第二章 03
 夜の王と〈宵の明星〉はお互いに顔を見合わせました。王はそっとその柔らかな首の毛並みに手を添えました。彼に掴まっていれば、何も言わずとも望むところへ導いてくれるからです。ふたりは連れ立って螺旋階段を一歩一歩と上っていきました。近付けば近付くほど、泣き声は悲壮感を増して響きます。

 最上階に続く扉を開いた先には、大小の歯車が組み合わさった景色が広がっていました。隅々から届くのは魔法の気配。その原動力は塔を守る〈影〉の魔法であるようでした。
 機械の隙間からは、あの黄金の光が筋となって辺りを照らしていました。泣き声の主はこの機械たちの向こうにいるようでした。歯車の間をぬって進み、顔を覗かせると、大きな背中が見えました。光を含んだ毛並みをした大きな獣であるようです。

 夜の王は立ち止まり、獣の背中に声をかけました。

「何がそんなに貴方を悲しませるのですか?」

 その凛とした鈴の鳴るような声はよく通りました。
 すると、肩を震わせていた獣は波が引くように静かになりました。

「鈴の音色のお方、貴方様は誰でございましょうか?」

 泣き続けていたせいか、掠れてはいるもののチェロに似た艶のある声でした。
 夜の王は答えます。

「わたしは夜の王。この常夜の国の管理を任されている者です。どうぞこちらをお向きになって、その涙の訳を教えてください。できればその輝きも控えめにしてくだされば助かるのですが」

 すると、大きな獣は顔を拭ってぐるりとこちらに向き直りました。

 大きなライオンでした。
 黄金のたてがみは小奇麗にされており、そこから覗く片方の耳には紫に輝く宝石のピアスが飾られていました。艶やかな短い毛並みは、ビロードのよう。肉質のよい大きな前足の先には、きちんと磨かれた爪がわずかに覗いています。立派なその姿は百獣の王と呼ばれるのに遜色ないように思われました。けれど、ちょこんと行儀良く座る姿は子猫を思わせ、どこか愛らしくもあります。

 〈宵の明星〉がじっと見つめると、彼はどこか照れくさそうに目を細めます。
 怖く感じられないのは、その琥珀色の瞳に優しいものがあるからでしょうか。
 夜の王は〈宵の明星〉から離れると、まっすぐライオンへと歩み寄りました。息遣いが感じられるほど傍に寄り、そっと白い手を差し出します。
 その瞳は閉じられたまま、縁取られた睫が頬に影を落とします。

「貴方に触れてもいいですか?」

 夜の王は囁くように訊ねました。
 ライオンは少し驚いたようでしたが、その理由を察すると、自ら大きな前足を上げて夜の王の手に触れました。そして自分のたてがみへと導くと、目を閉じて王が優しく触れるのに身を任せました。夜の王は輪郭を確かめるように掌でライオンを撫でました。最後に彼の瞼に触れて、ゆっくりと後ずさりました。
 ライオンは夜の王を不思議そうに見つめました。

「夜を統べる美しき夜の王よ、その瞳はどうされたのです?」

 答える代わりに、夜の王はそっと微笑を浮かべました。その傍には、いつの間にか〈宵の明星〉がついています。彼女の目の代わりを果たすために。

 そう、夜の王は目が見えません。硬く閉じられた瞼の向こうの瞳の色を誰も知らないのです。
 そして、それは産まれついたものでも、病によるものでもありませんでした。気付かれないようにとかけられた魔法の下には、古の呪いのにおいがします。強い魔法を持つライオンには、それが感じられたのです。

「……では、まず僕の話をしましょうか」

 ライオンはにこりと白く鋭い歯を見せて笑いました。
 その言葉を待っていたかのように、この部屋に置かれた機械の歯車がひとりでに動き始めました。ぎしぎしと音をさせ忙しなく動く機械。天井で何かが割れる音がしたかと思えば、ドーム型のそれはゆっくりと開いていったのです。

 その向こうには満点の星空が見えました。
 新月の夜、星々は一層輝いて見えます。赤や黄色、青の星は集まりひとつの川となって空を横切っていました。ライオンはそんな夜空を見上げ、語るのです。

「僕は獅子座の方角の、それは遠い星から落ちてきました。僕はそこで『公爵』と呼ばれ、王である兄の補佐をしていました。といっても僕には上に七人の兄がいたし、なによりこんな性格なので政治には疎く……兄達には馬鹿にされてばかりでした」
「それは、酷いですね」

 〈宵の明星〉が呟くと、ライオン――公爵は大きな頭を横に振りました。

「しかたないことだったのです。何せ僕にはライオンが持つ勇敢さはなかったのだから。ですが、僕はそれがなくとも良いと思っていました。兄たちはその勇敢さとやらで、ずっと王座を争っていたのです。何故だか彼らは僕が邪魔になったようで、王に呼ばれた僕は『王族の恥たるおまえはもう要らぬ』と言われて、気付けば彗星になって……」

 そう呟いたとたん、公爵のアーモンドのような瞳から大粒の涙が溢れ出しました。
 それは雨のようにぽたぽたと床を濡らしました。今度は唸り声こそ上げはしなかったものの、肩を震わせて泣く姿はひどく悲しげなのです。
 夜の王は白いハンカチーフを取り出して、公爵の涙を拭いてあげました。

「それは、辛かったでしょうね」

 夜の王は眉を寄せて、見えぬ空を見上げました。星の息遣いが耳に届きます。
 またもや、公爵は首を横に振りました。

「いいえ、いいえ……僕が悲しいのは、置いてきてしまった花園のことなのです」
「花園?」

 静かに頷いた公爵は重たげな前足を上げると、それをこちらへと差し出しました。

 黒く柔らかい掌には、小さな種がありました。すると公爵の周りでかすかな風が巻き起こり、たてがみから黄金の閃光が散りました。ふうっと公爵が種に息を吹きかけると、種から瞬く間に芽が出て真上へと伸び、緑の葉と小さな蕾が現れました。蕾はだんだんと色づきながらゆっくり開いていきます。そして、可憐な青色の花が咲きました。

 公爵はその花を夜の王の掌へと乗せてあげました。
 微かな甘い香りがします。なんと素晴らしい魔法でしょう。夜の国には花があまり咲くことがないのです。

「僕には勇敢さこそありませんでしたが、植物を育てる才能はありました。魔法でいろんな花を育てることが楽しくてしかたありませんでした。僕の作った花園は本当に美しかったのですよ。けれど、僕がいなくなってしまったら花たちは枯れてしまう……そのことを思うと、涙が溢れて止まらないのです」

 それこそが、公爵の深い悲しみの理由でした。
 それほどに彼は花を、植物を愛していたのです。このライオンは、勇敢さの代わりに優しさと繊細さを持って産まれてきたのでしょう。そして何よりも、強い魔力を持ち――本人は気付いてないようですが、それが傲慢な兄達が彼を嫌う本当の理由だったのでしょう。
 夜の王は、再び涙を流し始めた公爵を困ったように見つめました。

「……残念ならが、わたしには貴方を元の星に帰す術は持っていません。ですが……」

 考えるように眉を寄せ、隣に座る〈宵の明星〉の耳元に何事か囁きました。その言葉に、〈宵の明星〉は驚いたように主を見上げましたが、やがて頷き返したのでした。
 夜の王は、公爵、とライオンを呼びました。

「どうでしょう。わたしの城には七つの庭があります。そのひとつをあなたに差し上げたいと思うのですが」

 その言葉に、公爵ははっと顔を上げて夜の王を見上げました。涙がすうと止まります。
 〈宵の明星〉が小さく咳払いをしました。ただ、と前置きをして続けます。

「その庭はひどく荒れていています。また、ここには太陽の光は届きません……それで良ければ、の話です。夜の国では貴方のことを馬鹿にする者もいないでしょうから」
「太陽は必要ありません。僕の中には恒星があるのだから」

 公爵ははにかむように呟きました。
 いつの間にか、空には星雨が降り出していました。きっとこの季節最後の流星群になるでしょう。流れた星の欠片が〈星見の塔〉の中にも降り注ぎます。公爵は尾を左右に揺らしながら光の雨に身を任せていましたが、やがて夜の王に向き合いました。

「この出逢いに感謝いたします、我が王よ」

 その優雅な言葉こそが、ライオンの答えでした。
 彼は夜の王の前に跪くと、その手を取って己の柔らかな額へと寄せました。それは高貴な身分のものの、忠誠や親愛を示す行為です。

「せっかく素敵な贈り物をいただいたのですから、僕からも夜の王に贈り物をさせてください」

 公爵は大きな前足を夜の王の額まで上げ、空中で静止させました。
 再び、あの柔らかな風が舞いあがり、ふたりを包み込みます。公爵は歌うように呪文を囁きました。空から降る七色の流れ星が、公爵の手の中に集まり、形を成していきます。蔦の伸びるように、光は夜の王の額から頭をくるりと囲みました。その真ん中にひとつの宝石が姿を現しました。

 とたん、光はぱっと公爵の手の中へ吸い込まれ消えていきました。
 見れば、夜の王の頭にサークレットの冠がありました。アイオライトに似た楕円形の宝石は、夜空を閉じ込めたかのような深い青紫です。冠は銀色で細く繊細な造りです。

「それは、時が来れば、貴方様を守ってくれるでしょう」

 公爵はそう呟いて、優しくけれどどこか憐憫な笑みを浮かべるのでした。
 その背中で最後の流れ星がゆっくりと彼方へと落ちてゆきました。

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