第一章 03
 そして月は満ちては欠け、季節は移り変わり、一年経とうとしていました。
 男は約束の次の満月に戻ることができず、そして〈月の貴婦人〉は地上に囚われたまま、やがて涙を流す日が増えていきました。ニンフは愛するものが愛してくれない限り、その呪縛から逃げることはできません。満月の夜がやってくるたび、月の女神の仕えるニンフたちが歌うように囁くのです。

――可哀想な〈月の貴婦人〉。
――硝子の涙を流す、哀れな〈月の貴婦人〉。
――あの男は約束を違えたのよ。
――約束を違えた。
――さあ、お食べよ。
――探し出して、その魂をお食べ。

 ハープの調べのような声音で、なんと残酷なことを言うのでしょう。
 けれど、梟はただ見守ることしか出ないのです。
 悲しみに暮れる夜が続くと思われたそんなある日のことです。〈月の貴婦人〉に呼ばれ、梟は泉の畔に降り立ちました。その夜は、不思議なことに彼女の目に涙はありませんでした。ただ静かに、星の瞬く空を見つめていました。

 やがて、〈月の貴婦人〉は言葉を紡ぎました。

「わたくしの大切な友人、庭の番人よ。貴方にお願いがあるのです」
「私でよろしいのですか?」

 梟は思わず聞き返しました。
 梟は魔法が使えるわけではありません。ただ、長い年月を生き言葉を得ることができただけなのです。夜の王よりこの庭を守る番人としての役割を与えられただけなのです。そんな己が果たして、何の役に立てるのでしょう。
 〈月の貴婦人〉は小さく笑いました。ずっと見ることができなかった表情です。

「貴方はいつだってわたくしを慰めてくださいましたね。だからこそ、貴方に頼みたいのです」

 梟は一瞬くちばしを噤み、そして優しきニンフを見上げました。

「……お聞きしましょう」
「親切な友人よ、感謝いたします」

 〈月の貴婦人〉は深く頭を垂れました。
 そして立ち上がり、梟へと腕を差し出しました。梟は少しためらって、できるだけ傷つけないように、そっとその腕に乗りました。
 美しき心のニンフは『月光の庭』を抜けて森へと入りました。それは、あの男を案内したのと同じ道を辿っているようでした。
〈月の貴婦人〉は告げます。

「わたくしは、あの方が約束を違えるような人間とは思えないのです。あの澄んだ水面のような瞳の奥はに真実がありました。けれど、月日は過ぎるばかりなのです。この約束が呪いに変わる前に、わたくしは確かめなければなりません」

 やがて森が途切れます。ここから先は現の世界です。丘の向こうに見える地平線には、夜の国には訪れぬ、淡い紫の朝焼けが見えます。

「どうかその翼をお貸しください。そしてあの方を、どうか見つけて」

 〈月の貴婦人〉の腕が振り上げられ、梟は風に乗って羽を広げました。
 音も立てずに空を滑翔しながら振り返ると、星空の下に広がる深い森の傍で、こちらを見上げる白い娘が見えました。黄金の目を凝らせば、その頬に流れる硝子のような雫が見て取れます。ああ、どうか泣かないで、と梟は祈るように心の中で囁きました。そして、風に乗って丘の向こうへと飛んでゆきました。

 いくつもの丘を越え荒れた平原を低く飛び、時折羽を休めては、水晶の花の咲く島のありかを妖精たちや森の仲間に尋ねながら幾日か過ぎました。
 幸運なことに、今まで道を尋ねたものたちはあの美しい男のことを覚えていたのです。
 そうして男の旅路を辿っていく途中、北風に吹かれる土地の向こうに海が見えました。崖を飲み込まんとするように、白い波しぶきを上げて、獣のように海は低く唸ります。黒に近い深い青い海を越えた向こうに、目指す島がありました。
 梟は疲れた羽を精一杯広げ、海面を低く飛んでいきました。冷たい水しぶきが羽を濡らし、セイレーンたちがいたずらに笑いながら追いかけてきましたが、梟はただただ先を急ぎました。春風の名残が、ふわりと梟の背中を押します。


 やがて、黄金の瞳に島影が映りました。霧に囲まれた淋しい島でした。高い崖を飛び越え、梟は貧相な低木に止まりました。
 露に濡れた羽先を一振りし、身づくろいを済ませてようやく一息つくことができました。辺りを見回すと、その島はそれほど大きくはありませんでした。島の端には朽ちた建物があるばかりです。飾られたステンドグラスの絵から、その建物が教会であるということがわかりました。

 この島は、夜の国のある大きな島よりもさらに北にありました。雪の女王が支配する領域。低く垂れ込んだ灰色の雲の合間から、きらきらと雪の結晶が北風に乗って舞い上がります。
 梟は小さく身震いをすると、割れた窓のひとつから朽ちた教会の中へと入りました。
 薄暗い中を黄金の目で見渡せば、祭壇で身動きをする石のような生き物を見つけました。

「おまえは誰だ?」

 不愉快で地響きする声でした。同時に、緑色の大きな目が祭壇から現れました。

「私は夜の国のものです」
「夜の国……?」

 乾いた声がさらに問いかけ、聞いたことがないな、と狡猾さを含んだ目を細めます。
 石のような生き物はゆっくりと身体を伸ばしました。古びた布を身体に巻きつけ、背中には緑色の苔が生えているようでした。その顔には何重にも皺が寄り、鼻は大きく、そして耳は鋭く尖っていました。息を吐き出すたび、雨に濡れた土のにおいがしました。
 梟は努めて紳士的に答えました。

「ええ、夜の国でございます、偉大なる北地の精霊トロール殿。私はさる男を捜しに、この島まで飛んでまいった所存です」

 ふんと、トロールは鼻で笑いました。意地が悪そうな声で続けます。

「その男なら知っているぞ。金色の髪をした、妖精の国の愛おし子だ。ああ、来たとも、来たとも。水晶の花を探していると言っていたか」
「その御仁は何処に行ったのでしょう?」

 トロールはにやりと笑い、暗がりを指さしました。

「地下の扉を抜けた洞窟の先さ」

 狡猾なトロールが素直に答えたことに、梟は少し身構えましたが、礼を述べて祭壇の向こうにある地下へ続く階段へと飛んでいきました。
 暗い穴の中は水の落ちる音ばかりが響きます。夜の国の住人であり、夜目の利く梟にとってこの闇は大したことではありませんでした。鉤爪を伸ばして階段を下りてゆくと、入り口からトロールの歌う声が微かに聞こえてきました。

 ――哀れな男と可哀想な月の娘、ああ、何と滑稽な悲劇なのだろう。

 梟はひどく嫌な予感がしました。
 羽を広げ急いで階段を降りてゆきます。階段が尽きた先には、鍾乳洞の高い空間が広がっていました。驚くことに、あちらこちらに色とりどりの水晶が光を放って辺りを照らし出していたのです。梟はその明るさに思わず目を細めました。

 そして、その空間の真ん中に男の姿を見つけました。

 ああ、なんということでしょうか。梟はこれが夢であればと強く願わずにはいられませんでした。
 男の姿はすっかり変わり果て、その身体は水晶の彫刻へと転じていました。

「……何といたわしい」

 梟は低く唸りました。彼は〈月の貴婦人〉の元に帰らなかったのではなく、帰られなくなっていたのです。彼を象る水晶からは微かな呪いのにおいがしました。あの憎らしいトロールがかけた呪いに違いありません。心優しき男は、騙されてしまったのです。

 見れば、その手には一輪の紫色の水晶の花が握られています。僅かに発光する慎ましい花。

 梟は己の瞳から涙が出るとは知りませんでした。ぽたぽたと地面に落ちる雫に気付いてようやく、それが己の目から溢れるものであるとわかったのです。
 この花を〈月の貴婦人〉に届けなければ、と梟は思いました。男の想いを届けなければならぬと、それが己の使命だと。

 梟はそっと男の手から花を受け取りました。
 けれど、油断してしまっていたのです。この洞窟全てにトロールの呪いがかけられていたのです。
 花の香りがします。今までに嗅いだことのない甘い香は幻想的で、瞬く間に梟を眠りへと誘います。目を閉じるその一瞬、トロールの悲鳴と狼の遠吠えが聞こえたような気がしました。

「もう少し、お眠りなさい」

 柔らかな女性の声とともに温かなものに包まれて、梟の記憶はそこで途切れました。

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