第二章 01
 五月の柔らかな太陽の光が差し込む、穏やかな日だった。
 コッツウォルズの森の傍に立つ石造りのコテージから、愛らしい声が鈴の音のようにころころと響く。声の主である少女は裏口の扉を開け、ワンピースの裾を翻しながら、麦藁帽子を飛ばさないようにしっかりと押さえて庭へと抜け出た。

「アイリーン、どこにいるの?」

 そう呼びかけながら、少女は楽しげに肩を左右に動かして庭を進んでいく。
 石を積み上げた塀に木香薔薇が枝先を伸ばしている。可憐な薄い黄色の花が咲き始めたその向こうから、「ここにいるわ」と穏やかな女性の声が返ってきた。

 まだ少し距離のある声を頼りに、少女はにこりと笑いながらどこか悪戯っぽく歩を進めていく。
 コテージの裏手には、小さな花園と慎ましやかな菜園があり、ふたつの園を高い石塀が隔てている。塀に沿って歩いていけば菜園への入り口があるけれど、少女は塀の低くなった場所で助走をつけて体を乗り上げ、向こうを覗いてみた。

 こちらに背を向けた女性が体を屈めてなにやら作業をしている。物珍しいパンツスタイルに帽子の広いつばが頭をすっぽりと覆い隠しているので、表情を伺い見ることはできない。
 けれど、向こうにはこちらが丸見えだったらしく、小さく笑う声が聞こえてきた。

「見え見えよ、エメ」
「……残念。見つかってしまったわ」

 エメと親しみを込めて呼ばれた少女――エメルダはため息をつき、生垣を通り抜けてアイリーンの傍にしゃがみ込んだ。

「アイリーンは、背中に目があるの?」

 膝の上に腕を置き、頬杖をつく。彼女はちらっとエメルダを横目で見ながら、カモミールの花を鋏で切り取った。そして悪戯っぽく囁く。

「……まあ、そんなものかしらね」
「もしかして、魔法が使えるの?」
「いいえ、もっと簡単。妖精が教えてくれるの」

 アイリーンは立ち上がり、カモミールの束をエメルダに持たせる。その立ち姿はすらりとしていて、帽子の下では青い瞳がきらきらと輝いている。柔らかな光の中に生命力が満ちる目元が印象的な女性だった。

 エメルダはその瞳をじっと見つめ返す。

「あら? 信じない?」

 彼女は器用に片眉を上げ、エメルダの顔を覗き込んだ。エメルダは慌てて首を横に振った。

「そんなことないわ。わたしも妖精は見たことがあるのよ」
「あら、それは嬉しいわね」

 エメルダはこくりと頷き、カモミールの花の香りをゆっくりと吸い込んだ。
 花の一つに乗っていたてんとう虫が慌てたように羽を広げ飛び去った。それを目で追いながら、

「あれは……そう、高い塔で……」

 霞がかった記憶を呼び起こそうとして、けれど少女は肩を落として「どうしてかしら……思い出せないの」と呟いた。
 アイリーンは一瞬憐憫に眼を細めたが、少女に気づかれないうちにその背中を押して話を切り替える。

「庭仕事をしたら、なんだかお腹が空いてしまったわね」

 ふたり揃って歩を進めていくと、エメルダは思い出したようにはっと声を上げた。

「兄さまがアフタヌーンティーを準備してくれたの。わたし、それでアイリーンを呼びに来たのだわ。どうしよう、わたしったらまた忘れそうになっちゃった」

 どこか心配げに呟く少女の様子を、アイリーンは笑みを浮かべて見つめた。
 その波打つ豊かな髪は、光が当たると青みを帯びるほどに深く美しい黒色。アイリーンのお古のワンピースもとても似合っている。セーラー風の襟には黒糸で花の刺繍がされており、生地は落ち着いたグレーだ。幼い頃に着たものだからずいぶんと古い型だけれど、浮世離れした少女にはとても似合っていた。

「さあ、早く行きましょう」

 エメルダはそっとアイリーンの手を引いた。ひんやりと冷たい手の温度が伝わる。小さく柔らかい手を握り返し、導かれるままに春の花々の咲き始めた花園を通り過ぎた。

 コテージの間取りはそれほど広いわけではないのだけれど、庭に面した立派な温室があった。この家にアイリーンが住み始めてから増築したものだ。
 天井や壁に吊るした異国の観葉植物や、柑橘の香りがする実のなる大きな鉢植えが枝葉を伸ばし、中にいるひとの姿を覆い隠してしまう。その一角に丸い白テーブルとラタン椅子が三脚、備え付けられている。

 アイリーンが着替えを済ませ温室に向かうと、まるで巧妙な絵画から抜け出たように美しい兄妹が待っていた。少女は行儀良く座り、その隣で銀色の髪を丁寧に撫で付けた青年がお茶の準備をしている。ガラスから差し込む光に照らされたその景色に、思わず魅入ってしまう。
 エメルダはアイリーンを見止めると、目を細めて破顔した。

「わたし、やっぱりアイリーンの髪の色が大好きだわ」
「そうかしら」
「そうよ。日に当たると金糸のようにきらきら光るの。素敵だわ」

 椅子のひとつに座ると、青年はアイリーンの前にティーカップをそっと置く。ポットから注がれるお茶は華やかな香りがした。ダージリンだ。

「ありがとう、エイリーク」
「お口に合えばいいのですが」

 美しい微笑を浮かべ、エイリークは椅子に座った。彼はとても控えめだ。いつも付かず離れずの距離でエメルダを見守っている。それはまるで童話に登場する姫君を守る騎士のように。普通の兄妹とは少し変わった関係なのだ。
 アイリーンはカップを持ち上げひと口飲む。美味しい。そう口にすれば、この兄妹は目を細めて微笑を浮かべるのだ。

「兄さま、今日はどんなお話をしてくださるの?」

 エメルダはわずかに身を乗り出して、兄に視線を送った。淑女らしく行儀よくしているけれど、その黒曜石の色をした瞳は期待に輝いている。
 彼らがコテージにやってきてから始まったこのささやかなアフタヌーンティーでは、いつも素敵なおとぎ話が語られる。アイリーンにとってもそれは楽しい時間だった。

 いつかのとき――少女だった頃に過ごした、あの妖精の国での思い出が溢れて、懐かしさで胸がいっぱいになるのだ。

「そうですね……」

 エイリークは考えるように、指先でとんとんと顎を軽く叩いた。
 その時、アイリーンの足元をするりと柔らかな感触が横切った。その小さな影は彼女の膝に乗り上げると、短く「みぁお」と鳴いて身体を丸めて黄金の瞳を閉じた。このコテージのもう一匹の小さな住人。戦前日本から持ち込まれた母猫にそっくりの艶やかな毛並みの三毛猫で、皆から「レディ」と呼ばれるのんびり屋なお嬢さんだ。

「……そうだ。夜の国に落ちてきたライオンの話をしましょう」
「ライオンは落ちるものなの?」

 エメルダは不思議そうに首を傾げた。レディがその横で大きく欠伸をする。

「それは聞いての楽しみですよ」

 エイリークは悪戯っぽく笑って、どこか懐かしそうに遠い目をした。
 低く柔らかな声が、温室に広がる。アイリーンはレディの身体を撫でながら、温かな気持ちで目の前の兄弟を見守った。

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