第一章 01
 開け放たれた窓から青草の香りを含んだそよ風が届く静かな夜だった。
 花柄の柔らかな掛け布団をかけたままベッドから上半身を起こした少女が、外の景色に見入っていた。窓の向こうに群青色の空にぽつんと銀色の欠けた月が懸かって見える。あと三日すれば満月だ。
 ベッドサイドに置かれたテーブルランプの黄色い明かりが、少女の白い横顔を照らし出していた。豊かに波打つ長い黒髪と、夢見るように輝く黒曜石の瞳。レースのあしらわれた白いネグリジェが小柄で華奢な身体を包んでいた。

 閉じられた扉越しに、こんこん、と誰かが叩く音がした。

「……眠れませんか?」

 闇に包まれた廊下の向こうから顔をのぞかせたのは、ひとりの青年だ。
 少女は窓から視線を動かし、扉の横に立つ青年を見た。

「兄さま」

 そう呼びかければ、青年は静かな足取りで少女の元へやって来て、ベッドの傍に置かれたアンティークの椅子に腰掛けた。明かりに照らされ、青年の顔がはっきりする。
 白に近い銀色の髪と、晴れ渡った冬の空を思わせる青い瞳がとても美しい青年だ。口の端にそっと笑みを浮かべるその横顔は、少女と似通っている。

「月が綺麗だから、少し見上げていたの。でも眠れなくなってしまったわ」

 少女は困ったように眉を寄せた。
 そんな少女の様子に、青年は小さく笑う。

「月の出る晩は、どこか落ち着かない気分になるものです」
「ほんとう?」

 ええ、と青年は頷いてみせる。そして、少女の横髪をそっと撫でた。

「眠れるまで、いつものようにお話を聞かせてあげましょうか?」

 彼はどうすれば少女が眠れるのかよく知っている。少女はぱっと瞳を輝かせ、「兄さまのお話は大好きよ」と青年の手にその小さな掌を重ねた。

「どんなお話にしましょうか?」
「夜の国のお話がいいわ。わたし、兄さまが聞かせてくれる夜の国のお話が一番好きなの」

 少女はすっと眼を細め、笑みを作った。
 妖精の国の物語に英雄譚、麗しき王女、恐ろしいドラゴンの物語――青年はいろんな話を語ってきたけれど、中でも彼女のお気に入りはこの世界のどこかにあるという『夜の国』の物語だった。

 青年は少し考えるように、天井へと視線を動かした。ランプの明かりに追いやられた闇が、部屋の隅でじっと気配を潜ませている。開け放たれた窓から差し込む月の光に目が留まると、ふとあの出来事を思い出した。
 月の美しい夜にぴったりな物語だ。

「……では、『月光の庭』のお話をしましょう」
「月光の庭?」

 少女は不思議そうに、けれど好奇心でいっぱいに瞳を輝かせて首を傾げた。
 ええ、と青年は頷いた。
 夜の気配がだんだんと濃くなってゆく部屋に、青年の優しく穏やかな声が広がる。
 
 昔々――。

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