第一章 02
 妖精の国の隣、夕暮れと夜明けの狭間に夜の国はありました。
 夜の国は『夜の王』が管理する、その名の通り常夜の国でした。満天の星々と月明かり彩られ、夜闇に花の香が強く香り立つその場所は、闇間の世界に住まうものたちの小さな楽園でした。
 緑の濃く落ちる深い森をまっすぐに進んでゆくと、夜の王が住まうお城が現れます。そのお城は普通の人間の目には廃墟同然でしたが、〈二つ目の眼セカンド・サイト〉を持つ者や狭間に迷い込んだ者には美しく立派な宮殿に見えるのでした。

 夜の王のお城には、美しい庭が七つありました。
 そのひとつに『月光の庭』と呼ばれる庭がありました。背の高い木々に囲まれ、清らかな水の湧き出る泉のある庭です。泉の真ん中にはアーチ型の東屋があり、その屋根は硝子で作られていたので、月の出る晩には硝子を通して月の光が東屋に落ちて輝くのでした。

 その庭の番人は、樫の木を寝床にする一羽のふくろうでした。
 梟は茶色と灰色交じりの翼を持ち、宵闇でも輝く大きな金色の目をしていました。逞しい鉤爪はしっかりと木の枝を掴んで離しません。静かな佇まいは、森の若き賢者に相応しいものでした。梟はその大きな目で、この泉を見守ってきたのです。

 空を見上げると、東から上った上弦の月がゆっくりと庭の真上へと懸かろうとしていました。
 今宵の月は乳白色がかって見えます。月は白い大理石でできた東屋の柱を照らし出し、硝子の屋根を透って七色の薄い光となって降り注ぎました。
 やがて静かな庭に、ハープのような柔らかな音が広がります。
 まるで硝子の欠片がさらさらと落ちるような、不思議な音です。

 光はカーテンが風に踊るように、ぐらりと波打ちました。
 それはゆっくりと美しい女性の形へと変わりました。月光と同じ色の、儚げな娘でした。長い髪がだらりと東屋の床に広がります。俯いた顔を両手で覆っているので、その表情をを伺い見ることはできません。けれど、手の隙間から流れては落ちる硝子のような雫は、彼女の深い悲しみを知るには充分でした。

 ハープの音色のようなそれは、娘の泣く声なのです。
 木陰からその様子を静かに見つめていた梟は、胸が痛むのを感じました。
 あの娘が泣く姿を見るのはこれで何度目だろう、と悲しくなりました。

「どうか泣かないでください。〈月の貴婦人〉よ」

 梟は東屋の階段へと降り立つと、娘をそっと見上げました。
 娘は顔を上げずに、ハープの調べのような声音で囁きます。

「どうして泣かずにいられましょう、庭の番人よ。あの方は未だ、わたくしの元へ帰ってきてはくださらないのですから」

 顔を覆っていた長い指先から覗いた睫にきらきらと涙の結晶が輝きます。瞳が震えるたび、その結晶はほろほろと零れ落ち、辺りへと転がってゆきました。
 梟は短いくちばしを噤み、また胸が痛むのを感じました。彼は娘の深い悲しみのわけを知っていたのです。

 ――それはある満月の晩のことでした。

 月光のニンフたちが泉で宴を開く、月に一度の夜。地上に降りたニンフたちは踊り、歌い、音楽を奏でて己が仕える女神を讃えるのです。
 その宴にどこからか迷い込んだ人間の男がいました。
 男は絹糸のような金色の髪を肩まで伸ばし、サファイアの色をした瞳を持っていました。その身体からやわらかな甘い花の香りを感じて、梟はすぐに彼が妖精の国の〈取りかえ子〉であるとわかりました。妖精の国では、美しい人間の子供を人間界から攫っていくことがあるのです。そんな人間が夜の国に迷い込むとは……。

 男はどこか夢見るような瞳で踊る娘たちを見つめていましたが、ニンフたちは乱入者に気付くと、瞬く間に陽炎のように消え去っていきました。彼女たちは人間の男をひどく嫌うのです。
 けれど、ひとりだけ逃げ遅れて、男と対峙することになったニンフがいました。
 それが〈月の貴婦人〉でした。
 男は娘の手を取り、「どうかお待ちを」と柔らかな声音で囁きました。
 その言葉はニンフへの呪縛でした。宙に浮いた〈月の貴婦人〉の白い衣の下から、白い陶器のように滑らかな足が現れたのです。身体がゆっくりと下降し、その二本足はしっかりと地上を踏みしめました。
 娘は悲しげな瞳で男を見上げました。

「なんと酷いことをなされるのですか」

 〈月の貴婦人〉は震えた声で言いました。

「これでわたくしは、貴方を愛さないといけなくなったのです」
「どうして……?」

 男は、己が残酷な問いかけをしたことに気付いていないようでした。
 真珠色に輝く娘は続けました。

「貴方はたった今、わたくしに呪いをおかけになったのです。地上に引き止める呪いです。わたくしは貴方を愛するか、貴方の魂を食べるか、選ばなければなりません……けれど貴方の魂を食べてしまえば、わたくしは二度と月の女神さまにお仕いすることはできないでしょう」

 人間の魂を食べるということは、ニンフの魔力を強くすることにもなりますが、同時に、穢れを一身に受けるということでもありました。女神に仕える清らかなニンフたちにとって、それは禁忌だったのです。

「――このときをもって、貴方を愛することをここに誓いましょう」

 誇り高き〈月の貴婦人〉は跪き、男の手の甲に軽く口付けをしました。
 すると、男は娘の白く冷たい手をとって己の額にそっと押しつけました。
 まるで己の犯した罪を告げるように、ひとつひとつ言葉を紡ぎます。

「麗しいひとよ、どうか私の罪をお赦しください。私はただ、外の世界に出られたことが嬉しかったのです。どうか、貴方にかけてしまった呪いを解く機会をお与えください」
「どうやって呪いを解くというのですか?」

 〈月の貴婦人〉は訊ねます。
 男は青く澄み渡った瞳で、娘を優しげに見つめ返しました。

「ある島にそれは美しい水晶の花がございます。それを持参して、貴方に求婚いたしましょう。さすれば、貴方は月の女神の元へ帰れるのでしょう?」

 ニンフは愛することはしますが、愛されることはできないのです。ひとたび愛情を受ければ、彼女たちはたちまち呪いをかけた男の傍から離れなければなりません。彼はそのことを知っていたのです。

「約束しましょう。次の満月の夜までに、水晶の花を持ってくることを」

 男は〈月の貴婦人〉の白い指先にそっと唇を落としました。

「……では、お待ちしましょう。貴方が約束を果たすまで」

 美しいニンフは微かな笑みを浮かべました。その柔らかな色の瞳から、美しい雫が流れます。

「妖精の国の愛おし子よ、貴方の旅路に幸多からんことを」

 〈月の貴婦人〉は友人であり番人たる梟に森の案内を頼みました。
 森を抜け出れば、そこは現の国――人間の住まう世界です。
 梟は森から続く小路を歩いてゆく男の背中を、丘の向こうに見えなくなるまで、静かに見つめていました。

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