第三章 03
 果てしない銀色が続く荒野のむこうに、雪の女王が治める国はありました。
 三日三晩走り続けてようやく、氷でてきた宮殿に辿り着いたのです。足の感覚は既になく、ぼんやりとする意識をどうにか繋いで、狼は宮殿の階段を踏みしめました。空では紫色のオーロラがその裾を揺らしています。背中に乗せた妹は未だ起きず、冷たい風に晒された手足や頬は真っ赤に焼けていました。ただ、小さな息遣いが聞こえるだけです。
 長い階段は透明な氷で作られていました。薄汚れた肢体は鉛のように重く、あちらこちらが酷く痛みました。そこにベールをかけるように、柔らかな空気の層が狼を包み込みました。
見上げれば、すぐ傍に大きな身体の美しい女性が立っていました。
全身が白色に覆われ、その身体は少し半透明のようでした。肌には雪の小さな結晶がきらきらと煌めき、頭には、氷でできた立派な王冠が飾られています。
 その女性こそが雪の女王でした。
 無表情のまま、けれど歌うような声で女王は囁きました。
「今は眠りなさい」と。
 これはきっと長い夢に違いないのだ、と兄は重い瞼を閉じながら、そう願いました。

 目が覚めると、そこは大きな広間のようでした。天井を支える太く長い柱は、純度の高い氷でできていました。目の前には同じく氷でできた繊細な造形の王座がありました。
 辺りを雪交じりの一筋の風がひゅっと吹き抜けると、それは女性の形を取って王座に座りました。長い髪をなびかせ薄い衣を纏った雪の女王は、どこか冷たい瞳で狼の姿をした兄を見下ろしました。
 兄はじっと女王の瞳を見返しました。何も宿らぬその瞳は、見るものを凍らせてしまうように思われましたが、彼女は瞳を細めると大きな身体を屈めてそっと狼に息を吹きかけました。雪の結晶の混じったその吐息は、彼の口元をくるりと囲むとすっと消えてなくなりました。
「言葉を与えました。それで話せるようになったはずですよ」
 その冷ややかな印象とは打って変わって、声は慈愛に満ちていました。
 人間の言葉をもたぬ獣だった兄は、ようやく人間の名残をひとつ取り戻しました。
「温情に感謝いたします、雪の女王様。私の妹は……いずこにいるのでしょうか?」
 兄は慣れない口を動かして訊ねました。
 すると、雪の女王の隣に丸い鏡が現れました。目を凝らせば、人間の背丈ほどの大きな銀縁の鏡の中で、黒髪の少女が眠っているのが見えます。その目には、毒々しい黒い蜘蛛の糸のようなものが幾重にも絡まっています。
「この鏡は呪いを見せることができるのです。彼女の傷を癒すことはわたくしには容易でしたが、この呪いを解くことはできません。これは古の呪いなのです」
 雪の女王が何かを引っ張るような仕草をすると、鏡の中から妹が抜け出て、ふわりとその大きな腕に抱かれました。鏡に映っていたあの黒い糸は消えたようでしたが、呪いのにおいは消えないようでした。
 ふと、妹は息を思い出したように身じろぎをしました。けれどその瞳は開かれることはありません。彼女はそのことに戸惑い、恐る恐る手を空へと伸ばしました。
「兄さま、どこにいるの……?」
 その声は震えていました。
 狼は王座に駆け寄り、しゃがみこんだ雪の女王の腕の中を覗き込みました。黒く湿った鼻先を、妹の指にすり寄せました。その指先はびくりと震えましたが、やがてゆっくりと輪郭を辿るように狼の柔らかな毛並みに覆われた顔をなぞっていきました。
「……兄さま?」
「ええ」
「ああ、兄さまの声だわ。わたし、目が開かないの。あの魔法使いのせいなのでしょう?」
 妹は聡明な少女です。すぐに何が起こったのかを察したようでした。
 雪の女王は妹を腕から下ろすと、ふたりを見下ろしました。無表情なその顔は、少し微笑んでいるようでもありました。
けれど、すぐにその声音は低いものになりました。
「あの魔法使いは必ず貴方がたを見つけるでしょう。呪いはそのためのもの……彼は彼女の純粋な魂を欲しているのです」
 雪の女王は腕を一振りすると、鏡にある景色を映し出しました。銀色の大地が瞬く間に離れていき、うなる海を越え、緑の草原を横切って広い森にたどり着きました。驚くほどに澄んだ小川が流れ、美しい花々が咲く春の景色でした。その中を透明な翅をもったものたちが踊っています。
「ここは西の果てにある世界―妖精の国です。妖精の女王にお会いなさい。きっと助けてくれるでしょうから。北風を貸して差し上げましょう。それに乗ればあっという間に海を越えることができます」
 広い天井をびゅっと音を立てて風が渦巻いていました。雪の結晶を伴った無色な姿こそが、北風なのでしょう。
 雪の女王は身体を人間のそれと同じように小さくすると、妹の額にそっと口付けをしました。
「わたくしからの祝福です。きっと、時がきたら貴女を守ってくれるでしょう」
 妹は女王の冷たい手を取ると、その青白い手に己の額をそっと寄せました。
 旅支度を終えると、妹を背中に乗せ兄は雪の女王の宮殿を後にしました。
北風が足元で吹き、やがて吹雪となって狼の身体を舞い上がらせました。振り返ると、宮殿の窓のひとつから女王が見送っていました。その姿は瞬く間に遠ざかり、針葉樹の森の真上を通り過ぎると、すぐに海が見えました。狼は銀色の風となって大地を駆け抜けます。

 黒い海原を渡り、海面に触れるか触れないかの距離で前足を前進させ後ろ足で波を蹴ります。いつの間にか現れたセイレーンたちが、楽しげに歌いながら後をついてきます。上半身は女性の、下半身は魚の形をしたセイレーンたちは悪戯に海の中へと引きずり込もうとするので、そのたび高く飛び上がらなくてはなりませんでした。背中では両手でしっかりと毛並みを握った妹が、顔を埋めてこの過酷な旅路を耐えているようでした。
 セイレーンたちは歌います。
―呪われた子。
―純粋な魂を持った子。
―食べさせてよ。
―その魂をわたしに頂戴よ。
 やがて目の前に恐ろしく高い崖が現れました。それは西の果てにある国の大地なのでしょう。北風の力を借りて大きく飛躍すると、その向こうには海の香りのする荒野が広がっていました。
 北風の案内はどうやらここまででした。
 兄妹は北風に別れを告げると、荒野を駆け抜けました。この姿になってからというもの、不思議と空腹を感じることがなくなっていました。それは妹も同じようで、ただ黙って狼の背中にしがみついて離れようとしません。十二を迎えようとしていた妹は、きっと心細かったのでしょう。
 兄は広がる台地に吹く風を鼻いっぱいに吸い込みました。そうしていると、ある方向から花の魔法のにおいがすることに気づきます。内陸からやってくるようでした。
 彼は妹にしっかり掴まるように言って、荒野を走り出しました。枯れた草がパリパリと足元で音をたて、黒い種を舞い上がらせます。海岸から離れれば離れるほど、風は柔らかくそして暖かくなっていきました。やがて緑の丘が連なっているのが見えてくると、どこからか嗅いだことのない甘い花の香りがしてきます。石で作られた土地の境界線を幾度なく飛び越え、時には羊の群れに妹を預けて眠りました。目が覚めれば、立ち込める霧の中を、あの花の香りを頼りに歩を進めていきます。不思議と人間に会うことはありませんでした。
 時折、蝶のような翅を持つ妖精や赤い帽子の老人の妖精に道を尋ねては、まだ見ぬ妖精の国を目指します。ある泉で水を飲もうとすれば、その泉を住処にする精霊と出逢うとこもありました。彼らは必ず妹の額に口づけをし、祝福を与えました。
 やがて深く広い緑の森の中で、兄は妖精の国へと誘う妖精の騎馬行列に出逢うことが出来ました。それは黄昏時の、僅かな太陽の名残が森を黄金に染める一瞬に現れます。
 兄は行列の後ろにつくと、瞬く間に淡い七色の光が騎馬行列を包み込んでいきました。
花の魔法のにおいがいっそう濃く、近くで香りました。光はだんだんと膨らみ、思わず目を細めた時、辺りはしんと静かになりました。踏みしめていた硬い土は柔らかな感触に変わっていました。
目を開けると、大きな岩の造形物がありました。森は跡形もなく消え、小高い丘の上に立っていたのです。
 その造形物は不思議な形をしていました。巨石が円陣を組むように直立しており、丘の向こうに沈む太陽の淡い黄金が巨石と辺りに広がる野を同じ黄金色に染め上げます。巨大な円陣の真ん中に石の祭壇があり、その上にひとつの影がありました。
 地平線の残光が、影の姿をかたどります。それは凄艶な女性でした。長い肢体を優雅にしならせ薄い衣を身に纏っていました。黒に近い深い色の緑の長髪が、わずかな風にそよぎます。何よりも目を惹いたのは、そのこめかみから伸びた、鹿の角にも木の枝にも似た不思議な角でした。その先には薄紅色の花が咲いていました。さんざしに似たその花からは、甘い芳香がします。ずっとこのにおいを追いかけてきていたのです。
「妖精の女王……」
 兄はその姿に魅入ったまま呟きました。
 彼女は妖艶な笑みを浮かべ、立ち上がりました。
「良く来た、哀れな子供たちよ。われはティターニア。妖精の国を統べる王の妻であり、妖精たちの母だ」
 言葉ひとつひとつを紡ぐように、落ち着いた深い声音で妖精の女王―ティターニアは告げました。
 そして狼へと近付くと、その頭にそっと触れます。身体の中を温かなものが流れ込んできたような気がしました。ティターニアはしばらく目を閉じていましたが、やがて滑るような仕草で離れていきました。
「ここまでは大変な道のりだったのだろう。雪の女王の伝言は受け取った」
 それは兄の見てきた景色を読み取るための魔法だったようです。妖精の女王は頬にそっと手を寄せて考える風をしました。けれど、訪れようとした沈黙は妹の呼びかけによって破られました。
「妖精の女王さま、どうか兄さまの呪いを解いてはくれませんか」
 その言葉に兄は驚き、背中から飛び降りた妹を見上げました。少女は見えぬ目で、けれど瞼の下に意志の強さを隠してティターニアに願い出たのです。握られた拳は微かに震えています。その様子に気付いてか、ティターニアは小さく笑みを零しました。
「清らかな魂を持つ子供よ、こちらの世界にも決まりがあるのだ。われにおまえたちの呪いを解くことはできぬ。呪いというのは呪いをかけたものか、呪いをかけられたもの自身かが解くしかない。おまえたちに呪いをかけた魔法使いは、かつて神に近しいものだった。それが罪を犯し、人間の世界に追放されたのだ」
 この場所は、まるで時間がないようでした。彼方にある太陽は未だ地平線で留まっています。その反対では、群青色の夜が迫り、真上を、風に吹かれて雲が瞬く間に過ぎていきます。
 妖精の女王は続けます。
「魔法使いはおまえの妹の純粋な魂を手に入れたくて、呪いをかけたのだ。旅の中で受けた数々の祝福で守られているから、あのものは簡単に見つけ出すことはできなくなった。だが現の世界のひとつところに留まっていれば、すぐに見つかってしまうだろう」
「わたしたちはずっと逃げなければならないのですか?」
 気丈な妹は声が震えるのをぐっと堪え、掠れる声で問いかけます。
 兄はそんな妹の腕に狼の身体を摺り寄せ、安心させるように長い睫を視線でなぞりました。
「ずっと逃げたって私はかまわないよ」
 それは兄の本心でした。この長い道のりの中、ずっと考えてきたことです。ティターニアが言う前から、兄はあの魔法使いが追いかけてくると確信していました。たとえ世界の果ての大地にたどり着いたとて、どこへでも妹とともに逃げていこうと決めていたのです。
「優しき兄妹たちよ、残念ながら妖精の国におまえたちを置くことはできぬ。その古の呪いは力の弱いものには毒だから。われはわれの子供たちを守らなければいけない」
 しかし、と妖精の女王は慈愛に満ちた表情で囁きました。
「純粋な魂の子供が夜の国の王になるというのなら、この世界に居場所を与えよう」
「夜の国?」
 妹は狼の毛並みにぎゅっと身体を寄せました。
「そう、妖精の国と隣り合う姉妹のような存在だ。妖精の国が太陽の昇る国ならば、夜の国は月の昇る国。そこには月の力をもつ闇のものたちや呪いを持つものたちが住まう」
 ティターニアは向かいの空を指し示しました。群青色の夜が迫る彼方の場所に、星が瞬いています。その先が夜の国だというのです。
「わたしが王になればいいのですね」
 妹の硬く閉じられた瞼が微かに震えました。強く握り締めたままの拳は白くなっていました。その見えない瞳は、けれどしっかりと妖精の女王を捉えていました。
 少女は小さく、けれどはっきりと頷きました。
「わかりました、夜の王になりましょう」
 とたん、ティターニアは妖艶な仕草で笑顔を作りました。そして静かに妹に近付くと、その頬を両手で包み込み、そっと己の頬に寄せました。
「哀れな子供よ、運命に抗うおろかなものよ、新たな王に祝福を与えよう」
 歌うように囁きながら妖精の女王は、少女の額に口付けを落としました。
「おまえの名は〈星月夜〉」
 それは、新しき王の誕生を知らせる鐘でした。

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