03
 甘美な芳香を乗せ、風が吹き抜けていく。春が来たのだ。
 私は初めて「懐かしい」と感じた。
 春がこんなにも懐かしい。今までに経験したことのない、不思議な感覚だ。長い冬篭りから目覚めた草木は暖かな光を浴び、真新しい緑をきらきらと輝かせいている。生命の音色が聞こえるようだった。
 私は先生と縁側に座り、茶を飲みながら庭を眺めていた。春が待ち遠しいと言っていた先生は、その訪れを迎えると、春先の植物のごとく瑞々しさを取り戻していった。病の気配が遠ざかったその横顔は心なしか嬉しそうだ。

「暖かくなって来ましたね」

 夜は肌寒いが、日中はコートが要らぬほどだ。こうして縁側に座って日向ぼっこをするだけでも身体の中心がぽかぽかと温かくなる。つい居眠りをしたくなる陽気に、あくびを噛み殺した私を見て、先生は小さく笑った。

「春は気分を良くさせる」
「そうですね」
「縁側で昼寝をするのもなかなか愉快なものだよ」
「……先生がうたた寝なんて、あまり想像で来ません」

 僕だってうたた寝くらいしたくなるものだよ、と先生は言って、それからいつものように穏やかな瞳を桜へと向けた。
 花がぽつぽつと咲き始めた花木はあと三日もすれば満開を迎えるのだろう。
 私と先生が出会って一年が経とうとしている。きっと今年も見事な花を咲かせるのだろう。冬の眠りから醒めた薄紅の娘は微笑を浮かべ、枝の一つにゆったり腰をかけて咲き始めの花たちを見守っていた。
 ふいに、薄花のすぐ傍に一羽の鶯が止まった。緑褐色の花見鳥は咲いたばかりの桜の花を一輪くちばしで摘んだかと思えば、そのまま羽を広げていずこへと飛び立った。
 あの鶯はどこへ春を運ぶのだろう。
 柊太郎、と珍しく先生が私の名前を呼んだ。

「君は恋をしたことがあるかい?」

 その問いかけに私は目を瞬かせた。
 上手く声が出ず慌てて首を横に振る私に、先生は一瞬の間の後、可笑しそうに声を上げて笑い出した。
 先生がこんな風に笑うのを見たことがなかったので驚いたが、恥ずかしさが勝って顔を伏せた。どうして青臭い反応をしてしまったのだろうか。今まで色恋のことなど誰にも聞かれたことがなかったから、気が動転してしまったのだろうか。
 先生は小さく深呼吸を繰り返しながら、すまない、すまない、と詫びた。よほど面白かったらしいのか、まだ肩が震えている。しかし私はなんだか面白くないので「あまり笑い過ぎると身体に障りますよ」と、少し眉を寄せて心外だと言いたげに口調を強めた。もちろん、本気で怒っている訳ではなく、先生も半分冗談であると承知してくれているだろう。

「いやあ、すまない。まるで昔の自分を垣間見た気がしてね」
「昔の先生ですか?」
「君の歳になる頃までは大層初心だったんだ。こんな容姿だから同級生には『おとこおんな』とからかわれ、女子たちには影で笑われていたものだよ。父も堅気で厳しい人だったから、どうも僕は頼りない後取りに見えていたらしい。折り合いが悪かった」

 先生が身の上話をするのは珍しい。
 彼は自分のことをあまり話したがらないので、知っていることは断片的なことに留まっていた。昔の先生、と言われたところで想像も出来ない。
 これから先生の話すことが大切なものであるように思え、私は黙って言葉に耳を傾けた。

「母は僕が物心つくまえに病で死に、父は厳格な教育を僕に施した。優しくされたことなど、なかったように思う。友人を作ることにも良い顔をされなかったから、いつも一人だった。人間は一人に慣れることが出来ても、孤独を受け入れられるほど強くはない」

 その頃に先生は音楽と出会い、魅入られた。必死に父に頼み学業の成績を上位に保つことを条件に、ピアノを買ってもらったのだと言う。ピアノが届いた日は嬉しさで眠ることが出来なかった、と先生は振り返った。

「思えば、あれが僕の初めての我侭だった」

 泣き笑いの表情は、どこか幼くもある。

「薄花と出逢ったのはその頃だ。独学のピアノがそれなりに上達してきた十二の春だった。桜の花びらが時折屋敷に迷い込むことがあって、薄紅のひとひらが鍵盤の上に舞い落ちてきたんだ。振り返ると窓辺に見知らぬ娘が座っているのを見つけた」

 それが薄花だった。ずっと自分のピアノを弾く姿を見ていたらしいと気付き、幼い先生は恥ずかしさで真っ赤になった。
 上達したと言っても下手の横好きで始めたものだから、あくまでも自己満足だった。その頃は、まだ人に聴かせることが恥ずかしかった。
 誰なのかと問うても娘は静かに微笑むばかり。
 その姿がすうと景色に溶けてゆくのを見て、先生は大層驚いた。
 あれは幽霊だったのか、それとも春が見せた幻想か。何だか怖くなって、先生はそのことを忘れようと思った。けれどピアノを弾いていると必ず娘は現れ、じっとピアノに聴き入っている。どこからやってくるのかもとんとわからない。
 やがて先生は娘が庭に咲く桜の主らしいことに気付き始めた。いつか親族の誰かが、この桜に住まう神様と花舘家の花守の話をしてくれたのだ。だから娘は何処からともなく現れ、言葉を発することもなく、少年の奏でる音楽に耳を傾け、やがて桜へと消えて行く。
 ただ静かに在るもの。それが彼女の正体のようだった。

「誰かが音楽を聴いてくれるということがどれほど満ち足りたことなのか、薄花が僕に教えてくれたんだ」

 先生は膝の上に頬杖をついて、まるで昔の記憶に沈もうとするようにそっと目を閉じた。

「それから僕は更に音楽の世界に入り込んでいった。毎日のようにピアノの前に座った。あの頃は上達していくことがとても楽しかった」

 美しく奏でたい、薄花の神様の嬉しそうな表情をもっと見たい。思えば思うほど、腕はみるみるうちに上達していき、やがて音楽は二人を繋ぐ言葉となった。

 あの秋の日を思い出す。
 ピアノに向かう先生の背中、それを優しげな瞳で見守る薄紅の娘の姿。同じ場所にいたはずなのに、二人は二人しか知らぬ景色を見ているようだった。きっと昔から二人はそうしてきたのだろう。美しさと哀愁に溢れ、儚くもさえ感じられる世界と、神様のための小さな演奏会。

「やがて僕は東京の音楽学校に行きたいと父に二度目の我侭を言った。約束を守って形ばかりは上位の大学に入るほどの成績を保っていたから、自分の将来を棒に振るのかと父は猛反対だったよ。でも僕も本気だったから、やがて父の方が折れてしまった」

 ずっと一緒にいた薄花と離れるのは少し寂しかったが、先生は本格的に音楽が学べることが嬉しかったのだと笑った。ヨーロッパへも留学した。すべてが新鮮だった頃のことだ。
 しかしある時から、先生は言い知れぬ不安を抱き始めた。薄花と過ごした時が長すぎたのか、いつの間にか一人の静寂に慣れきってしまったからか、外の世界は口を開けた大きな怪物のように思えた。先生は段々と人を信じることができなくなった。音楽を誰かに聴かせたとて、演奏会で拍手喝采を浴びたとて、ただただ恐ろしく手が震えた――。
 先生は軽く眉を寄せ、喉に詰まった言葉をやっとの思いで吐き出す。

「それからは……以前君に話した通り、僕はのこのこ帰ってきてしまった。不思議なことにここへ戻るとすうと心が軽くなってね。少し前まで小学校で音楽講師をして、時折薄花にピアノを聴かせながらそれなりに過ごしてきたけど、この病ばかりはどうにもならないらしい」

 腕を伸ばし、掌を空にかざす。それは光を遮断して先生の顔に影を落とした。指や足先の皮膚が硬くなり曲がってゆく不治の病。先生は、自分の病の進行が早くなってきている、と掠れた声で呟く。

「けれど不思議と怖くはないんだ」

 恐怖は、諦めがつくとどこかへ姿を消してしまった。
 どうしようもないのは悲しみのほうだ、と噛み砕くように言葉を続ける。
 私は先生の曲がった細い指先を見つめた。音楽家の命とも呼べるその手は、やはり木の枝のようで、私はふとあの物語を思い出す。

「どうせなら、この手から花を咲かせることが出来たらいいのにね」

 どうして、穏やかに笑うことが出来るのだろうか。
 その心を図り知るには私は未熟で、だから時折歯痒く思う。もし、私がもう少し大人であったのなら迷わなくてすむのだろうか。俯いて考える。答えは見つからない。

「君は本当に優しい青年だ」

 穏やかなまま、いつか言った言葉を呟いて、先生は天にかざした手を私の頭にそっと乗せた。優しい重みと陽だまりのような温かさが広がる。それは心を鎮めるまじないのようだった。

「先生はどうして私に話そうと思ったのですか?」

 やがて、呟くように小さく尋ねる。

「君は僕の大切な友人だから、知っていて欲しかった」

 先生の手が離れてゆく。私ははっと顔を上げて彼を見た。
 微笑んでいた。春風のように、心の中に花びらが迷い込むように。

「僕は、自分と同じ世界を見ることが出来る人間と出会えて嬉しかったんだ。それを隠さずに語り合える相手を僕はずっと探していたような気がする」

 そこに君が現れたのだ、と先生は微かに目を細める。

「私も嬉しかったのです」

 同じものが見えることで共有できるものがある、と兄は言っていたが、確かにこの力がなければ先生に出会うことなど出来なかったのだろう。きっとすれ違うだけの赤の他人であったのかもしれない。
 先生、と私は呼びかける。

「一つ、尋ねたいことがあります」
「なんだい?」
「先生は薄花さんに恋をしているのですか?」

 驚いたように少し目を見開く。瞳の奥で微かな光が揺れたような気がした。
 先生は暫く黙っていたが、やがて薄花へと視線を移し、ぽつりと言葉を紡いだ。

「時折、この気持ちが何であるかわからなくなることがある」

 先生はゆっくり立ち上がり、庭の真ん中へと歩み出る。
 切り取って見える春の空は、咲き乱れる桜の花にけむる淡い青色だ。

「近くにいると安心するし、離れれば心が苦しくなる。この時間が永遠であれば良いのに、と思ったことは何度もあるのに、片や恨めしくも思う。曖昧で、けれどその曖昧さが僕は愛おしいような気がする……」

 そもそも恋心というものを今でもわからない、と先生は呟く。

「もしかしたら、僕はわからないままで良いと心のどこかで思っているのかもしれない」

 感情だけは自由でありたい、縛られるのはまっぴらなのだと。
 答えなど知ったところで、何が変わるのだろう。ならばこの疑問を胸に生きたほうが真っ当だ。大事なのは、己の心が告げる言葉を聞き漏らさないこと。それが限りなく難しいことであったとしても――。
 日の光が先生を照らし出す。
 日陰から見えるその背中は眩しく、私は思わず目を細めた。
 先生は一体どんな表情をしているのだろうか。

「君の目に、僕たちはどんな風に映っている?」

 遠くで、薄花がこちらの様子を伺っている。彼女はいつの時も静かに耳を傾けているのだ。四季の移ろいの微かな音色を、そして紡がれる言葉を。
 ああ、彼の神様は今何を思っているのだろう。
 その美しい瞳はいつだって愛おしげにその男を捉えているというのに。

「――私は、」

 音を紡ごうとして、上手く言葉に現すことが出来ない。
 先生は振り返り、儚く笑った。「柊太郎」と私の名をもう一度呼ぶ。

「僕はこの季節と逝くよ」

 この桜の花が満開を迎える頃、きっと逝くだろう。
 あの歌のように、美しい景色に溶けるように。
 それが先生の望む結末。彼の望みが叶った時、この感情を示す言葉を私は知ることが出来るのだろうか。先生と出会ってから、わからずにいたこの胸のうちに秘めたものの正体を。
 そうして、いつか告げられたように見届ける日がくるのだろうか。
 はたして、私に出来るのだろうか。わからない。

 けれど確かなことがある。

 私は、出逢ったあの時から変わらず、美しい二人が好きなのだ。


 それは想い人を偲ぶような静かな雨だった。
 私は寄宿舎の自室で、手持ち無沙汰に窓ガラスに隔たれた外をぼんやりと見ていた。吉田山が雨に霞んで水に溶かした絵の具のように所々に緑が浮かび上がっている。光を遮る厚い雲のせいで、部屋が薄暗く陰湿な雰囲気を孕んだ。級友が手折った桜の枝だけが、ささやかな彩りを添えていた。

「……これでは花が散ってしまうな」

 独り言ちる。けれど吐き出したため息さえも、雨音に吸い込まれてゆく。
 ふいに名前を呼ばれて振り返ると、級友がこの天気に似つかわしくないのんびりとした表情を浮かべ扉の向こうに立っていた。

「今しがた玄関で君宛の手紙を渡されたのだが」

 手に持った白い紙をひらひらと振ってみせる。それは手紙と言うよりも走り書きに使う紙切れのようだった。差し出された手紙を受け取り、目を通す。指先が震えた。

『行く春の 咲き散る色に 花と恋ふ』

 小さな歌だった。差出人の名前はないがこの字は先生のものだ。私は心の内で広がる嫌な予感に、手紙を取り落とした。「先生」と小さく呟く。
これは別れの言葉なのだろうか、それとも自分を呼ぶ声なのだろうか。

「大丈夫か?」

 口に手を宛てたまま動きを止めてしまった私の肩を、級友が軽く揺すった。現実に引き戻されるように、ゆっくりと視線を彼へと合わせる。口を開こうとして、けれど舌が絡まって上手く言葉に出来ない。それでも何かを感じ取ったのか級友は頷いた。

「大事な用があるのだろう? 後で適当に言い訳を考えておくから」

 早く行って来い、と強く背中を押され、私は立ち上がった。
 ありがとう、と言いながら傾れるように部屋を出て階段を下りた。靴紐を結ぶ時間さえももどかしく、傘を持つことも忘れ、小さな紙切れを懐に忍ばせ春の雨に吸い込まれるように飛び出した。その後を懐かしい花の香りが追いかけてくる。
 冷たい雨の中を駆ける。
 服に沁み込んだ雨水が体温を奪っていくが、今の私にはそれすら構うのが惜しく、無我夢中で小路を走りぬけた。途中にある疎水道も雨の帳の中ではまるで別の景色に見えた。
 酷い姿で着いてしまったから、玄関先で私を出迎えた先生はぎょっと目を見張った。

「まるでずぶ濡れの猫みたいだね」

 漸くして先生は小さく笑い、風邪を引くといけないからと私に風呂に入るように促した。普段と変わらぬ先生の様子に拍子抜けして、言われるまま着替えることにした。
 先生はピアノの部屋のソファーに座り、淹れたばかりの湯飲みを手に雨にけむる庭を眺めていた。普段は開け放された窓も、今は硝子で外と中を遮断している。結露したガラスに当たる細やかな雨粒は雫となり透明な線を作りながら落ちてゆく。庭の桜が灰色かかった景色の中で咲いている。
 嗚呼、花が散ってしまう、と思った。
 早く雨が止んでくれないものだろうか。
 先生は廊下に立つ私に気付いて、振り返った。

「温まったかい?」
「はい。着物もありがとうございます」
「少し大きかったかな? さぁ、ここに座ってお茶を召し上がりなさい」

 身体を冷やしてはいけない、と渡された湯飲みを受け取りそっと微笑む。誰かにこうして面倒を見られるのは久しぶりだ。お茶の香りを吸い込んで、そのまま口を寄せて湯飲みを喉へと傾けた。香りと微かな苦味と程良い温かさが喉を伝い、身体の芯を温めてゆく。

「僕の伝言を受け取ったみたいだね」

 先生の視線が、私の目を捉えた。

「本当は別れの言葉だけ伝えようと思ったんだ。これ以上、君をこちらの世界に引き込んでしまいたくなかったから」

 けれど駄目だったと、先生は自嘲の笑みを浮かべた。

「僕は君が来てくれたことが嬉しいんだ」
「先生、」

 言いかけた私の言葉を、先生は手で制した。

「君は見届けてくれるだろうか?」

 いつかその日はやってくるだろうと、覚悟していたつもりだった。
 けれど、本人の口から聞く言葉は想像よりも重たく心に響く。早くも遅くも、誰にでも平等にやってくるその日を、誰もあらかじめ知ることは出来ない。しかし選ぶことのできる人間が、少なからずいる。生きることに理由を探すように、死というものにも意義を見出した人間の心理は、愚かなものと言えるのだろうか。
 それでも先生は見つけ出したのだ。自身の最期を長い歳月の中で捜し求め、そして選んだ。
 薄紅の娘の待つもう一つの世界へ行くことを。
 ならば、私は見届けなければいけないのだろう。こちらの世界とあちらの世界の境界が視える者として、その選択を静かに見守り、目に焼きつけ、記憶に刻むために。
 先生、と心の中で語りかける。

 ――私たちはこの時のために出会うべくして出会ったのではないでしょうか。

 もし、薄花さんが私たちを引き寄せたのだとしたら、これは定められた運命だったように思えてならないのです。私はやっと、自分が何故見えないものが見えるのか、その理由がわかったような気がいたします。見届けるという言葉のその真意も。
 嗚呼、どうか最期まで穏やかにわらってください。


 夜空の晴れ間から丸い月が姿を現す。
夕方に止んだ雨は、水に濡れた土のにおいと細かな雫だけを残していた。肌寒い空気が庭を包み込む中で、雫に濡れた桜の木はどこか艶っぽく、月夜に浮かぶ姿は一層幻想的だ。
 私たちは縁側に出て、酒を酌み交わしていた。

「健全な学生に酒を勧めるのは、悪いことをしているようで後ろめたいものだね」

 紅の杯に酒を注ぐ私を見て、先生は少し眉尻を下げた。

「私の同級には幾人か酒飲みがいますよ」

 こっそり酒を持ち込み、宴を開くつわものもいる、と言えば、先生は笑いながら「若気のいたりなり」と杯を煽った。先生の所作はとても優雅だ。私の方へと銚子を向け杯に酒を満たす先生の顔色は、普段よりも良いように思われた。

「では君もよく飲むのかい?」
「いいえ、わいわい騒ぐのはあまり好きではないし、実は下戸なので」
「ほお」
「でもこうした静かな晩酌は嫌いではないです」

 なるほど、と先生は得心したようにうなずいた。
 今度は私が先生に聞き返してみる。すると悪戯っ子のようににやりと笑う。

「まぁ、嗜む程度には」

 なるほど、と私も笑い返した。
 先生と交わす言葉はどれも洗練されているように思える。するすると流れる言葉は譜面に書かれた音符のように滑らかだ。そのことがとても心地良い。
 ふと雲が晴れ、あたりが明るくなった。見上げれば、群青の空の真ん中で暈のかかった満月が朧に夜を照らし出していた。春の月は柔らかい光を含んでいる。ふりそそぐ光は夜桜の花びらたちの色を淡く浮かび上がらせる。

「美しいですね」

 魅入られたように、つかの間その景色を眺めていた。
 その隣で先生は自分の杯に酒を注ぎ、私との間に、桜に捧げるように置いた。紅の杯の中でゆらゆらと白銀の月が浮かび上がる。水面に囚われた月――。

「以前、君は僕に薄花に恋をしているのかと尋ねたことがあっただろう?」

 穏やかに語る声は、月のように冴え渡って耳に届く。

「僕はこの気持ちが良くわからないと答えたけれど、実のところ、僕の中に存在するいくつもの記憶が感情と重なり合ってわからなくなってしまうんだ」

 その意味を推し量るのは私には困難なことで、だから何も言えずにただ静かに先生の言葉に耳を傾けた。

「その昔、僕の先祖は薄花と契りを交わした。けれど神と人間の寿命はあまりにも違う。彼は老い、やがて死期を悟ると薄花とある約束を交わした」

 夜風が桜の花を攫う。月夜に煌めく花びらは無慈悲にも地上へと落ちてゆく。

「たとえこの肉体が朽ちようとも、魂は貴女の元へ還るでしょう」

 故に、この家に代々花守と呼ばれる者が生まれるようになった。遠い昔の約束を守るため、見かけの姿は変わっても魂と血は同じ。記憶に刻まれ、無意識に守ろうとし、そうしてこの地に縛られる。
 先生が生まれる前は彼の祖父が花守だったと言う。

「輪廻転生なんて馬鹿馬鹿しいかもしれないが、僕は確かに先代の花守たちの記憶を引き継いでいる。経験したことのない出来事、見たことのない景色がふと頭を過ぎるんだ。きっと昔からそうして僕たちは延々と生を繰り返しているのだろう」

 永久に傍にいると誓いを立て、薄花の神様が悲しまぬよう絶えず音楽を奏で、やがて死する時を迎えると、その静かな想いを次の花守へと託す。

「僕と薄花はずっとその約束に縛られてきた」

 彼は脈々と受け継がれてきた輪廻の糸を断ち切ろうとしているのだ。
 それは最期の末裔としての責務なのかもしれない。
 今日は花びらがよく散る、と先生は悲しそうに呟く。
 花散らす桜は美しいのに、少しも気が晴れないのは、悲しい宿命を知ってしまったからだろうか。花は地面に濃い影を落とし、その闇の中で見知らぬ獣を飼う。その獣の名前は「死」だ。美しいものは人間を魅了し讃えられるが、同時に底知れぬ闇に引きずり込む力を持っている。神様の木とてそれは変わらないのだろう。
 花びらが一つ、月の映る杯に舞い落ちてその透明な水面を揺らす。先生は杯を手に取ると、妖艶な笑みを浮かべてそれを飲み干した。
 宴を終え、今夜は遅いからと先生の宅に泊まることになった。
 私は心地良い静けさに、月の光を浴びながらゆっくりと眠りへと誘われた。

 やがて、眠りの底で不思議な夢を見た。
 私は誰かと意識を共有していた。辺りを見回すと、淡い光に包まれた庭に、一本の古い桜が立っている。私はその「誰か」となって桜の木を見上げていた。
桜の花は咲き乱れていた。その中に紛れて薄紅の娘がこちらに背を向けて遠くを見上げている。

 ――泣いているのだろうか。

 ほろほろと娘の瞳からこぼれ落ちるのは、桜の花びらだ。
 そうか、この娘は悲しんでいるのだ。己の孤独を憂いているのだ。私は自分の口が意識とは別に動くのを感じた。言葉であるはずのそれは、不思議と音にならなかった。けれど薄花には聞こえたらしい。彼女ははっとこちらを振り向いた。目の縁が泣き腫らしたせいで紅色に染まっている。
 いつから泣いていたのだろう。誰にも気付かれずに、ずっと独りで、何度涙を流してきたのだろう。
 私の唇は再び何かを言葉にしたようだった。私の腕は持ち上げられ、娘へと伸ばされてゆく。その手には赤い杯が握られていた。すると薄花様も白い腕を伸ばし、杯を桃色に染まった柔らかな指先で受け取った。空の杯にそっと唇を寄せ、ふうと息を吹きかけた。
 すると、たちまち杯は甘い芳香を放つ透明な液体で満たされていく。
 そうして薄花の神様は私へと杯を返した。杯の真ん中には一輪の桜の花が浮かべられている。
私と意識を共有する者は躊躇うことなく杯に口を寄せると、すうとそれを飲み込んだ。喉を通って伝わるのは今までに感じたことのない不思議な味わいだ。
 その時、心の奥底に花が咲くのを瞼の裏で見たような気がした――。


 意識を切り離され、ふわりと浮かんだかと思えば、いつの間には景色は夜へと転じていた。私は息をすることを思い出すことで、ここが現実であることを確かめた。けれど身体は未だ夢見心地の中に沈んでいる。
 遠くに、男の姿を見た。彼は月の光が照らす桜の下に立っていた。
 私はぼんやりと男が枝の一つに手を伸ばす様子を眺める。その先には雪のように白い娘の腕が待っている。二人の指先が触れ、男は娘の手をしっかりと握り締めた。一瞬にして花びらが舞い上がり、共鳴するそれは祝福しているようでもあった。
 先生はとても穏やかな表情をしていた。
 柔らかな光を宿す瞳が、ふと私を捉える。彼は微笑み何事か囁いたようだった。
 けれどその言葉は私の耳に届く前に、 先生を包みこんだ花びらと共に夜へと紛れ込んでしまう――。先生が桜の一部となるのを、私は約束通り見届けたのだ。


 さらさらと頬を撫でる風に目を覚ます。いつの間にか桜の幹に凭れ掛かって眠っていたらしい。
 ふと頬に手を当てると、濡れていることに気付いて驚く。私は泣いていた。「どうしてだろう」と考えようとすればするほど涙が溢れて止まらない。悲しみはこんなにも胸を締め付けるのか、と初めて知った。
 空を見るために顔を上げる。それでも涙は頬を伝って落ちていく。
 夜の妖しく幻想的な姿と違い、風に揺れる桜の花びらは柔らかく、淡色の空が花の色と混ざり合って美しい色合いを作り出している。花の隙間から地面へと日の光を落とす桜に、私は思わず目を細めた。
 その時、花々の向こうに、見知った二つの陰を見たような気がした。
 漸く二人は結ばれることが出来たのだ。
 桜の幹に背中を預けたまま、もう一度眠るように目を閉じた。
 きっとこの季節が訪れるたび思い出すのだろう。

「ゆく春の、咲き散る色に、花と恋ふ」

 言葉は風に乗り、花びらとなって空へと舞いあがった。

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