば再び出逢うことができるのではないか。そうだ、次の春が来る頃、わたしは花になろう。
 やがて春が訪れると、男は老いて皺だらけの手を空に高く伸ばし、姿なき面影へと願う。
 たちまちその手は枝となり天へ伸び身体は黒茶の太い幹となり、足は地上へと根を張った。枝にいくつもの蕾が結び花開く。男の身体は神様の愛した一本の桜へと姿を変えたのだ。それは大層美しい木だった。
 満開の花は辺りを桜色に染める。その色香に誘われて一人の神様が桜に降り立った。
 神様は優しい笑みを浮かべながら、愛おしげに桜の幹を撫でる。
 そう、男は花の神様と再び出逢うことが出来たのだ――。

Next | Home | Next