第二章 02
 春の夜の国では、星の雨が降る数日が続くことがありました。
 獅子座の方向から降ってくるそれらの星を、人間の世界では獅子座流星群と呼ぶようですが、夜の国では『春の星雨』と呼びました。群青色の空から七色の帯を纏って降ってくる星々は、地上に着くと黄金の閃光を辺りに散らして消えるのです。

 夜の国の住人たちはこの星雨の夜を楽しみにしていました。
 彼らは宴を開き、そして星見の丘で輪になって踊り明かすのです。それは常夜のこの国での数少ない、明るい夜のひとつでした。夜の王の城の塔にも魔法の光が灯り、大理石でできたテラスから楽しげな宴の歌が聞こえてくるのです。

 その夜も、辺りにはたくさんの流れ星が降りました。それらはあちこちに落ちては、リンと小さな音と閃光を放って消えてゆくのです。けれど真夜中を過ぎた頃、群青色の空を明るく染める大きな星が現れたのです。
 長い七色の帯を引いたその彗星は、優雅に空を横切っていきます。森の奥深くに建つ〈星見の塔〉にぶつかろうとした一瞬、辺りに眩い黄金の光の輪が広がり、そして、闇に飲み込まれたかと思えば、不気味な静けさだけが残りました。

 その夜から、闇の住人たちの間で不思議な噂がさざなみのように広がり始めました。
 なんでもあの彗星が降ってからというもの、〈星見の塔〉から不気味な獣の泣き声が聞こえてくるというのです。そして噂がすっかり広まった数日の後、夜の王の城を訪ねる者がありました。

 大広間の銀の王座に座った夜の王は、王座を見上げる不思議な気配を、閉じた瞳越しに見つめました。耳にはかずかに衣擦れの音が聞こえてきます。王の隣には、その臣下である狼〈宵の明星〉が静かに控えていました。
 その者は重々しい雰囲気で口を開きました。

「……夜の王のおかれましては、ご機嫌麗しゅう。おれは〈星見の塔〉を守るもの。……困ったことがあるので、助けてもらいたく、こうして参じたのでございます」

 しわがれた老人のような声でした。彼は自分を〈影〉と称しました。
 確かに、その姿は影そのものでした。所々に穴の空いたぼろ布が全身をすっぽりと覆っています。マントの奥の顔は闇のように深い色で、ただ大きな赤い目が見えるばかりです。口もなく、手もなく、マントの端から黒い煙のような靄が漂っていました。夜の国に住まうものの中には恐ろしい姿のものもたくさんいるので、驚くことはありません。

 〈宵の明星〉は背筋を伸ばし、〈影〉を目下に捉えたまま大きな口を開き訊ねました。

「それは、皆が噂をしている〈星見の塔〉の獣のことですか?」
「左様にございます……」

 〈影〉は神妙に頷いてみせました。

「それは塔の最上階にいます。……けど、おれでは近付くこともできない。太陽の魔力を持ったものだから、近付いたらおれは消えてしまいます」
「夜の国に太陽の魔力とは、珍しいですね」

 穏やか声で答えたのは、夜の王でした。

 月から力を得る夜の国のものたちの中には、太陽の力が毒になる種族もいるのです。影は太陽にも月にも属しますが、この国の〈影〉は月の力によってその姿を得ているのでした。
 夜の王は立ち上がると、黒いビロードのドレスの裾を引きずって王座から続く階段を下りました。己の背丈の半分しかない〈影〉に向かい合うように跪き、白い手を〈影〉の空気のように不確かな頬へと伸ばしました。

「よろしいでしょう。わたしがその獣にお会いします」

 赤い唇がそっと笑みを作ります。
 けれど、その後ろで「王!」と諌める〈宵の明星〉の声がしました。夜の王は振り返り、己の忠実な臣下に手を伸ばしました。指先が柔らかな銀の毛並みに触れます。

「そんな顔をしないで頂戴。この国の住まうものたちを守ることは、夜の王たるわたしの義務なのです。皆、あの彗星が落ちた晩からずっと不安に思っているのですよ」
「しかし、貴方の身になにかあっては……」
「その時は、〈宵の明星〉。貴方がわたしを守ってくださるのでしょう?」

 そう言われてしまっては、返す言葉も見つかりません。
 〈宵の明星〉は深くため息を吐き出すと、夜の王を背中に乗せました。

「では、参りましょう」

 夜の王は背中を伸ばし、静かに告げました。
 〈影〉を案内役に、狼は大きく足を踏み出しお城を抜けました。木々の間を音もなく駆け抜ける姿は、まるで銀の風のよう。その晩は新月でしたので、森はいっそう暗く静かでした。時折、目の端に森のあちこちに隠れた夜の住人たちの好奇心で光る瞳が見えることもありました。

 〈星見の塔〉は森が途切れた荒れ野の先に、その威厳とした姿を見せていました。それは海岸に建つ灯台に形が似ていましたが、五階建てであろう最上階の形は少し変わっていました。半円を乗せたような形をしているのです。

 塔の入り口は重々しい木材で作られていて、錠前には開かずの魔法がかけられていました。〈影〉はその前に立つと低くしわがれた声で呪文を唱えました。

 ――汝は賢き鍵、勇敢な守り人、我が声の下にその黄金の錠を解け。

 すると、金属の動く音がして、扉はひとりでに開きました。
〈宵の明星〉から降りると、夜の王は扉を潜り中へと入りました。壁にはめ込まれた月光石の放つ光で、辺りは青白く浮かび上がります。塔の中は吹き抜けになっており、壁に沿うように作られた螺旋階段が最上階まで続いていました。最上階にも扉があるようで、その隙間から黄金の微かな光が零れているのです。

 何よりも気を引いたのは、壁に響いて聞こえてくる泣き声でした。低く唸るような「うおーんうおーん」という獣のような咆哮がこの塔に近付くにつれ大きくなっていき、今では耳を塞いでも漏れ聞こえてくるほどの音量なのです。これでは〈影〉が困ってしまうのも仕方ありません。

 後ろを振り返ると、〈影〉は闇の中へ消えてゆくところでした。「よろしく頼みましたよ」と老人の声が耳元を撫でていきました。

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