これは昔むかしの、遥か北の雪深い大地から始まる物語。
西に針葉樹の森と東に凍った湖のあるその町の外れには、領主の立派な城がありました。
領主にはふたりの子供がいました。銀色の髪の聡明な兄と黒く豊かな髪の優しい妹。歳こそ九つ離れていましたが、ふたりは大層仲が良く、妹は兄の後ろについて行くのが常でした。
吹雪が収まったある冬の日、兄は臣下と狩りに出ることになりました。
妹は一緒に行きたくて、兄のマントを掴んで離しません。これでは出立できぬと困り果てた兄は妹を栗毛の愛馬に乗せ、その後ろに跨ると、城のもの達とともに白く輝く森を駆け抜けました。温かな毛皮のマントや手袋をどれほど着重ねても、真冬の空気は冷たい刃となって頬を切っていきます。
妹は兄に抱かれたまま楽しげに笑いながら、あたりをきらきらと舞う雪の結晶を見上げていました。その黒曜石のように美しい瞳もきらきらと輝くようでした。
日照の短いこの季節は、瞬く間に夜が空を覆っていきます。太陽が西の高い山へと隠れようとする頃、狩りの一行は城に戻るために森を引き返すことにしました。朝には楽しげにしていた妹も、寒さと慣れない乗馬にすっかり元気を奪われたらしく、兄の胸の中に背中を預けてじっと静かにしていました。
けれど、不意に妹は声を上げました。
「誰かいるわ」
その言葉に、兄は妹の視線の先を辿り、はっと息を飲みました。
雪の中に黒い塊がありました。それは古びたマントのようでした。兄は馬から下りると、妹に動かぬよう言付けてから、その黒い塊へと走っていきました。深い雪に足を取られながら辿り着くと、それは確かにマントで、微かに上下しているのがわかりました。生きていると、兄は思いました。けれど、このままにしては、今晩には凍死してしまうでしょう。
兄はマントの上から、その薄い体を軽く揺すりました。唸るような声を聞いて、生きていることを確信すると、臣下を呼んで城まで運ぶように伝えました。最果ての荒れた大地だからこそ、困っている人間がいれば躊躇いなく助けるのです。お城に着くと、兄は両親に事情を話し、行き倒れた人間を自ら介抱しました。
その人間は男でした。老いているようにも若いようにも見える不思議な顔の造形をしていて、その手は何やら魔法の言葉が書かれた包帯が指先まで巻かれていました。青白い顔を縁取る藁のような髪は無造作に伸びています。顔の右半分にも、目を覆い隠すように包帯が巻かれていました。こんな大怪我を抱え、男はどうしてあの森の中を彷徨っていたのでしょうか。兄は不思議でなりません。
その男は三日三晩深い眠りについた後、冬至の朝に目を覚ましました。
「ワタシは魔法使いと呼ばれるものですよ」
部屋に入ってきた兄の考えを見透かすように、男は口の端で笑ってそう呟きました。顔の半分が陰になっているせいか、猫のような目を細めて笑う男はどこか不気味でした。
兄の中で警鐘が鳴ります。けれど、透明の糸で足を地面に縫い付けられたかのように、その場から離れることができません。
魔法使いは鷹揚な仕草で手を上げます。
「ワタシをここに連れてきてくれたお礼に、キミに自由を与えよう」
金属同士がぶつかるような声でそう告げ、その手は横一文字に振られました。
身体の中で何かが熱くなってゆくのを感じます。それは痛みを伴い、変形していきます。気付けば、獣の息遣いが耳のすぐ傍で聞こえました。自分の息遣いのようなのです。
ぼやけた眼で、魔法使いを見上げまず。男はにたりと笑って、「さあ好きなところへ行くがいいさ」と部屋の窓のひとつを開け放ちました。外では雪が深々と降っていました。つんと冷たい水のにおいがします。
兄は鼻をくんくんとさせると、考える間もなく風のように外へと飛び出しました。
雪に混じるその姿が、銀色の大きな狼となっていることも知らずに―。
狼は暗い夜の森の中を駆けてゆきます。
耳が良く聞こえるせいか、あちらこちらで隠れてこちらを見ている生き物の気配がしました。鼻を突く冷たい空気に混じって、雪の下から水を含んだ土のにおいがしました。こうして走っていると、自分が何ものであったかをだんだんと忘れるように思えました。ただひたすらに四つ足を動かし、針葉樹の間を走り抜けます。
やがて空に大きな月が姿を現し、白に染まった森を淡い黄金色で照らし出しました。
狼は森の境にある崖のひとつに飛び上がり、丸い満月を見上げて遠吠えをしました。
大きな月はぽっかりと夜空に穴を空けたようでした。その光を浴びていると、不思議と力がみなぎるように思えるのです。
「狼よ、戻らなくてよいのか」
背後で声がしました。
耳をそばだてると、木々のひとつの太い幹に重たげな獣が座っています。風を切る微かな羽音は梟のものでした。その声は諭すように優しげでした。
狼は答えます。
「どこへ? 私はこんなにも自由だというのに」
それは人の耳にはただの唸り声に聞こえる、言葉のない声でした。
「それは魔法使いの呪いだ。若き領主の子よ」
梟の言葉に、狼ははっと振り返りました。
夜目を凝らせば、枝の影になったところに白い立派な梟が羽を休めていました。その黄金の目が闇夜に光って、狼を見つめています。それは、森の精霊の化身でした。
「おまえはもう戻れないよ。呪いとはそういうものだから」
「……私はどうすればいいのでしょう?」
狼の淡い青色の瞳に、段々と人間らしさが戻ってきました。
梟は首を回して、森の向こうを指し示しました。
「さあ、来た道を戻りなさい。手遅れになる前に、己が大切に思うものを失くしてしまう前に」
兄は愛おしい妹のことを思い出しました。
そして導かれるままに、元来た道を辿っていきました。後ろ足で雪を蹴り、風よりも早く森を駆け抜けました。耳元で梟の声が木霊します。
「悲しき子供らに、祝福があらんことを」
その言葉の意味を考えることはとても難しいことでした。
やがて、城の塔が見えてきました。長く裂けた口の端から白い息を吐き出し、明かりの灯った部屋を見止めると、狼は躊躇うことなく大きく飛躍しました。大きな身体が厚く作られた窓にぶつかり、粉々に割れた硝子が身体を切るのもかまわず、狼は部屋の中へ転がっていきました。
素早く体勢を構えると、部屋の隅にあるベッドへと視線を走らせました。
静かに眠る美しい妹の傍に領主である父が立っています。
いいえ、それは父ではありません。鼻を突く腐敗臭は、あの魔法使いからしていたもの。そう、あの恐ろしい男は領主の身体を自分のものにしたのです。兄は自分が引き起こしてしまった不幸に、顔を背けたくなりました。夢であればと、けれど、過去は変えられぬことも知っていました。
「オヤオヤ」
と、魔法使いは領主の整った髭をなでてにやりと笑いました。三日月のように歪んだ瞳は、父のものではありませんでした。
「なんと優しい兄なのでしょうな。でも、少し遅かった」
男は笑みを崩さず、手を振り上げました。
すると妹の身体を、闇から紡ぎ出された黒い糸のようなものが這っていきます。それは彼女の目を覆いました。深い眠りに着かされた妹は目を覚ましません。狼は唸り声を上げました。全身の毛を逆立て、魔法使いを睨みます。魔法使いはそれがよっぽど愉快と見えて、饒舌に語り出します。
「美しい娘でしょう。きっとこの身体なら、ワタシは苦しみから解き放たれるでしょう。腐る身体を変えるのではなく、今度こそ永遠の命を……」
続く言葉はおぞましい悲鳴に変わりました。
狼が魔法使いの手を食いちぎり、眠る妹からから黒い糸を引き離し、その背中に乗せて月の光の降り注ぐ外へと駆け出しましたのです。広い森の中へと入り、振り返らずにただただ駆けてゆきます。その後ろから恨めしげな魔法使いの声が、風となって狼を追いかけていきます。
「許さんぞ、小僧。必ず見つけてやる」
けれど、声は再びあの耳ざわりな悲鳴となってかき消されました。
その時、真上を大きな羽を広げた白梟が鋭い鉤爪を伸ばして飛び去り、真後で追いかけてきた「何か」を捕まえたようでした。優しげな声が、頭の中で響きます。
「悲しき業を背負った兄妹よ、この森を抜けて北の果てにある雪の女王を尋ねなさい」
きっと力を貸してくれるでしょう―その声をしるべに、狼は走り続けました。