第二章 04
「それから公爵さまはどうしたの?」

 話に聞き入っていたエメルダは、呼吸を思い出したように訊ねた。

「彼は荒れていた庭のひとつを貰い、見違えるほどに美しい花園にしました。やがて七つの庭全ての管理を公爵に任せることにしたのですが、その腕前は妖精の国にまで噂されるまでになったのです。今も庭を弄っているんじゃないでしょうか」

 エイリークは少し間を置いて答えた。
 これでおとぎ話は終わりだ。
 エメルダと同じく静かに聞き入っていたアイリーンは、そっと息を吐き出した。すっかり冷めてしまった紅茶を一口飲み、天井をぼんやりと眺める。彼は素晴らしい語り手だ。聞くひとをいつの間にか物語の世界へと誘っていく。

「私、なんだか公爵にシンパシーを感じたのだけれど」
「それはたぶん、アイリーンさんが園芸好きだからだと思いますよ」
「そうね。お友達になりたいわ」

 エイリークはティーカップをトレーに集めながら小さく笑った。紅茶を淹れ直してくれるようだ。
 けれど、珍しいことにエメルダが立ち上がって青年からトレーを受け取った。少し戸惑った顔をした彼に、座るように言う。

「今度はわたしがお茶を淹れるわ。この前、アイリーンに習ったのよ」

 どうやら彼女は、自らお茶を淹る機会を伺っていたらしい。彼らがこの邸宅にやってきてからというもの、エイリークがいつの間にお茶の準備をしているものだから、それが彼の仕事のようになってしまっていた。
 エイリークは何か言おうと口を開きかけたが、ではお願いします、と言うに留めたようだ。

「どうか、落とさないように気をつけてくださいね」
「兄さまは心配性ね。大丈夫よ」

 そう答え、エメルダは温室を後にした。その後ろを、レディがとことことついていったので、きっと見守ってくれるだろう。それでも、彼の視線は温室の入り口から離れない。エイリークにとって、エメルダは大切でかけがえのない、たったひとりの家族なのだ。

「素敵なお兄さんね」

 そんな彼の様子を見て、アイリーンは呟く。
 エイリークはようやくこちらを見た。わかりにくいが、困ったような顔をしている。

「……そんなことはありません。約束を守れなかったから」
「私、今の物語で貴方たちの謎がひとつわかったの」

 アイリーンは青年の胸元を指差した。白いシャツとベストを着た彼の首元には、ループタイが絞められている。その飾りは、深い色をしたアイオライトに似た宝石だ。
 そして、その宝石の真ん中はひび割れていた。内側から割られたような、まるで封じられていたものが解き放たれたような割れ方だ。それを、エイリークは大事に身に着けている。

 アイリーンは、この美しい兄妹に出逢った夜のことを思い出した。
 二度目の世界大戦が終わって数年が経った春先のことだ。
 彼女には大切な待ち人がいた。
 妖精の国に囚われていた少女時代、彼女を現の世界に連れ帰ってくれた少年の背中が脳裏をかすめる。随分と歳を重ねてしまった妹が亡くなり、このコテージを引き継いた頃。彼はアイリーンのたったひとりの血の繋がった家族となった。東洋の血を受け継いだ黒髪と、淡い青色の瞳。白黒写真を見つめては、記憶の中の色を思い出す。彼は未だ帰らない。

 ひとりこの家で待つことに慣れた頃、青年と少女は現れた。
 未だ聞こえる妖精たちの囁きに導かれて夜の森へと足を踏み入れると、開けた空間に二つの影を見つけた。雲に隠れていた満月の光が、だんだんと影の正体を明かしていく。

 アイリーンは息を飲んだ。

 大きな獣――優美な銀の狼が、毛並みを逆立てて、血走った目でこちらを睨んでいた。その傍には白い布に包まれた黒髪の少女が、力尽きたように狼に身を寄せて眠っている。
 アイリーンは一瞬、恐怖に駆られて身を引いたが、妖精たちの必死の言葉がけに踏みとどまった。狼を真っ直ぐに見つめ返し、その青い瞳に人間の名残を見つけた。
 妖精の言葉を囁く。瞬間、狼はぱたりとその場にくずおれて、気を失った。黒い影が辺りに散り、その姿は銀の髪の青年へと転じていた――。

「ありがとうございます。こうして、私たち受け入れてくださって」

 エイリークは瞳を伏せ、静かな声音で囁く。
 アイリーンは頭を振って、右腕をそっと抱いた。ここ数年でついてしまった癖だ。

「貴方たちが来てくれて、この家も随分賑やかになったのよ。エメのはつらつさには、元気をもらえるの」

 エメルダは自分が誰なのかを覚えていない。
 それには複雑な理由があるようだが、アイリーンはこの兄妹の事情を深く詮索しないと決めていた。不思議な出来事に深く関わると何かしらの代償を払うことになるからだ。
 妖精の国から頼まれた、夜の国の大切な客人。
 あちらの世界はとても複雑な決まりごとの中で成り立っている。

「また、貴方たちの大切な国に帰れるといいわね」

 その言葉に、青年は青い瞳を細めた。彼は低い声で短く言葉を紡ぐ。

「ええ、その時がくれば」

 軽やかな足音が近付いてきて、エイリークは立ち上がった。お盆を腕いっぱいに持った少女と、それを軽々と受け取る青年を遠目に眺めて願う。

 どうか、この悲しき運命を背負った兄妹の未来に光があるように、と。

Back | Home | Send message