第一章 04
 目が覚めると、そこは夜の王のお城でした。
 霞がかった視界いっぱいに、蝋燭の明かりが広がります。梟は、ほう、と小さくくちばしを動かしました。未だぼんやりとする頭をゆっくりと動かし、絶えず横についている気配に視線を注ぎました。
 ぼやけた視界がはっきりしていくと、それが大きな獣――銀の毛並みの狼であることがわかりました。青い瞳がじっと梟を見つめています。
 梟はぎょっとして、身体を起こしました。

「〈宵の明星〉さま!」

 けれど、答えたのは鈴の転がるような若い娘の声でした。

「目が覚めましたか?」

 声のしたほうを探せば、銀の王座に腰掛ける姿がありました。中世風の漆黒のドレスに身を包み、長く緩やかな黒髪を流した美しい娘です。瞳はかたく閉じられ、長い睫が頬に影を落とします。
 そう、目の前に座る娘こそが、この夜の国を管理する『夜の王』でした。
 そして〈宵の明星〉と呼ばれた狼は夜の王を守る臣下でした。

「月光の庭の番人たる梟さん、どうか話しを聞かせてはもらえませんか?」

 夜の王が優しく微笑みかけます。その手には水晶の花が握られていました。
 梟は身体を起こし、王を見上げました。躊躇うように、ゆっくりとくちばしを動かします。

「ああ、夜の王よ、どうか私の願いを聞いてはくれませんか。貴方様は、どうして私があの洞窟に行ったのか知っているのでしょう? どうか、〈月の貴婦人〉のために一夜だけ魔法を授けてくれませんか」

 永遠ともとれる沈黙が、王座の間を侵食するようでした。
 ようやくして夜の王は、そっと囁くように言いました。

「よろしいでしょう」

 そして梟を王座へ手招きしました。
 王座の肘掛に羽を休めた梟に、王はあの一輪花を差し出しました。

「その花には、あの者の魂が宿っています。どうすればいいかは〈宵の明星〉が教えてくれるでしょう」

 梟は水晶の花を受け取りました。

「さあ、お行きなさい。満ちた月が彼方へ消える前に」

 夜の王の細い指先が梟の頬羽へと伸ばされ、慈しむように撫でました。
 その硬く閉じられた瞳は何も映すことができぬというのですが、夜の王はすべてを見通しているようでした。
 〈宵の明星〉が静かに四体を起こしました。そして優雅に前足を上げ、水晶の花にそっと触れました。白い牙を覗かせた口が、低く歌うように言葉を紡ぎます。
 
 ――あなたは月夜に咲く花、わたしはその使者……
 
 小さな歌が風となり、梟の身体を包み込みます。
 それは瞬く間に一陣の風となり、梟は羽を広げ風とともに城を駆け抜けました。
 灰茶の逞しい翼はだんだん伸び、火花のような七色の光を纏った梟は、月影の下でその姿を転じました。


 今宵も『月光の庭』にあの硝子の落ちるような音が微かに響きます。
 満月は淡い銀色の光を庭の東屋の屋根に落としていました。〈月の貴婦人〉は満月を見上げ、硝子の雫をころころと瞳から落とします。ああ、愛すべき人間だけでなく、わたくしは大切な友人を亡くしてしまった、と美しい娘は静かに嘆きます。

 今宵は満月。夜が深まれば、月の女神に仕えるニンフたちが現れるでしょう。
 ふと、辺りを細い七色の光が走ってゆきました。火花のように不確かで、けれど魔法を纏った光です。
 〈月の貴婦人〉は、はっと振り向きました。
 そして、息を飲みました。

「ああ、貴方は……」

 そう呟き、水の上を駆けて泉の畔へと舞い降りました。淡い色の長い髪が、風になびきます。彼女は白い腕を広げ、その人影を抱きしめました。
 それは愛おしい男でした。柔らかな金糸のような髪と、忘れようもないあの澄んだ泉のような淡い瞳。〈月の貴婦人〉が待ち焦がれた姿に違いありませんでした。
 男は強く娘を抱きしめると、耳元にそっと囁きました。

「約束を果たしに来ました」

 その言葉に、〈月の貴婦人〉は身体を男から引き離します。その表情は、悲しみで歪んでいました。ずっと待っていたはずなのに、どうしてこんなにも胸が痛むのでしょう。
 〈月の貴婦人〉は知っていました。彼は自分を解き放ちに来たのです。そして、ようやくそれが永遠の別れをも意味することに気づいたのです。長い月日は〈月の貴婦人〉にひとつの感情を与えました。ニンフにはないはずの『心』を、彼女は持ってしまったのでした。

 美しい娘の悲しげな表情に、男は――魔法でかりそめの姿となった梟は、胸を締め付けられるようでした。
 男とそっくりにできていても、これはかりそめの姿。偽りのものなのです。けれど、〈月の貴婦人〉に真実を告げることがどうしてもできませんでした。せめて、この一夜だけでも、そう願ってしまったのです。

「どうかこの花をお受け取りください」

 男の姿をした梟は、水晶の花を差し出しました。
 どこかぎこちなく動く手は、この姿に慣れていないせいでしょう。彼はその場に跪き、〈月の貴婦人〉を見上げます。彼女はどこか夢うつつに揺れる瞳で花を見つめ、そっと花に触れました。

「ありがとう。あの方の魂をつれて帰ってきてくれたのですね」

 その言葉に、男は――梟は、はっと顔を曇らせました。
 耳元で、鏡の割れるような音が響きます。身体から光が剥がれ落ちるように魔法が解けていく音です。
 〈月の貴婦人〉は微笑んでいました。まるで全てに気付いているように。

 そして、花を滑らかな白い頬に寄せ――

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